92 破砕牙
熊掌は
男の目は、確かに熊掌の眼を射ている。
「今のは、お前の声か?」
男はゆっくりと首肯する。
〈ようやく、我が声がとどいたな〉
男の唇は動かない。その声が思念として熊掌の脳裏に届いているのが分かる。
「お前は……一体なんだ? ここは一体何なんだ?」
〈ここは、我が『
「しん、いき?」
〈人ならざる者の「識」が、天の
男は、しずかに二玉を指し示す。
〈――我は、
「
意味が直接脳に伝わるが故に、男の言わんとする事を熊掌は即座に理解していた。
〈我は、天意を持ちて赫玉に降り立ち、そこにあった二つの命の
男はもう一方の腕を持ち上げ、すい、と指をさす。
左の指は大きな玉を。右の指はその周りを巡る小さな玉を。
〈我は
「ににぎ……? 地の赤玉の夫?」
〈赫玉は我によって、二つの赤玉に分かたれた。天に上がりし『不死の赤玉』と、我と交わりし『死屍の赤玉』に。死屍と我は混じりて、白玉となった〉
熊掌と瓊瓊杵の間に、爆炎の雲が流れる。飛び散る火の粉が、やがて熊掌の身に吸い込まれる。
「――それはつまり、
〈
熊掌の身の内に湧き上がるものがある。それは、恐らくは嫌悪と憎悪に近いものだった。
「本来は、二つの赤き玉が混じり合っていたものを、お前が打ち砕いて、その一方と合一したと――二つの赤き玉を、引き裂いたと、そういうことか?」
瓊瓊杵は、無言のまま熊掌を見詰め、熊掌もまた見つめ返す。
熊掌は混乱しながらも、そこに示されたものをゆっくりと
男は、さっき目にした、くの字の衝突物そのものなのだ。これは人ではない。天孫瓊瓊杵という、言うなれば神だ。そしてこの男が
つまり、白玉と赤玉を二分したのだ。
衝突により
衝撃に留まった生命、『死屍の赤玉』は、この天孫という生命と合一し、それは我々によって白玉と呼ばれるものになった。
瓊瓊杵が静かに
〈長き時を待った――〉
「何を――待ったんだ」
〈我が力と、我を
「――なに?」
〈長き月日を待ったが、我が形代足る子孫は三体しか為され得なかった。一つは弱く生まれた。一つは、道と繋がる前に
「お前、それは」
熊掌の手は、震えた。
〈我と我が力は
ざわり、と腹の底から何かが煮えたぎった。
「満たぬ肉体、とは」
〈文字通りだ。我を顕現する形代の子、天照の男児よ。男の肉体を作り損ねた者よ〉
意味を理解し、熊掌の全身が総毛だった。
「それは、俺でなくてもよかったという事か。俺より
瓊瓊杵は、瞼を閉じた。
〈弱き子は道に忠誠を求めたが道が拒絶した。そのため『神域』には至れども、その肉体に破砕牙を留め得なかった。満ちた肉体の子は、道と繋がる前にその種を焼かれたため、この『神域』に入る格を喪った。満たぬ肉体のお主が自らの意志で道と繋がり、道がお主に忠誠を誓った。結果、お主一人だけが、この『神域』に至った〉
熊掌は、顔を引き
「なんだよそれ――何なんだよ⁉」
〈全ては、お主等の意志が導いた事〉
「意味が分からん。俺は――お前の顕現になる事なんか、一度たりとて望んで動いた事はないぞ⁉ 道ってなんなんだよ‼」
突如、豪炎が瓊瓊杵の身を取り巻いた。あまりの熱波に熊掌は思わず自身の顔を腕で覆い隠した。
〈道が開く時は近い。――七年を経て、ようやく、お主の道の
業火の中、瓊瓊杵の
それは、どれ程の時間続いたのだったか。突如、熊掌は祠の外へ弾き出された。それまであった浮遊感から解き放たれ、地に足が付く感覚を取り戻し、熊掌はかえって途方に暮れた。
ゆっくりと
変わらぬ青さに、そこに舞い飛ぶ桜吹雪に、熊掌は静かな絶望を覚える。
目の前に、常の如く静かに
もう、上がり口上も下がり口上も要らないのだ。
とうの昔に、己はこの祠からは拒絶されている。
七年の間、何故入れなくなったのか分からなかった。その事に
あの男の形代となったから、白玉に拒絶されたのだ。
何も言わずとも、何も用意せずとも、この身一つで自分はあの男の下へ飛ばされ、あの男の形代としてその力を吸い尽くしてゆく事になるのだろう。そして遠くはないいずれの日にか、あの男にこの肉体を譲り渡す事になるのだろう。白玉と器の女達のように。
――なんという茶番。なんという……。
この身は、炎の雲の濁流に流される。眷属と信じていた邑の民達とも、己は全く別種のものとなり果てたのだ。この身は、中空に浮いた異物なのだ。
文字通り、熊掌は他の全てから孤絶していっていたのだ。七年の間、ゆっくりと時間をかけて。
只一人、全く別種のものとなりゆく
瓊瓊杵は言った。
熊掌は、瓊瓊杵を顕現できる唯一の形代であり、その力である
男の成り損ないだが致し方なく――と。
笑いが止まらぬまま、熊掌は静かに自身の目元を
「白玉――あれが、決別の
りん――と、最後の鈴が鳴った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます