4 蘇藍龍


 璋璞しょうはくの言葉に、ゆうは弾かれたようにその場に平伏した。

 顔を伏せたまま、冷や汗が肌から噴き出すのが分かる。

 今、自分の目の前にいるのが、顔を伏せた熊掌のくびに視線を落としているのが、全てを始めた者なのだ。元凶――なのだ。


 五百年前に、自身を三交后さんこうごうに定めた主君たる白皇はくこうを自ら弑逆しいぎゃくした簒奪さんだつの皇帝――げつ如艶じょえん


「良い良い。瀛洲えいしゅうの子や。顔をお上げ。美しくいとけない者の顔は地に伏していてはいけないよ。哀れだから」

 月皇げっこうの言葉に、それが真意であるのか否かの判断がつけられずに身動ぎもできなかったが、璋璞が「蘇熊掌殿」と名を呼んだので、恐る恐るおもてを上げた。

 臥牀がしょう上の月皇は、ひらひらとてのひらを振って笑う。

「随分と辛い目に合わせてしまってすまなかったねぇ。こんなにかわゆいものをいじめるだなんて、朕の麾下はなんと愚かしいのか。詫びと言ってはなんだが、えいしゅうが民の命を軽々けいけいと百もほふった制裁に、あの時派遣していた黄師こうしは全てその命を持って罪をあがなわせておいたからね。――これで赦しておくれだね?」

 熊掌は耳に届いたその言葉に全身が粟立つのを止められなかった。月皇は、今、邑人むらびとが百人は命を奪われたと、そう言ったのだ。そしてそれを行った自らの麾下である黄師百人を皆殺しにしたと……。

「――しかし、主等の中に、死屍しし散華さんげの毒散らしのすべを心得ていたという者があったのは、少々いただけない。そんな大切な事を朕に隠し立てしていたというのは、背信の疑いを掛けられても致し方ないやも知れぬぞ?」

「っ……!」

「猊下」

 横から璋璞が口を挟む。月皇はちらと璋璞に視線をやると――笑った。

「わかっておるわ。瀛洲のとがではない」

 熊掌の心の臓が底から冷える。――笑うのか、この皇帝は、この場面で。

「冗談はさておいて――麾下に命をもってその汚名をそそがせた以上、主等一方を贔屓ひいきする訳にもいかぬのでな。――其方の父は、我が宮城に留まってもらう事にしよう、という話になった」

 熊掌は拳を握りしめて、月皇の顔を凝視した。それは祖父の幽閉と同じ事を意味するのだと悟った。

 じっと、べにまなじりが熊掌を見降ろす。

 熊掌が感じていたのは、圧倒的な威圧と畏怖だった。月皇は一切声を荒げる事なく、その全ての言葉を軽やかにつむぐ。であるが故に余計、こうも容易く麾下の命をほふったと言い放つこの統治者の計り知れなさが恐ろしい。熊掌はまるで、自身の背骨が、この皇の掌中に握られているかのように錯覚した。

 月皇は、微笑みながら視線を向ける事を止めない。

四方よもいぬは朕の為によう働いてくれたのだがねぇ。残念ながら遺体は見つからなんだ。海の潮汐ちょうせきに取られたのだろう。気にかけておったようだから伝えおく」

 紅注す眦が、すっと細められる。



「――お主だろう? 悟堂ごどうの愛玩していたのは」



 頭から冷や水を浴びせ掛けられた様に、熊掌は完全に硬直した。

「あれもなかなか腹の内を見せぬ仔狗でな。素直でないから、得た知見も全て即座には奏上してこない。毒散らしの術も、何がしかのおりに手札として使おうと取っておいたのであろ。それが、なかなかどうしてかわいらしい事をするじゃないか。お主の助命嘆願に使おうとは。『筒視隊とうしたい』への文にはそのように記してあったそうだえ。そうして一輪の花に情を移したばかりに自ら矢面に立って射殺されるとはねえ。そんな感傷を持ち合わせていたとはついぞ知らなかった」

 そこまで楽しげに口にしていた月皇であったが、突如目元から笑みを消すと、す、と背筋を伸ばした。


「――さて、蘇の子」


 低い、低い声音に、ざわりと空気が換わる。

「我が麾下に刃向かったお主のとがは、悟堂の事で逆上したが故と理解したが、そも邑内にて囚人の取り扱いに手抜かりがあり、供物くもつに火を放たれるをまぬかれ得なかった事は邑を統治する者として重大な過失である」

「――はい」

「しかし、お主が邑の事、白玉はくぎょくの事、更には我等が誓約について聞き及んだのはここ数日の事であるとお主の父からも聞き及んでおる。よって、お主に対しては此度こたびは罪に問わぬ」

「は――はい」

「今後はお主がえいしゅうの長としてその統治の任に着け。よいな」

「―――――御意」

 熊掌が額を地に着けると、月皇は「ふふ」と笑った。

「あれがうつつを抜かした掌中の玉なのであれば、朕が貰い受けて可愛がってやっても良かったのだがな。三寶合祀の死屍散華を身の内に集積した五邑をもてあそんではしもの朕の命も危うい。それにそれではえいしゅうの後を託す者がなくなると皆が口を揃えて言うので、不承不承ふしょうぶしょうながら諦めたのよ。――が、かほどに愛らしいのであれば麾下の言など聞かねば良かった。鳥籠に入れて愛でるくらいならば出来よう程に」

 全身にぞわりと怖気が走った。これで意味が分からぬ程、さすがに熊掌もいとけなくはない。口中が乾くほどの緊張で震えていると、横から再び璋璞が「猊下」と口を出した。

「あまりおなぶり遊ばしますな」

 璋璞がいさめるのに、月皇は「さもないたわむれだ」と笑い飛ばした。

「俗世の統治に降りたとは言え、神への供物くもつに手を出す程浅ましくなったつもりはないよ。――さあて、揶揄からかった詫びに、お前には名をくれてやろう。美しくちりのようにはかない身でありながら朕の民に刃向かった、その炎のような命に敬意を表しようではないか。――お前は、危坐きざの生まれだね。いみなはなんだえ」

 つるりと冷たい汗が滴る。諱。己の諱。何度も何度も薄闇の中で悟堂に繰り返し呼ばれた。あの夜の声が、耳の奥に、全身に蘇る。



 ―――青。



「――せいにございます」

 熊掌が答えるや否や、月皇はすっと立ち上がると、すべるように熊掌のかたわらまで降りた。そして熊掌の髪をがっと握り、無理矢理顔を己の方へと向けさせた。

「蘇青、だな」

 白い両眼が薄く青く、妖しく光り、熊掌の両眼を射る。

 全身を粟立たせるような微笑で、月皇は告げた。



「よし、では青を産みだす色をやろう。東の涯を守るのは龍だ。これより、藍龍らんりょうを名乗るがいい」


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