93 これでやっと



 下山した熊掌ゆうひ悟堂ごどう邸の戸口を潜ると、剃刀かみそりを手にしたかじがいた。裏庭で水を浴びていた時のまま、半裸の状態である。ひげだけを先に当たり終えたところらしい。

 汗で汚れた単衣ひとえそばに投げ散らかし、水の張ったたらいひとつと、小さな石鹸ひとつ、これを前にしている切りだ。熊掌は一つ小さな吐息をこぼしてから、履き物を脱いで上がった。

 梶火の剃髪ていはつが常となったのも、日焼けをけるのも、はじめは邑外で行動しても目立たないようにする為だった。しかし、本当はもう、そんな事をする必要はないのだ。彼の立場は、既にそんな物を必要としない程に確固たるものとして確立されている。

 それでもむらつ前に剃髪を続けているのは、熊掌がそれを止めないからだ。


 ――これまで止めてしまったら、もう梶火に触れる理由は完全になくなってしまう。


 そんな思いを熊掌は口には出さないし、梶火も確認しない。

 ただ、互いに意味は理解している。

 最後に残された、無事の帰還を祈っているという思いを込めた、ささやかな温もりの欠片かけらだった。

 梶火の背後に膝を突くと、熊掌はつと手を差し出した。

「剃刀を」

 梶火は無言で示された物を差し出す。

「はじめていいか」

「ああ。頼む」

 梶火の手から、熊掌はするりと剃刀を抜き取る。

「身動きするなよ」

「ああ」

 猫背で胡坐あぐらをかいたままの梶火の背には、筋肉が隆起りゅうきしている。

 剃髪を命じた当初から、熊掌は何度もこうして彼の頭に剃刀を当ててきた。幾度となくその皮膚を傷付け、血をにじませた。文句ひとつ言う事なく、梶火は黙ってそれを受け入れた。今ではもう、かすり傷一つつけなくなった。


 ――いっそ、うまく出来ないままだったなら、何かの痕跡として残せたのかも知れないのに。


 そんな馬鹿な事を考える自分に熊掌は内心嗤った。

 熊掌は盥で手を湿らせると、石鹸を握り手の内で泡立てた。その微かなぬめりを梶火の頭髪にすりつけてゆく。それから盥でかるく手を洗う。膝立ちのまま身体を梶火の方へ向けて、その頭皮に、ひた、と剃刀を当てた。

 青々とした剃り跡を作りながら、もう何度この頭蓋骨の形をこの手でなぞったろうと思った。頸筋、肩、脊椎、耳朶、その曲線に合わせて刃を当て直し、静かに細かくすべらせてゆく。

 まだ冬の只中ただなかであるというのに、この男の身体は冷やされもせず熱を放っていた。剃刀に着いた頭髪と泡を盥で洗い、手拭いで拭いてから、かたわらにことりとおいた。

 猫背でうつむいたままのなまじろい背中を目前に、熊掌はゆっくりと正座した。無言のまま、その背を見詰める。そして、ゆっくりとその肩甲骨の辺りにひたいを預けた。


「……どうした」


 梶火の静かで低い声が、額の奥で震えて響く。


「――何も」

「何もなかったら、こんな事しないだろう」


 梶火は俯いたまま、背に触れる温もりと髪の感触を受け止める。しかし沈黙を守る熊掌に、梶火は小さく溜息を吐いた。

「さっき長鳴ながなきにも少し話したが、今回は支度が出来次第、俺は邑をつからな。それに、今夜は、あいつらからも何か話があるらしい。あんたも共有の必要がある事はまとめて置けよ。先に是非を相談したいなら、今聞くが」

 そう言ってみたが、熊掌は尚も身動みじろぎ一つしない。梶火がわずかばかりにくびを背後へ向けようとすると、ひた、と背に冷たい手が触れた。

せい

 背に這わされた指先がゆっくりと握られ、爪が背に僅かな痕を残す。梶火は再び静かに溜息を吐いた。

「――つらいか」

 熊掌は、梶火の背に額を当てたまま、無言で瞼を開いた。

「……なあ、せい。俺は確かに、あんたにあるじとして落胆させてはくれるなと言った。だがな、孤独になれとは望んでいない」

「――ああ」

「弱音は吐くなとは言ったが、心情まで覆い隠せとは言っていない」

「そうだな」

「甘えるなとは言ったが、頼りにするなとも言っていない」

「分かっている」

「青!」

 苛立ったように梶火は振り返ると、背に這わされていた手をつかんだ。熊掌は、静かに澄んだ眼差しで梶火を見上げている。

「なあ、青」

めすいぬの足腰を立たなくしてくれる――だったか?」

 遠い、あまりにも遠い日に梶火自身が吐いたその言葉に、剃り上げられたばかりの頭皮がざわりと鳥肌を立てた。

「――やめてくれ」

「もう今じゃ、お前の力にかなう者などないものな。所詮しょせん、この身は成り損ないだ。誰も自分には敵わないのだから力を抑えなければなどと、おこがましい事を考えていた頃が懐かしく恥ずかしいよ」

 梶火は眉間にしわを寄せる。

「そんな事、何故今言うんだ」

「客観的に見ても、僕などよりお前の方が明らかに民をたばねてみちびく力があると言っているんだよ。教えてくれないか? こんな足元も覚束おぼつかないような邑長に、お前は一体何を見出していたんだ? 一体どこが何の役に立つと思ってくれていた? そんな御大層な力があると本気で思っていたのか? 僕はただ、不死石しなずのいしがなかったばかりに他より膂力りょりょくがあっただけの人間だ。お前が見上げていた人間なんか、本当は存在しなかった」

「いいかせい卑下ひげは無意味だ。罵倒ばとうが欲しいなら敵を捕らえてから存分に怨詛えんそを吐かせてそれを浴びればいい。いいか。勝って、全てを終わらせて、敵を捕らえて、それからだ。俺達は、まだ道半ばなんだよ。まだ崩れている場合じゃないだろうが」

「――そうだよな。その通りだ。お前が正しい」

 自虐の笑みを浮かべる熊掌に、梶火は荒々しく引き寄せてその唇をふさいだ。乱雑なその行為に、しかし熊掌は抵抗しなかった。それに苛立ちを増した梶火は、頭部に手を回した。わざと逃れられないようにして重なりを深くしてみたが、それでもなお、熊掌は行為を拒もうとはしなかった。

 無抵抗を止める気がない事を悟り、梶火はしばし間をおいて熊掌の身体を離した。熊掌の表情は――何も変わらない。ただ静かに、僅かに双眸そうぼうが伏せられているばかりだ。梶火は歯噛みした。あの日以来の口付けが、こんなに虚しく寒々しいものになると、誰が思っただろうか。

「――青。お前が終わらせると決めた事だろう。頼むから自分で拒絶してくれないか」

「どうした。いらないのか」

「……青」

「本当に、もう、僕は必要ひつようなくなったか」

「おい!」

「どうしてこうなったんだろうな。こんな体でいいなら、いくらでもお前にくれてやったのに。そのはずだったのに」

「大兄――勘弁してくれ。終わらせると決めたのはあんただ。俺は、それに従ったんだ。あんたの望みだから、だから――」

「もう、いや、はじめから、俺じゃなくてよかったのに、なんでこんなことに」


 梶火の胸の奥で、何かががしゃりと軋んだ。


 熊掌は確かに変わった。その心を人目から遠ざけるようになり、目的の為には手段を選ばなくなった。

 梶火は、両の掌で熊掌の頬をおおった。

「青。不安があるなら、ちゃんと言え。言ってくれ。それは先へ進むために、荷を分け合うために必要な事だ。あんたの心を損なう程の難があるならそれも俺に言え。必ず違う道を探し出してやる。それが俺の役割だ。――だがな、自己嫌悪を解消する為に、わざわざ傷付こうとするな。その為に俺を使うな。俺は、あんたを切る刃になるためや酔狂でおすてた訳じゃないぞ。それに――」

 熊掌の両頬を包む大きな掌は、かすかに震えていた。



「俺が、あんたをいらなくなるわけがないだろう……この四年、俺がどんな思いで生きてきたか……!」



紫炎しえん

「あの時殺された方がはるかにマシだったよ。今でもそう思ってる」

 少しずつ、少しずつ熊掌の眉間に皺が寄せられる。しかし、涙を落す事はもうない。それはもう、失われてしまったのだ。

「青――」

悟堂ごどうが」

 梶火は、熊掌の唇が小さな声で紡いだその名を聞き逃さなかった。

「あいつが、どうした」

 熊掌の両の手が梶火の両腕に爪を立てる。震えるてのひらめられた感情の正体を思い――梶火の心にも鋭い爪が突き立てられる。

「悟堂が――見つかった」

「――どこにいる」

白浪はくろうに囚われていた。この七年、意識がなかったらしい。帝壼宮ていこんきゅうに使者が入り、そう告げてきたのだと芙人ふひとが、いた」

 熊掌は顔をぐしゃぐしゃにして眼を固く閉じた。


「生きてた……生きてたっ! これで――」


 ぎらり、と射殺されそうな視線と笑みが熊掌の表に浮かぶ。



「やっと――全員、殺せる」



 梶火は言葉を選べず、ただきつく熊掌の身体を抱き寄せた。

 甘えさせない、甘えるなと何度も口にした。それは、それをゆるした途端に崩れるのは熊掌ではなく、自分自身なのだという事を梶火が理解していたからである。

 この重荷を投げ捨てて、二人でどこかへ消えてしまいたい。そんな小さなくすぶりが消える事は結局一度としてなかった。ずぶずぶと、その誘惑は何時でもかたわらにあった。それでも持ちこたえたのは、熊掌が最後の一線で崩れる事なく、その脚で立ち続けたからだ。

 この細い身体一つに途方もない重責を負わせた。否、未だに背負わせている。何一つ共になどになえてはいないのだ。共に背負うと言いながら、自身に出来た事などちりに等しい。

 梶火は、きつく眼をつむった。

 もう、全てを振り捨てて進むこの命と体を、梶火に止める事はできないのかも知れない。かつて確かにここにあった彼の心は、もうどれだけ手を伸ばしても触れられないところにまで遠ざかってしまっていた。

 今更気付いて悔やんでも遅い。

 けずり落としたものの代償に、熊掌は確かに一人立つ脚と進むべき道を切り開いてきた。そしてその道は――悟堂ごどうの消息に繋がっていた。

 進めた道は確かに始まった場所へと繋がっていたのである。

 もうこの先、熊掌が歩みを止める事は決してないのだと、よく分かった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る