89 乙巳

 


 伏せた八重のまぶたの奥に、さっき白玉の膝の上で見たばかりの鮮血の記憶がよみがえる。

 


 あれは――屋内だった。つるりとした湿気がただよっていたから、恐らく雨がしとどに降っていたのであろう。

 そのの最上段には、眉根をひそめた女性がいた。扇で口元を隠し、ただ黙ってたたずんでいる。そばかすの浮いたほほに、柳の葉のようなを描いた美しい眉の主だ。そして、その下にある、すっきりとした切れ長の二重の眼からは、一切の感情がうかがい知れない。底の深い、呑まれてしまいそうな、きらりと光る瞳は、他の干渉を一切を受け付けない孤高さに満ち満ちていた。


 何人たりとも決して寄せ付けないという、強い意志がそこにはある。だから、彼女が今の状況を嫌悪しているのか、それとも悲しんでいるのか、それすら読み取れない。


 その彼女の両肩りょうけんを、背後から支えるように、そっと包んでいる人物がいる。しかしその容貌は陰に隠れて良く見えない。体格は女性とあまり変わらないようだったが、その身に纏っている物は男物のようだった。


 二人のかたわらには、震える男が一人、床に膝を突いてくずおれている。握り潰された奏上用のふみが、その手にはあった。



 ――そうして、そんな彼等の前には、遺体が一つ転がっていた。



 不意を突かれたのか、背を切り裂かれている。床に倒れ伏した背には鮮血がにじみ、ひたひたと床に零れ落ちていた。逃走を防ぐためか、脚にも切られた跡があった。刀を持った男が二人、血走った目で遺体の傍らに立っている。がちゃん、と一人が刀を取り落とした。血ですべったのか、それとも己のした残虐な事実の為に、その手に震えが起こったが故なのか、それは定かではなかった。やがて――何かの拍子に、彼の中で緊張の糸がふっつりと切れたらしい。血塗ちまみれた手で自身の頭を抱え、うめきながら膝を折る。

 そこへ、また新たに三人の男が入ってきた、一人はやや年長であり弓を手にしていた。あとの二人はまだ幾ばくか若かった。

 その若い二人の内――背が高く眼光の鋭い雄々しい青年が女性の方へと顔を向けた。



「――これで、もう後には引けませんぞ、母上」



 女性は険しい表情でうなずきながら「わかっております。――はよほうむっておやりなさい」とだけつぶやき、彼女の肩を支えていた人物と共にその間を後にした。

 いま一人の青年が、つかつかと遺体に近付く。そちらの青年は先の彼よりややいとけない印象だった。背丈もやや低く、加えて女性と見間違うばかりに大きな眼をしていた。と、彼は忌々し気に遺体を蹴り上げた。表を向いた顔は、確かに絶命していた。

「貴様ら、はようこれを庭に出さんか!」

 苛立いらだちと、それと同等の高揚を含んだ声で、手を汚した者達に青年は言う。しばし身動きをとれずにいた男達に、今度は弓を手にした年長の男が同じく声をかけ、彼等ははじかれたように遺体を庭へと引きずり出し、打ち捨てた。遺体も、男達も、降りしきる雨にしとどに濡れ、泥にまみれる。

 鋭い眼光の青年が、「待て大兄、日没が近い。日暮れまでに宗我の前へ首を投げろとの叔父上のお言葉にかなわんようになる」と制した。

「分かっとる!」

 大兄と呼ばれた青年――それは、眼光鋭き青年の実兄だ――は、そも大きなそのまなこを更に大きくし、雨の中庭へと降り立った。男達を押しのけると、やおら刀を抜き、咆哮ほうこうを発しつつ、遺体の頸に叩きつけた。何度か回数を重ねて、ようやく頸椎を折り、頭髪をつかんで首を持ち上げた。――ずるりと、わずかにずいがついてきた。

 


 雨が、それを洗い流してゆく。

 兄の腕に、袖に、伝い落ちてゆく。

 大雨や。

 嵐や。

 時代が――変わるんや。



 土砂降りに打たれながら、くつくつとした笑いを漏らしていた兄は、自ら高らかに掲げた頸印くびじるしを見つめ、やがて気でも狂ったような声で笑いだした。そんな兄の傍らに、弓の男が進み出でて立った。

 この兄と運命を共にする覚悟を決めたその男は、共にしとどに濡れゆく。二人は、狂気をはらんだ眼で、確かにこの国の行く末をにらんでいた。その端緒たんちょを、確かにその手に握っていたのだ。



 屋根の下にとどまった弟は――大海人おおあまは、そんな同父母兄葛城かつらぎと、鎌足かまたりの姿を、ただ静かに、その眼に焼き付けていた。

 


 それは果たして真の大義であったのだろうか。

 この宗我の一族に奪われた、彼等が一族の命の報復であったのか。否、それはいずれも正しくはない。現に彼等の父母は、この男の父の手によって各々玉座に着いたのだから。

 彼等一族が権を広げるかたわらに、宗我は、まさしく影の如く張り付いていた。

 宗我は――伸び行く芽を選んで、他の見込みのない枝葉を切り落としてきたにすぎない。その芽に従って、自らの枝を伸ばしたに過ぎないのだ。あたかも着生植物のように、大海人等の一族を土台として、その上に命をのさばらせたに過ぎないのだ。

 それは、責められた筋合いではないだろう。



 何故なら、大海人等、やまとの一族自体が、元来この土地と海に根差した民を踏み付け、権勢を奪い掴んできたのだから。



 宗我も倭も、各々がその一族の未来を天に向けて育んだに過ぎない。そして、その争いに敗れたか否かは結果に過ぎないのだ。

 であるが故に、宗我の芽を彼等が切り落とす事も、また必然であったのだ。

 大海人は、そっと静かにまぶたを閉じる。この身に流れる、奪取と搾取、双方の血流が確かに彼を生かしている事を、この上なくつぶさに感じていた。



 そして――。



 ゆっくりとまぶたを開いた八重のまなこは、長鳴ながなきの柔らかな眼差しをとらえてようやく安堵する。


 八重には、自身の視点が、彼等の一体どこにあったのか、今をってなお知る事が出来ずにいた。


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