91 赫い眼
手拭いで肌を
視線が合うと、長鳴は素早く辺りを見回した。
長鳴は呆れたように梶火の
「それ、寒くないの?」
「――まあ、それなりだな」
「兄上は? ご不在なの?」
「
しの、というのは
「おや、すれ違ったか。少し話しておきたい事があったんだけど」
「なんだ。言伝なら聞いておくぞ」
「いや、いいよ。どの道今夜集まるんだし、二人にはきちんと聞いてもらいたい事だから」
「そうか。わかった。じゃあその時に」
言うと、梶火は再び汗と水滴をぬぐい出した。
長鳴は、そんな異父兄の横顔をじっと見詰める。
かつて彼の代名詞のように思われていた勢い任せの独善は、すっかり洗い流されて消えた。動作の一つ一つに冷静沈着が染み付き、その
この七年で彼が
その根幹を辿ると行き着くのは、やはり兄と彼の関係の変遷に基づくのだろう。
一言では言い尽くせない事が二人の上を通り過ぎた。
聞かずともわかる。あれだけの事を経て
それが何だったのかを知った時、自分達がしたのは二人を引き離す事だった。
彼等から、奪ってはならないものを奪った。
長鳴は、自身もそれに見合うだけの代償を支払わねばならぬのだと理解している。
ならば自分はこの心を伏せて八重を支え守ろう。梶火が兄と先へ進む事を止めぬ限り、自分もまた進む事を止めない。そう決めた。それが、あの日兄に選ばれた自分達二人に与えられた責務なのだろう。
長鳴は、濡れ縁に無造作に投げ出されていた梶火の単衣を拾い上げた。手渡すと梶火は苦笑いしながら、やはりそれを無造作に
「汗だくなんだぞこれ」
「日に焼けちゃまずいんだろ?」
「どうせだったら着替え持ってきてくれよ」
「厭ならさっさと中で着替えなよね。じゃあ僕も行くけど、次に出るのは三月後でいいんだよね?」
「――いや、今回は支度出来次第すぐにでも出る」
長鳴は目を見張った。
「どうした、何かあったの」
「それも今夜でいいか」
「――わかった。じゃあ支度を急ぐよ。例の物、いるんだよね」
「ああ。すまん。頼む」
――時が動き出す。星の流れが変わるのだ。
悟堂を失い、崩れ落ちかけた熊掌の命を無理矢理こじ開けたのは梶火だ。そしてそこに梶火は自らの命をも投げ込んだ。熊掌が生きる事を手放すのを、梶火が赦さなかったのだ。
その責任の重さだけが今、梶火の命を熊掌の
だからこそ、終わらせてやるのだ。
他からの力に左右されたためでなく、もう一度、本当の意味で熊掌の命を取り戻すために。
その頃、邑長邸から出ようとする
しのの頭を根気強く撫でて、
邑長邸から石段へ向かう景色は変わった。
石段を
祠には間もなく到着した。熊掌は――最初から
熊掌は祠に向かい、三度深く頭を下げた。それから三度手を打つ。鈴が鳴る。両腕を左右へ垂直に延ばし、袖を伸ばしてから開扉した。熊掌はゆっくりと瞼を閉じた。
「白い玉様、白い玉様、白い玉様。本日のお参りを申し上げます」
漆黒を背景に、
熊掌の天に果てはなく、その足元にも果てはない。その身は中空に浮かんでいる。
一つは赤く白く燃え、その形状は玉に近かった。が、一方は、くの字の如く
闇に発光が散る。
熊掌は、ゆっくりと振り返った。
そこに――ひとりの男がいた。
男は中空に留まりながら、その二つの玉が形成されてゆくのを見守っている。
男の、
――これももう、いつもの事だ。
「今日もだんまりか」
熊掌が声をかけても、男は常に言葉を返さなかった。熊掌は溜息を零して、二つの玉へ目を向ける。
邑へ帰還した七年前から、熊掌が白玉へ参拝する時に導かれる場所は白玉の間ではなくなった。七年間、ずっと、このはかり知れぬ場へ引きずり込まれ、ただ宙に浮きながらこの光景を目に焼き付け続けてきた。この黙りこくった男と二人きりで。
「おまえは、一体何者なんだ。なぜ僕は
熊掌は今一度、深い溜息を吐く。
「――せめてそれぐらいは答えてくれてもいいだろうにな」
文句を重ねながらも、熊掌が参拝を止めないのには理由があった。
熊掌はそっと自身の
自身の掌、腕、そして恐らくは全身に、二つの玉からこぼれ出た光の粒子が纏わりついては吸い込まれてゆく。白玉の参拝時に零れ出て来たような淡くやわらかな光とはまるで違う。正しく業火の
初めて白玉から参拝を拒絶されたあの日から、熊掌には死屍散華の桜が視認されるようになった。この身から舞い散り、自身の中から消失して行く様を見せつけられるのは、熊掌に大きな喪失を覚えさせたが、皮肉な事に、それと入れ替わる様にして、この業火の耀きが熊掌の中に蓄えられていった。七年という歳月をかけて、死屍散華とそれは、ほぼ完全に入れ替わりを見せていた。
そう、見当はついている。あの夜――悟堂を受け入れたあの日から、この変幻は始まったのだ。
小さく溜息が漏れた。
「俺はもう、『色変わり』なき者ではなくなったのだろう。じゃあこれは一体何なんだろうな?」
それは、誰に聞かせるでもない言葉のはずだった。
〈――我が力だ〉
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます