93 これでやっと
下山した
汗で汚れた
梶火の
それでも
――これまで止めてしまったら、もう梶火に触れる理由は完全になくなってしまう。
そんな思いを熊掌は口には出さないし、梶火も確認しない。
ただ、互いに意味は理解している。
最後に残された、無事の帰還を祈っているという思いを込めた、ささやかな温もりの
梶火の背後に膝を突くと、熊掌はつと手を差し出した。
「剃刀を」
梶火は無言で示された物を差し出す。
「はじめていいか」
「ああ。頼む」
梶火の手から、熊掌はするりと剃刀を抜き取る。
「身動きするなよ」
「ああ」
猫背で
剃髪を命じた当初から、熊掌は何度もこうして彼の頭に剃刀を当ててきた。幾度となくその皮膚を傷付け、血を
――いっそ、うまく出来ないままだったなら、何かの痕跡として残せたのかも知れないのに。
そんな馬鹿な事を考える自分に熊掌は内心嗤った。
熊掌は盥で手を湿らせると、石鹸を握り手の内で泡立てた。その微かなぬめりを梶火の頭髪にすりつけてゆく。それから盥でかるく手を洗う。膝立ちのまま身体を梶火の方へ向けて、その頭皮に、ひた、と剃刀を当てた。
青々とした剃り跡を作りながら、もう何度この頭蓋骨の形をこの手でなぞったろうと思った。頸筋、肩、脊椎、耳朶、その曲線に合わせて刃を当て直し、静かに細かく
まだ冬の
猫背で
「……どうした」
梶火の静かで低い声が、額の奥で震えて響く。
「――何も」
「何もなかったら、こんな事しないだろう」
梶火は俯いたまま、背に触れる温もりと髪の感触を受け止める。しかし沈黙を守る熊掌に、梶火は小さく溜息を吐いた。
「さっき
そう言ってみたが、熊掌は尚も
「
背に這わされた指先がゆっくりと握られ、爪が背に僅かな痕を残す。梶火は再び静かに溜息を吐いた。
「――
熊掌は、梶火の背に額を当てたまま、無言で瞼を開いた。
「……なあ、
「――ああ」
「弱音は吐くなとは言ったが、心情まで覆い隠せとは言っていない」
「そうだな」
「甘えるなとは言ったが、頼りにするなとも言っていない」
「分かっている」
「青!」
苛立ったように梶火は振り返ると、背に這わされていた手をつかんだ。熊掌は、静かに澄んだ眼差しで梶火を見上げている。
「なあ、青」
「
遠い、あまりにも遠い日に梶火自身が吐いたその言葉に、剃り上げられたばかりの頭皮がざわりと鳥肌を立てた。
「――やめてくれ」
「もう今じゃ、お前の力に
梶火は眉間に
「そんな事、何故今言うんだ」
「客観的に見ても、僕などよりお前の方が明らかに民を
「いいか
「――そうだよな。その通りだ。お前が正しい」
自虐の笑みを浮かべる熊掌に、梶火は荒々しく引き寄せてその唇を
無抵抗を止める気がない事を悟り、梶火は
「――青。お前が終わらせると決めた事だろう。頼むから自分で拒絶してくれないか」
「どうした。いらないのか」
「……青」
「本当に、もう、僕は
「おい!」
「どうしてこうなったんだろうな。こんな体でいいなら、いくらでもお前にくれてやったのに。そのはずだったのに」
「大兄――勘弁してくれ。終わらせると決めたのはあんただ。俺は、それに従ったんだ。あんたの望みだから、だから――」
「もう、いや、はじめから、俺じゃなくてよかったのに、なんでこんなことに」
梶火の胸の奥で、何かががしゃりと軋んだ。
熊掌は確かに変わった。その心を人目から遠ざけるようになり、目的の為には手段を選ばなくなった。
梶火は、両の掌で熊掌の頬を
「青。不安があるなら、ちゃんと言え。言ってくれ。それは先へ進むために、荷を分け合うために必要な事だ。あんたの心を損なう程の難があるならそれも俺に言え。必ず違う道を探し出してやる。それが俺の役割だ。――だがな、自己嫌悪を解消する為に、わざわざ傷付こうとするな。その為に俺を使うな。俺は、あんたを切る刃になるためや酔狂で
熊掌の両頬を包む大きな掌は、かすかに震えていた。
「俺が、あんたをいらなくなるわけがないだろう……この四年、俺がどんな思いで生きてきたか……!」
「
「あの時殺された方がはるかにマシだったよ。今でもそう思ってる」
少しずつ、少しずつ熊掌の眉間に皺が寄せられる。しかし、涙を落す事はもうない。それはもう、失われてしまったのだ。
「青――」
「
梶火は、熊掌の唇が小さな声で紡いだその名を聞き逃さなかった。
「あいつが、どうした」
熊掌の両の手が梶火の両腕に爪を立てる。震える
「悟堂が――見つかった」
「――どこにいる」
「
熊掌は顔をぐしゃぐしゃにして眼を固く閉じた。
「生きてた……生きてたっ! これで――」
ぎらり、と射殺されそうな視線と笑みが熊掌の表に浮かぶ。
「やっと――全員、殺せる」
梶火は言葉を選べず、ただきつく熊掌の身体を抱き寄せた。
甘えさせない、甘えるなと何度も口にした。それは、それを
この重荷を投げ捨てて、二人でどこかへ消えてしまいたい。そんな小さな
この細い身体一つに途方もない重責を負わせた。否、未だに背負わせている。何一つ共になど
梶火は、きつく眼を
もう、全てを振り捨てて進むこの命と体を、梶火に止める事はできないのかも知れない。かつて確かにここにあった彼の心は、もうどれだけ手を伸ばしても触れられないところにまで遠ざかってしまっていた。
今更気付いて悔やんでも遅い。
進めた道は確かに始まった場所へと繋がっていたのである。
もうこの先、熊掌が歩みを止める事は決してないのだと、よく分かった。
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