91 赫い眼



 手拭いで肌をぬぐっていると、裏門から長鳴ながなきが姿を現した。

 視線が合うと、長鳴は素早く辺りを見回した。かじは無言でうなずく。今日の稽古は既に終わり、今邸内には梶火しかいない。

 長鳴は呆れたように梶火のそばに近付いた。

「それ、寒くないの?」

「――まあ、それなりだな」

「兄上は? ご不在なの?」

邑長ゆうちょう邸だ。しのに会いに行っている。その後で白玉の所へ行くと言っていたから、そろそろほこらに向かっているかもな」

 しの、というのは蔓斑つるまだら汐埜しおのの娘の名だ。現在もゆうの娘として邑長邸で育てられている。長鳴は苦笑しながら腕を組んだ。

「おや、すれ違ったか。少し話しておきたい事があったんだけど」

「なんだ。言伝なら聞いておくぞ」

「いや、いいよ。どの道今夜集まるんだし、二人にはきちんと聞いてもらいたい事だから」

「そうか。わかった。じゃあその時に」

 言うと、梶火は再び汗と水滴をぬぐい出した。

 長鳴は、そんな異父兄の横顔をじっと見詰める。

 精悍せいかんさまは顔付きのみならず、その全体から発せられている。自分と似ていないのは、彼が父親の方に似たからだろうと推察された。

 かつて彼の代名詞のように思われていた勢い任せの独善は、すっかり洗い流されて消えた。動作の一つ一つに冷静沈着が染み付き、その面立おもだちも変わった。

 この七年で彼が辿たどった変遷へんせんはあまりに大きい。長鳴の与り知らぬ場においても、彼の責任は莫大ばくだいなものとなっている。

 その根幹を辿ると行き着くのは、やはり兄と彼の関係の変遷に基づくのだろう。

 一言では言い尽くせない事が二人の上を通り過ぎた。

 聞かずともわかる。あれだけの事を経てなお、兄の決断に梶火は必ず従うに違いない。兄の傍にいる為だけに、他の何もかもをかなぐり捨てた梶火に対し、自分達には見えぬ場所で、兄もまた、その覚悟に見合うだけのものを梶火に明け渡していた。

 それが何だったのかを知った時、自分達がしたのは二人を引き離す事だった。

 彼等から、奪ってはならないものを奪った。

 長鳴は、自身もそれに見合うだけの代償を支払わねばならぬのだと理解している。

 ならば自分はこの心を伏せて八重を支え守ろう。梶火が兄と先へ進む事を止めぬ限り、自分もまた進む事を止めない。そう決めた。それが、あの日兄に選ばれた自分達二人に与えられた責務なのだろう。


 長鳴は、濡れ縁に無造作に投げ出されていた梶火の単衣を拾い上げた。手渡すと梶火は苦笑いしながら、やはりそれを無造作に羽織はおる。

「汗だくなんだぞこれ」

「日に焼けちゃまずいんだろ?」

「どうせだったら着替え持ってきてくれよ」

「厭ならさっさと中で着替えなよね。じゃあ僕も行くけど、次に出るのは三月後でいいんだよね?」

「――いや、今回は支度出来次第すぐにでも出る」

 長鳴は目を見張った。

「どうした、何かあったの」

「それも今夜でいいか」

「――わかった。じゃあ支度を急ぐよ。例の物、いるんだよね」

「ああ。すまん。頼む」

 きびすを返した長鳴の背を見送ってから、梶火は今一度頭部を撫でた。短い髪の手触り。伏せていたまなこ突如とつじょ虚空こくうを睨んだ。

 双眸そうぼう最奥さいおう業火ごうかが宿る。



 ――時が動き出す。星の流れが変わるのだ。



 膠着こうちゃくしていたえいしゅうの運命を切り開く為に、熊掌と梶火が歩むこの修羅の道を誰がいたのか、―――誰が熊掌に強いたのか――長鳴が知る事はないだろう。

 悟堂を失い、崩れ落ちかけた熊掌の命を無理矢理こじ開けたのは梶火だ。そしてそこに梶火は自らの命をも投げ込んだ。熊掌が生きる事を手放すのを、梶火が赦さなかったのだ。

 その責任の重さだけが今、梶火の命を熊掌のかたわらに留めてくれている。

 だからこそ、終わらせてやるのだ。

 他からの力に左右されたためでなく、もう一度、本当の意味で熊掌の命を取り戻すために。



 その頃、邑長邸から出ようとする熊掌ゆうひの腕にしがみつき、泣いてしぶるしのがいた。とと様とと様と、滅多に顔を見る事もない父にこうまで懐くものかと、熊掌には不思議だった。

 わずかに汐埜しおのの面影が残るその面立ちに、熊掌はもう、ささやかな感傷すら抱くことが無くなっていた。ただ、確かに流れた月日と、歳月が育む命の形を目の当たりにする不思議を思った。それは、自身の手を離れた場所でいくらでもふくらみゆく。この汚れた手とは違う場所で健やかであってほしいと願う。


 しのの頭を根気強く撫でて、ようやなだめた熊掌は、母に彼女を託し、白玉の祠へと向かった。


 邑長邸から石段へ向かう景色は変わった。不死石しなずのいしの道祖神と、崩れた邸の壁はそのままに、その近隣に寄り集まる様に新たな家が増えた。焼け落ちた保管小屋は全ての残骸ざんがい撤去てっきょされ、裏に流れていた水路は埋められた。黄師こうしが持ち込んだ荷を広げるのは東の入り口の横に新たにもうけられた邸で行う事となり、中央広場の東屋あずまやも取り壊された。

 石段をのぼる。目をすがめる。

 死屍しし散華さんげの桜におおわれて見えにくいが、恐らくわずかに雪が残っていた。

 祠には間もなく到着した。熊掌は――最初から空手からてである。

 熊掌は祠に向かい、三度深く頭を下げた。それから三度手を打つ。鈴が鳴る。両腕を左右へ垂直に延ばし、袖を伸ばしてから開扉した。熊掌はゆっくりと瞼を閉じた。



「白い玉様、白い玉様、白い玉様。本日のお参りを申し上げます」



 脳髄のうずいまで揺するような地鳴りのごと轟音ごうおんが鳴り響く。熊掌はゆっくりと瞼を開く。

 漆黒を背景に、豪炎ごうえんのうねりが天地に蜷局とぐろを巻いている。それは正に炎の雲だった。

 熊掌の天に果てはなく、その足元にも果てはない。その身は中空に浮かんでいる。四方しほうの全てがただ闇に満ち、その最中、熊掌の眼前では二つのかたまりが正に衝突の時を迎えようとしていた。

 一つは赤く白く燃え、その形状は玉に近かった。が、一方は、くの字の如くいびつに折れていた。くの字の塊は旋回しながら燃える玉に向かい軌道をゆがめてゆく。――そして、二つは轟音と共に衝突した。

 闇に発光が散る。合一ごういつした二つは回転し、玉は軸をずらし、衝撃で飛び散った雲やちりや岩を引きずり巻きこみながらその旋回を強める。やがて、その飛び散った残骸は赤く燃えながら玉の外で徐々にり固まりだす。玉よりもやや小ぶりなそれは、やや歪んだ玉状に整えられてゆく。雲をまといながら、徐々に、徐々に――、

 熊掌は、ゆっくりと振り返った。



 そこに――ひとりの男がいた。



 男は中空に留まりながら、その二つの玉が形成されてゆくのを見守っている。なびく黒髪にはあかき輝きがまとわりつき、白くゆったりとした衣からは金色の輝きがあふれ出ていた。

 男の、あかい眼が熊掌に向けられる。そこに表情はない。感情を読み取る事も難しい。男はただ、静かに熊掌を含めた何かを見ていた。

 ――これももう、いつもの事だ。


「今日もだんまりか」


 熊掌が声をかけても、男は常に言葉を返さなかった。熊掌は溜息を零して、二つの玉へ目を向ける。

 邑へ帰還した七年前から、熊掌が白玉へ参拝する時に導かれる場所は白玉の間ではなくなった。七年間、ずっと、このはかり知れぬ場へ引きずり込まれ、ただ宙に浮きながらこの光景を目に焼き付け続けてきた。この黙りこくった男と二人きりで。

「おまえは、一体何者なんだ。なぜ僕は白玉はくぎょくの下へ行けなくなった」

 熊掌は今一度、深い溜息を吐く。

「――せめてそれぐらいは答えてくれてもいいだろうにな」

 文句を重ねながらも、熊掌が参拝を止めないのには理由があった。


 熊掌はそっと自身のてのひらを見た。


 自身の掌、腕、そして恐らくは全身に、二つの玉からこぼれ出た光の粒子が纏わりついては吸い込まれてゆく。白玉の参拝時に零れ出て来たような淡くやわらかな光とはまるで違う。正しく業火の耀かがやきが己の中に取り込まれてゆくのだ。自身の中に死屍散華とはまた違う、強力な何かが蓄積されてゆく。

 初めて白玉から参拝を拒絶されたあの日から、熊掌には死屍散華の桜が視認されるようになった。この身から舞い散り、自身の中から消失して行く様を見せつけられるのは、熊掌に大きな喪失を覚えさせたが、皮肉な事に、それと入れ替わる様にして、この業火の耀きが熊掌の中に蓄えられていった。七年という歳月をかけて、死屍散華とそれは、ほぼ完全に入れ替わりを見せていた。



 そう、見当はついている。あの夜――悟堂を受け入れたあの日から、この変幻は始まったのだ。



 小さく溜息が漏れた。

「俺はもう、『色変わり』なき者ではなくなったのだろう。じゃあこれは一体何なんだろうな?」

 それは、誰に聞かせるでもない言葉のはずだった。



〈――我が力だ〉




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