90 筆頭


          *


 悟堂ごどう邸の裏庭には、行水用の水を大甕おおがめめてある。そこからんだ水を頭からざばりと被り、かじは顔と頭部を撫で上げた。


 ざらりとした、荒く硬い髪とひげの手触りがある。むらを出る前に熊掌ゆうひが剃り上げた時のまま手を入れていない。三か月もすればこうなる。

 いま寒気かんきも残る弥生やよいの終盤であるが、彼の全身からは蒸気が立ちのぼっていた。それすなわち、今この時まで彼が如何いかに激しい鍛錬たんれんを邑の自警団の衆に付けていたかを証明するものである。そしてその後には自らの鍛錬を行っていた。

 梶火と同等の腕を競える者は邑にない。自然個人での鍛錬が主となる。皮肉な話だが、ゆうの右腕を目指し、その力を上回る事を求め、実際それを超えた結果、自身の腕を上げて行くための相手を失った。


 最早臨赤りんしゃくにおいても梶火を超える者は数少ない。

 

 ふんどし一つの肉体は、筋骨にこそ恵まれたが上背は左程ではない。また、姮娥こうがに紛れるべく、全身日に焼けぬよう年中肌の露出を避けているため、幽鬼と見間違う程に、その色はなまじろかった。



 梶火が臨赤りんしゃくの大将軍と呼ばれるようになってから、すでに四年を超えている。



 長年、しゅうごとの分断を維持する事で朝廷より注視を受ける事を回避してきた臨赤であったが、それでも一部、しょう軍に属する者の中から疑義ぎぎを掛けられる者も現れ始めた。合算すればその武力の総量において州の駐屯師団にも劣らないはずの臨赤ではあるが、所詮分散されたままの烏合うごうしゅうだ。統率無きはその無力を意味する。

 武に秀でた集の中から、「力を一にすればおろそかにされる事もやぶれる事もない、今こそ集結を」という声が出始めた。それで、まずは一度各集のあたまが顔を合わせようという事で話がまとまった。

 大きな武を持つ集の一つとして、騎久瑠きくるも会合に呼ばれた。州長の娘という背景は力として大きい。彼女の側近として梶火、紅炎こうえん青炎せいえんも会合に参加した。

 会合は旧しん州のはずれで持たれた。神州はてい州の南にある。土地がひどせており、民の住まうに難が多く、何より水路が細く、それが枯渇した結果、統治下からはいされた。白の統治の頃の話である。

 囲いは残されているが民の暮らせる状態にない。しかし結果として土地を追われた者が、住むにはかたいがつどいやすくなった。

 密かに会合を持つには、打って付けの場所だ。

 多くの集の頭は今こそ全軍が集い、統制を整え決起する時だとの見解を示した。騎久瑠に意見を求められたので、梶火は否と答えた。

 集の頭ですらなく、しかも五邑ごゆうの若造が平然と反対と述べる。理由を聞いた者がいたので梶火は一言こう答えた。



兵站へいたんが足りない」



 武に優れた集は大抵がしょう軍だ。彼等自身の現在の肉体や生活は、朝廷の俸禄ほうろくを以てして維持されている。その補給必須の生活に肉薄にくはくしたものを自らてる事になるという、あまりにまずいその事実に対して、彼等は認識と理解が薄弱だった。

 食わずとも死なぬ姮娥こうが故である。

 しかし、朝廷に弓引くというのは、忍耐で乗り切れる程になまやさしい戦いではない。抱える兵の数だけ、その強靭な肉体を維持する為の食料確保がいる。その兵が抱える一族郎党の数だけ、食い扶持ぶちを確保しなくてはならなくなる。いくさが長引けば長引く分、その必要量は無尽蔵に増してゆく。これは不死の姮娥と言えどまぬかれぬ問題である。

 一個の独立した軍を持つ集として決起するという事は、その背景に必ず守り切れるだけの土地と、そこで確保できる食料と水がなくてはならない。姮娥こうが以外の民もいる臨赤りんしゃくではなおさらだ。故に梶火は断言した。



「ただでさえ水源汚染のせいで市場じゃ食料が出回りにくくなってるだろうが。廂軍しょうぐんにいる奴はそのままひそんでおけば食い物や金について悩む必要なく臨赤の集を維持する事ができる。統制を求めるなら、兵站の確保を急ぎつつ、まずは極秘裏に連携を取る為の連絡経路を確保する事が最優先だ。使役しえきを使えるだろうが」



 ここでまずふみうとい民草から異論が出た。使役鬼を使うならば文の読み書きが必須となる。白文は種類が多く読み書きを身に着けるのは容易ではないと。梶火は事も無げに答えた。

五邑ごゆうの文字を使え」

 この時に、臨赤は初めて五邑に特有の文字がある事を知ったのである。騎久瑠にも伝えていなかった事だ。


「難しいならカタカナだけでいい。これなら音に対応するから覚えやすいし五十程度で済む。いいか? 五邑の文字が理解できる中で敵となり得るのは方丈ほうじょうだけだ。だが、奴等は帝壼宮ていこんきゅうより外へ出ない。してや軍事に関わる事は更にない。ならば連絡に姮娥こうががその存在を知らない五邑の文字を使い連携をとるのが最善手だ」


 梶火の言葉に一同黙った。その案を飲み込みにくかったのである。

 しかし、やはり武の集以外――特に土地に根差し田畑でんぱたを維持している集から、これを支持する声が出た。明らかに彼等にその負担が掛かる事だからである。

 果たして案は飲まれた。騎久瑠に連絡系統確保の総指揮の全権がゆだねられ、自然梶火の責務も増した。つまりは発案した自らが臨赤りんしゃくに文字を教えざるを得なくなった。

 梶火は、元来が慎重で神経質な男である。一度任せられた仕事は途中で投げ出さなかった。この事から評価が上がった。

 幸い臨赤はその基本が信教にまつわる集であったため、生まれ出自を根拠に、大きく偏見や差別を持って梶火に接する者はそれ程なかった。あったとしても、その場合はこぶしで物を言わせようとする者が大半であったため、梶火が屈する事はなかったのである。結果、血気盛んな者達も梶火のもとに自らくだった。

 丁度その頃から集団としての結束も固まり、臨赤としての名乗りはなくとも集として大きくなった事から、民草より発生した徒党と行き当たる事が増えた。気付けばそれらが臨赤に加わり、またその規模は拡大されてゆく。

 集を維持する為に梶火は刀を振るった。

 姮娥は元より、妣國ははのくにの血を引くまつろわぬ民達も梶火には敵わなくなっていた。連絡経路確保優先の発案者である事も、その手段としての文字を教えた事も、その系統経路を騎久瑠と共に組み立てた張本人である事も起因し、それを利用したすべを扱う事に梶火以上に長けた者は出なかった。結果、更に敗北を知らぬ状態となり、梶火の扱いは軍神のそれと化した。

 最も評価されたのは、敵に対して向かうか逃げるかの判断が早く、集全体として打撃を受ける事が圧倒的に少なく済んだ点である。姮娥は死なないがいたまないわけではない。五邑は痛めば死ぬ。その特性から、慎重に痛まない戦略をとる梶火は、慈悲の軍神と捉えられたのである。

 その後、ゆうとの望まぬ別離をて、一年の長期滞在が決まり臨赤に戻ると、梶火は騎久瑠達の前で号泣した。力の限り泣いた。騎久瑠もそうだが、特に紅炎が根気強くそれに付き合った。青炎は無言で食べ物を運んできた。

 三日が過ぎた頃、ふらりと立ち上がった梶火が言ったのが「神州しんしゅうに行きたい」の一言だった。騎久瑠の許可の元、紅炎と神州に向かったのは、紅炎達が神州の出身だったからだ。

 かつては水の流れがあったと聞かされた辺りにしばらく陣を張り、ぼうとした日々を過ごした。それからやにわに土を掘り始めた。時間なら幾らでもあったし、力もあるから面白いように土が掘れた。



 そして――ついに水が出た。



 それを見て泣いたのは紅炎だった。泣いて、泣いてそして泣きながら笑った。そここそが、かつて紅炎達が水を喪って追われた土地だったのだ。

 この辺りは先の水源汚染事件の時には水が枯渇こかつしていたため、仙山に狙われずに済んだ。仙山の多くは五邑ごゆうである。千年以上も前にかわてられた州など、攻撃対象として検討の俎上そじょうにものぼらなかったのである。

 また、早くに統治から外れた事と、土地がせていた事から、神州は戦場と化す憂き目を見る事もなく、そも死屍しし散華さんげの汚染からまぬかれていたのだ。

 駄目押しとばかりに、梶火は長鳴が作った死屍しし散華さんげの解毒薬を水源に落とした。これで微弱に含まれていた死屍散華すらなくなり、臨赤は完全に害のない水を手に入れる事に成功した。

 梶火はこの掘り当てた水源から地道に水路を作り、土地を耕した。梶火は邑の出身である。刀を振り回す事よりも、畑や田を作る事の方が本来得手えてだ。南方みなかたにも散々厳しく仕込まれている。使役しえきを使って人を寄越よこさせ、耕地を広げた。


 こうして兵站へいたんを確保する目途めどがたった。


 守るべき田畑でんぱたを含む土地となれば、自然人間も集まってくる。結果として神州は、臨赤の最大拠点となった。


 こうなれば、もう梶火に反する事の方が難しくなる。


 赤玉帰還へ向けた臨赤の祈願は、あやふやな願いなどではなく、明確な目標となった。その実現へ向けて、結束をはかるためのいしずえきずいた梶火は、自然民衆の支持を集めた。げつじょえん瓊高臼にこううすにいる黄師大師長をしのぐ、新たなる赤玉の最側近として目されるようになったのである。



 そしてついに、全団一致で梶火を臨赤の筆頭の格と認めた。



 現在の梶火は臨赤において猊下げいかと称される立場にある。

 梶火自身は無論赤玉に対する信仰を持ち合わせない。しかし臨赤の民が信仰するその心にはこたえてやりたいという思いもある。

 この七年で彼が関わり、また彼を育んだ世界は大きく深い。大抵のものが梶火よりも長く生き、この国の変遷を見守ってきた者だ。外から見た五邑がどんなものだったか、そこに対する感情はどんなものだったのか、これは実際に人間同士で語らねば分からない事だった。

 騎久瑠、紅炎、青炎の地位もまた梶火のそれに準ずるものとなった。


 目指した場には辿り着いた。そう言えるだろう。

 


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