第39話 ゼミ室にて
中性子実験の方針を神崎さん、緒方さんと決めた数日後の朝、研究室に出勤すると神崎さんから連絡があった。
「もう着いた?」
すぐに返す。
「今ついた」
すると、
「ちょっと聞きたいことあるから、榊原研まで行く」
ときた。
「こっちから行こうか?」
「資料はそっちのほうがあると思う」
「了解」
おそらく実験関係で聞きたいことがあるのだろう。
ちょっとして神崎さんがやってきた。ゼミ室のテーブルのほうが試料が広げやすくていいだろう。神崎さんをゼミ室に案内してから、居室に資料を取りに一旦戻る。
資料を神崎さんの前に並べて、
「コーヒーでも飲む?」
と聞いてみたが、
「ありがとう、でも長居したら悪いから。で、今度の実験だけど……」
と言われてしまった。僕としては長居してもらってかまわないのだけれど……。
神崎さんの質問はまず、東海村で使う分光器の名前からだ。中性子散乱実験と言っても実験装置に寄って測れるものが違う。別の言い方をすれば得意分野が異なる。だから機材の名前から聞くのは理にかなっている。名前を伝え、その機材の基礎データを伝える。
「液体ヘリウム温度は可能?」
神崎さんの質問は的確だ。中性子散乱実験では、当然中性子線をサンプルに当てる。液体ヘリウムは低温の実験にはつきものの寒剤(冷却材)だが中性子線をあてるとがっちり散乱してしまう。試料が中性子線を散乱するのをみたいのに、寒剤の液体ヘリウムが中性子線を散乱してしまう。だから液体ヘリウムを中性子線にあてないようにしなければならず、冷却性能に影響がでてしまうのだ。
「10Kくらいが限度だね」
10Kというのは液体ヘリウム温度より6度近く高い。
「そうか」
神崎さんはちょっとがっかりしている。
「今回の実験は高温超伝導体だから、10Kでも十分低音だと思うけど」
と伝えると、神崎さんは、
「そうだね」
と納得してくれた。
「ありがとう、またわからないことがあったら、教えてね。長時間ありがとう」
「僕としてはいつでもOKだよ。じゃ、また」
また、とは言ったものの、もっと話をしていたかった。神崎さんは颯爽と自室へ戻っていった。
そう言えば実験で到達できる最低温度は伝えていたが、冷却にかかる時間を伝えるのを忘れていた。神崎さんは実験計画を考えているようだったので、冷却時間は絶対に必要な情報だ。SNSで伝えておく。
「一回の冷却に約二時間かかるよ」
しばらくしたら、
「ありがと」
と返信があった。
翌日も神崎さんは朝のうちに実験計画をざっと立てて説明しに来た。
「サンプルを液体ヘリウム温度に冷却するのに二時間、そこから温度一度刻みで上昇させながら実験すると……」
僕は口をはさむ。
「神崎さん、サンプルのサイズは?」
サンプルのサイズが大きいと冷却に時間がかかる。だけど中性子線の信号は強い。ただし、資料によってはサンプルケース一杯の大きさに用意できないこともあるだろう。
「え、サンプルのサイズは、試料容器いっぱいじゃないの?」
やっぱり神崎さんはサンプルサイズを考えていなかった。
「う~ん、単結晶だと、サンプルは小さいんじゃないかな。ものによっては大きなサンプルが用意できる場合もあるけど」
「複数の単結晶を容器に詰め込むことはできないの?」
「うん、サンプルの量があればそうする。だけど、その量が用意できない場合も多いよ」
「そうか、それはのぞみに聞かないとわかんないね。あとで聞いてみる」
神崎さんはがっかりして、自室に帰る支度を始めた。これにも口をはさむ。
「神崎さん、試料容器いっぱいの仮定で、とりあえずの話を聞かせてよ」
ひとつの問題でいちいち話が途切れていては、他の問題点があると発見が遅れる。だから神崎さんの現段階での考えを一通り僕は聞いておきたかった。
「修二くん、ありがとう。それじゃあ……」
神崎さんは説明を続けてくれた。
現段階、大きな問題は感じられなかった。
一通り話をした神崎さんは、ちょっと疲れたみたいで昨日のようにすぐには立上がらなかった。疲れたと同時に実験計画に大きな問題がなく、ほっとしたのだろう。
「今日はコーヒー飲む?」
「うん、いただく」
神崎さんはにっこり笑ってくれた。
二人分のコーヒーを淹れ、ゼミ室のテーブルに向き合って座る。視線があって、意味もなく二人で笑いあった。
僕は気になって聞いてみたいことが合った。
「神崎さん、実験についてよく勉強してるみたいだけど、理論のほうは大丈夫?」
現代物理学の理論研究は、実はスタートラインに立つこと自体が難しい。神崎さんのような修士課程の一年目は、研究というよりも現代に追いつくための勉強に多くの時間を費やさざるを得ない。その辺の事情は明から聞いていた。
「うん、時間帯によってやることを決めてるから大丈夫。午前は中性子の実験、午後は数値計算だね。家帰ってからもちょっとはやるよ」
「ふーん。でも一日中勉強って、すごいね。いき詰まることもあるでしょう」
「そういうときはね、別の勉強をして気分転換する。そうすると意外と解決方法がわかることもあるのよ」
感心していると神崎さんは時計を見て、
「あ、時間取らせちゃった。ごめんね」
と言って、自室に帰っていった。
僕はもうちょっとゼミ室に座って考えた。神崎さんは時間をやりくりして、実験のことについても僕よりも勉強している。僕もいろいろと勉強しているが、どうしても手作業に時間を取られている。僕は技術屋になりたいわけじゃない。物理学者になりたい。なんとかして勉強時間を確保しないといけない。
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