第3話 比熱の実験

 篠田先輩に連れられて測定室に入った。

 

 真ん中に、高さ1メートル強のガラス製の魔法瓶が立っている。デュワー瓶とも言われる。鉄のアングルで支えられている。デュワーの近くには大きなタンクが2つあり、グレーのにはマイナス196度の液体窒素、銀色のにはマイナス296度の液体ヘリウムが入っている。

 デュワーは二重になっていて、外側に液体窒素、内側に液体ヘリウムを入れる。その液体ヘリウムに測定装置をジャブ漬けにして冷やす。比熱の測定では装置が大きめになるので、冷やすのに時間がかかる。

 

 始めに内側のデュワーに液体窒素を入れる。いきなり液体ヘリウムを入れると温度差が大きく、高価な液体ヘリウムが大量に蒸発してしまうからだ。予冷という。篠田先輩が液体窒素のタンクを操作して見本を見せてくれる。

「液体窒素を扱うときは、軍手はダメだからな。液体が布に染み込むとそこで留まって凍傷になるぞ、素手のほうがマシだ」

 基本は革手袋を装着する。ちょっと待って内デュワーをひっくり返して液体窒素を捨て、外デュワーの中に吊り下げる。外デュワーに液体窒素を注ぐとき、篠田先輩は僕にやらせてくれた。

 

 次に予冷済みの内デュワーに液体ヘリウムを入れる。トランスファーチューブという断熱された細長い専用の道具を用いる。トランスファーチューブを液体ヘリウムタンクに挿入すると、トランスファーチューブの熱で液体ヘリウムが蒸発し、圧が上がってトランスファーチューブを通して液体ヘリウムが吹き出してくる。

 内デュワーの底の方に噴出する液体ヘリウムを当てるように、深く挿入する。液体ヘリウムからすればまだ熱いので、蒸発したヘリウムガスが吹き返してくるがそのガスが内デュワーを効率良く冷やしてくれる。

 篠田先輩の説明はとてもわかりやすい。

 液体ヘリウム温度まで装置全体を液体ヘリウム温度まで冷やすのにほぼ一晩、その日は帰宅できた。

 

 翌日登校すると、眠そうな眼をした篠田先輩が待っていた。

「おー唐沢くん、冷えてたからさ、実験始めちゃった」

 朝方液体ヘリウム温度まで装置が冷却されていたので、篠田先輩はポンプを使って内デュワーの中を減圧し温度をさらに下げている最中だそうだ。

 

「そろそろだぞ、唐沢くん、見てみろ」

 銀メッキされたガラスデュワーは、中が覗けるよう一部メッキがされていない。先輩に言われて覗いてみると、沸騰していた液体ヘリウムの泡が、ぱっと無くなった。

「超流動になったね」


 液体ヘリウムがマイナス271度付近まで冷やされると、液体ヘリウムの粘性が実質ゼロになる。そうすると液体が容器の壁を登って外にでるようになったりする。

 沸騰というのは、沸点付近で熱を与えられた液体が、温度のむらにより液体内部で蒸発がおきて泡ができる現象だ。超流動状態では熱の伝導がほぼ無限大と言って良いので、温度のむらが無くなり、液の表面だけで蒸発が起き、泡がでなくなる。それを今、ぼくはこの眼で見ている。

 

「篠田先輩、初めて見ました。ありがとうございます」

「うん、初めは感動するけどね、超流動でしかおきない漏れもあるからね、なんかもう、感動はなくなっちゃった」


 先輩の言う漏れは、教科書では読んだことがあった。普通の液体では通れない隙間でも、超流動状態のヘリウムなら通り抜けられる現象だ。スーパーリークと言う。

「スーパーリークはさ、室温ではチェックできないからやっかいなんだよね。唐沢くんもそのうち出会うさ」

 トラブルは避けたいが、実験屋としての経験値をあげるには見てみたい気もする。不謹慎だけど。

 

 午前中ポンプでの減圧を続け温度が下がりきったところから、本格的に測定を始めた。

 測定は基本的にはコンピュータ制御なので、問題が発生しないか確認するだけである。篠田先輩と雑談しながら、測定状態をモニターする。

「唐沢くん、彼女さんとかいないの?」

 いきなり核心をつく質問だ。

「い、いや、いないですよ。いきなりなんでそんなこと聞くんですか」

「なにね、彼女持ちだったら、休みちゃんととってデートしとかないと。出会いないからねー」

「そうだよ。現実問題としてね、ここの先生たちもお見合い多いからね」

「そうなんですか」

 答えながら思い出すのは神崎さんのことだけである。

「だからさ、多少のことはいいから、デート優先しなよ」

「妙に実感がこもってますね」

「そ、そこは聞かないで」

 研究室に入って出会ったばかりの先輩が、深い深い話を振ってきたので困ってしまう。おそらくこれは、仲間として受け入れられているということなのかな。

 

「篠田先輩、窒素、減ってきてないですか?」

「そうだね、足すか」

 外側のデュワーに液体窒素を注ぎ足した。

「唐沢くん、しばらく何も起きないだろうから、監視だけしといてくれないかな。俺、居室で仮眠する」

「わかりました」


 先輩が部屋を出ていったので、実験の様子をモニターする。おかしいことが起きていないか監視しているだけだから基本ひまである。勉強道具をもってくればよかった。

 

 測定は翌朝までかかので、先輩と交代で機材を見守る。一人になると思い出されるのは、神崎さんのことだった。扶桑女子大で実験ができているのだろうか。

 良くないことかもとは思うが、暇つぶしにスマホを見る。親からのSNSで、

「大学で秋に上高地に旅行する人いない?」

と、謎の連絡があった。

「どういうこと?」

と聞くと、親戚の働く上高地のホテルで、外国人団体の予約がごっそりキャンセルされたとこのとだった。僕に言うくらいだから、よっぽど困っているのだろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る