5 母達


 熊掌ゆうひ帝壼宮ていこんきゅうに捕らわれていた期間は、およそ半月程だった。

 そこから行きの行程と同じく一月をかけて、熊掌はえいしゅうへ帰還した。――父の幽閉と引き換えに字名あざなを与えられて。


 途上、馬上から見える景色は、帝壼宮ていこんきゅうで見た物とは大きくかけ離れていた。

 一体どんな力が働いているのか、宮城及び城下街とその周辺までは確かに角楼で見た景色そのものであったのに、移送の一団が移動している最中に、突然、眼には見えぬ被膜ひまくのようなものを潜り抜けた感触に襲われた。


 途端、空は黒く塗りつぶされ、夜一色の世界へと変貌したのである。


 最早もはや、困惑するいとまもない。原理も道理も何も分からない。所詮は、邑とは違う異界の事なのだ――そう、心は思考を投げ出した。

 以降は、夜闇の中、白い砂漠を只管ひたすら抜けていく行程であった。

 ただ、宮城から離れるにつれ、そこは地に伏せた半球状のものに覆われている事が分かった。つまり、その内側にいる間だけ、あの美しい光景は存在するのだ。

 理解できたところでどうという事もない。それが本物なのか、まがい物なのかなど、もうどうでもよかった。だから熊掌は、ただ静かに目を伏せた。

 道中何度か補給地点と思しき場所に立ち寄った。その度に黄師こうし達は水を汲み、不死石しなずのいしを鍋に投げ込んでは煮沸していた。そういった場所には被膜の覆いはなく、そこに住まう民は総じて貧しい身形をしていた。場所によっては邑より余程苦しい暮らしである事が見て取れた。

 そうか。邑はあれでもかなり旧来の在り方に寄せて優遇されているのだ。

 月皇げっこうの言っていた通り、邑と月人の習俗はかなり違うのだろう。それはつまり、異地いちの風俗に合わせた品々を彼等はわざわざ手配して黄師に支給させているという事だ。着物を彼等の物と合わせようかというのも、満更戯言ざれごとではなかったのかも知れない。また月皇は熊掌の事を神への供物、と呼んでいた。下がりの品を彼等に渡す事と引き換えに彼等が邑に落としてゆくものは、もしや月人からすれば神から賜りし物品に対する返礼の意味合いが強いのかも知れない。



 えいしゅうの傍まで来ると再び一団は被膜を通過し、天空は青空へと変貌した。



 熊掌の到着より前に、報せはむらへ届いていたらしい。邑への帰投は思いの外静かなものとなった。

 黄師に伴われて邑に入った熊掌の姿を、邑人は遠巻きに見つめていた。熊掌は、ただ黙って馬に揺られながら邑の様子を視界に納めた。東の側は言葉に尽くせぬ荒れ方をしていた。破壊された家に留まる者、家財を運んで何処ぞへ向かっている者、木陰に座り込んで動かぬ者。動きは違えども、その眼は白目が目立ち、何を見詰めるでもなく、ただぎらぎらと光っていた。耐えかねた熊掌は、眉間に皺を寄せて、ただ瞼を閉じた。そうする事しかできなかった。

 邑長邸に着くと、南辰なんしんが真っ先に姿を現した。聞けば彼が火災後から邑の指揮をとっていたという。馬から降ろされた熊掌を黄師から受け取ると、南辰は熊掌の身体をぐっと抱き締めた。

「随分と痩せたな」

 苦し気に微笑む南辰に、熊掌はただ無言を返す事しか出来なかった。

 黄師は熊掌を返すとすぐに邑を後にした。と言っても、熊掌を移送してきた一団の内、一部は邑の外に待機している駐屯師団と監視業務の交代に入るのだろう。邑に入る前に、彼等の姿を熊掌は目視している。先般のように百はないが、決して少なくはない数だ。

 移動の一月ひとつきの間に、熊掌の衰弱は増していた。南辰に肩を支えられながら焼け落ちた四脚よつあし門をくぐると、予想に反して中は修復が進んでいた。

「――邑の皆が、先にここから手を付けてくれてな。なので負傷した者とその家族から優先してここに受け入れている。焼け出された者の一部は「西」に居を移してもらった」

「「西」に、ですか」

「――母子の居住していた戸は板を打ち付けて封鎖した。落ち着き次第取り壊す手筈になっている」

 あれ程忌避すべき場所として扱われていた「西の端」であったというのに、自分が離れていたたった数か月で、完全にその使われ方が様変わりしている。その皮肉に、熊掌は薄っすらと嗤った。

「どうした」

 怪訝そうな顔でうかがう南辰に、熊掌は首をふるった。

「なんでも。――宮城で、百近い民が犠牲になったと聞きました」

 南辰は唇を僅かに歪めてから答えた。


「――正確には、八俣やまた蔓斑つるまだら汐埜しおのを含めて八十九人だ」


 聞かされていた通り、被害は甚大だった。はっきりと口にされた事実に熊掌の背筋は凍る。

「八俣の子の事は――数に入っていない。存在した事自体に箝口令かんこうれいを敷いてある」

 早口の小声で付け足された言葉の意味に、熊掌は俯いた。

 つまり、八咫やあたはあの最中さなかで無事脱出できたという事だ。それだけが、僅かな救いだった。


 どん、かん、と、つちを振るう音がそこかしこから響いてくる。

 建て直しが進んでいるとは言え、中空には焦げ臭い匂いがしつこく染み付いている。回復しつつある光景と、消えぬ残臭の乖離が、知らぬ内に熊掌を追い詰める。残された邑人達が現実に打ちひしがれ、うずくまりながらも何とか立ち上がり先へと進もうとしていた間、自分は何一つとして役に立ちはしなかった。その事実が、ひしひしと迫りくる。

 南辰に連れられて向かったのは産屋だった。中に入ると、そこにいたのは赤子を抱えた八俣の妻、真秀路まほろだった。

 慌てて立ち上がりながら「ああ、若――ご無事で」と真秀路は涙ぐむ。少しばかり右往左往してから、真秀路は奥の間に引き込んだ。ややあってから、真秀路と入れ替わる様にして、母が奥の部屋から姿を現した。

 母は――思っていた以上に毅然とした顔をしていた。


「よく戻りましたね」


 その言葉に、熊掌はがくんと膝を折った。

「熊掌」

「申し訳、ございません。父上をお連れする事、叶いませんでしたっ……!」

 歯を食いしばりながら報告すると、母もまた熊掌の前に膝を折り、再び「熊掌」と名を呼んだ。

「顔をお上げなさい。はじめから分かっていた事です。貴方が荷に思う必要はありません」

「しかし」

「熊掌、聞きなさい」

 思わぬ強い母の口調に、熊掌は息を吞んだ。

「私は、先代が朝廷に獲られた折に、父上からは、自分は恐らく同じ道を歩むであろうから覚悟せよと言われて参りました。だから、私の事は気に留めずともよいのです」

「母上……」

とがめがあるとしたら、貴方達兄弟にその覚悟をする時間をあげられなかった私達にこそ、それはあるでしょう。――話してやれなくて、ごめんなさい」

 悲痛に眉をしかめ、熊掌は、やがて力なく肩を落とした。

 もう、謝る先すら、熊掌には与えられないのだ。



 熊掌の私室は一部焼けていたが、被害が少なかった事もあり、今は一組の若い夫婦に与えているという。長鳴ながなき達が悟堂の邸に一時的に居を移しているので、しばらくは貴方もそちらへ落ち着くようにと言われ、熊掌は南辰に伴われ長邸を後にした。

 我が子を見送った後、母は真秀路が抱いていた赤子を受け取った。それは汐埜しおのの産んだ娘であり、今は彼女等二人が主となってこれを育てていた。

「姉様、よろしかったの? ずっと、若の御傍にいらっしゃりたかったんでしょう?」

 真秀路の問いかけに、母は微笑みながら首を横に振った。

「自分の脚で立つべき時期の子の杖になってはならないのよ。親は」

 言わんとする事は真秀路にも理解できた。腕の中の赤子の眠る顔を見ながら、母はゆっくりと微笑む。

「不思議なものでね――この子を育てていると、自分で育てられなかったあの子が今更帰ってきたような気がするのよ。ひどい話でしょう? でもそれがいつわらざる私の本音なの」

 母の眼差しは、曇りなく我が子の背中を見送っていた。


「知らなかったわ。私、子供を獲られた事が、こんなにもずっと悔しかったのね」


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