6 俺を選んだのは、あんただろうが



 叩扉する音が聞こえて長鳴ながなきが土間に立つと、そこに立っていたのは南辰なんしんと、彼に肩を抱えられた熊掌ゆうひだった。見た事もないような痩せ細り方をした兄の姿に、長鳴は息を呑み、絶句した。

 熊掌は宮中で与えられた深衣しんいをそのまままとっていた。元のものに着替えようにも、あまりに傷み薄汚れていたからと処分されてしまっていた。見慣れぬ衣を纏い、憔悴しきった兄の姿はあまりに痛々しく、長鳴には言葉を発しようがなかったのだ。

 南辰は夜にまた改めて訪ねるといい、一旦帰邸した。長鳴は悟堂が寝所として使っていた間に熊掌を通すと、まずは休むように勧めた。


「――本当に、苦労をかけた」


 しとねで上体を起こしたまま熊掌が長鳴に謝罪する。堪らぬ思いで長鳴は首を横に振った。

「……兄上だけでも、無事にお戻りいただけて本当に良かった」

 苦渋に満ちた空間となった。熊掌は宮城であった事を長鳴に聞かせ、長鳴は邑との大きな差異に言葉を失う。

「父上は、僕が捕らわれていた牢からは移されている。あれと比べて、どれだけ待遇が異なる場所に今られるのか僕には想像がつかないが――あれよりましな場所である事を願ってやまないよ」

 その言葉だけで、兄がどれ程劣悪な環境下にいたのか長鳴は察する。この兄は、多少の事では泣き言は言わない人間だ。師範に連れられ三日三晩山籠もりした後も平気な顔をしていた。出た文句らしい文句が「蛇は美味いが身が少なすぎる」だけだったのである。その兄がここまで言うのだから――余程の事だ。

「御祖父様が――その、御帰還なさるまでには、少なくとも数年はかかっていたでしょう?」

 長鳴の言い淀みながらの言葉に、熊掌は「ああ」と苦くいらえを返す。

 兄弟の脳裏には、骨となり帰還した祖父の例がよぎっている。実際にこの祖父と兄弟とは関わり合った事がない。二人が生まれる以前に鬼籍に入っている事だけは聞き知っていたが、何故かこの祖父の骨壺だけが邑の廟ではなく父の部屋の棚に置かれていた。その点だけが違和感として残る祖父だったのだが――経緯を知った今となって初めて父の内心を推し量る事ができる。

 熊掌は、そっと自身の右手首をさすった。

「今直ぐどうこうと言う事ではなく、僕の働き次第で父の命運は尽きると、言外に月皇げっこうは示している。あの人物は――あれは駄目だ。決して直接弓を引いてはならない」

 熊掌は額に手を置くと、大きく溜息を吐いた。

「長鳴、済まないが少し休ませてもらえないか」

「ああ、そうですね。申し訳ありません。――では、僕は少し堂に行って参ります」

「堂? 祠裏の堂か?」

「はい。今あちらに八重やえが居りますので、兄上が御帰還なさった事を伝えて参りますね」

「どうして八重が……」

 長鳴は一瞬言葉に詰まってから、ふっと困ったように笑った。

「あの日以来、ずっと八重が一人でお参りをしてくれているのです」

「一人で? 何故」

「――他の邑の者が、もう誰も行きたがりませんでして」

 当然予測し得るはずの事態に、熊掌は息を吞み、そして眉間に皺を寄せて俯いた。何も、言える事はなかった。

「ですので、八重がここに住みながら、参拝を一手に引き受けてくれているのです。勿論、僕も少しは手伝っているのですが」

 長鳴の指が指し示した方を見る。奥の間に続く引き戸だ。

「あちらの奥に、焼け残った下がりの品が」

「そうか……そうだったか」

「今は、僕とかじと八重の三人でここに起居しています。一先ずは八重の身を守る事、それが何よりも黄師こうしの介入を回避する手段であると判断しました」

「……ああ、そうだな」

「一応、南辰なんしんにも判断を仰いだ上での事なのですが」

「否、僕に断る必要はないよ。お前の判断で正しい」

「ありがとうございます。――では、少し失礼しますね。どうぞゆっくりお休みください」

 長鳴が邸を後にすると、途端に室内に静けさが増した。沈黙と冷気が肌に纏わりつく。熊掌はぶるりと胴震いして膝に顔を埋めた。



 その直後から熊掌を襲った高熱はたちが悪かった。霜月の手前でもあれば、時期の悪さも体調を崩す要因となったろう。

 一度下がったかと思えばすぐにぶり返し、どの薬も効かない。意識の混濁も頻繁で、白湯さゆを飲ませる事にも難儀した。そんな状態が、そこから更に一月近く掛かった。

 主な看病は通いで南辰とじゃくが行った。ふと目覚めた時に、何度か長鳴と八重が自分の付き添いをしている姿を熊掌は見ていた。二人とも、心配そうに、痛ましそうに熊掌を見降ろしていた。


 同居しているはずの梶火の姿を見る事は、ついぞなかった。


 ようやく熱が上がらなくなり、薄い粥を口にできるまでになった頃には、熊掌の頬の肉は削げ、手足の筋肉は落ち、骨と皮ばかりのような有様になっていた。


          *


 その夜、かたん、と軽い物音がして熊掌は目を覚ました。

 けだし珍しい事である。熊掌は寝付きがことの外悪く、一旦いったん寝付けば目が覚めにくい。それが覚醒したのは、それだけ日中深い眠りに落ちていたという事か。

 音の元を探してゆっくりと頭をめぐらせる。そして、己の目が捉えた物に、熊掌は思わず息を止めた。


 部屋の片隅に、梶火がたたずんでいた。


 格子窓から差し込む薄明りで、室内は思うよりも明るかった。だから、見慣れたはずの少年の面立ちがまるで見知らぬ物のように思えた事に驚いたのだ。

 その白目が静かに光り、じっと熊掌の目を見据えている。

 さわり、と不穏が胸の内を歩く。だが、それを梶火に悟られてはならないような気がした。だから、早まり出した自身の動悸は見えぬふりで平静を装った。

「――しばらくぶりだな」

 熊掌がかすれた声で言うと、梶火は顔を背けながら視線を床に落として「ああ」と返した。

「長鳴からは、お前もここに住んでいると聞いていたが」

「――世話になっていたじじいが死んだからな。その片付けをしていた」

南方みなかたの……」

 熊掌が体を起こすと、梶火は小さく舌打ちした。

「……言っとくが、先のあれじゃねえ。――寿命だ」

「――そうか」


 両者の間に、束の間沈黙が満ちた。


 二人の間には、それぞれ種の異なる、しかし明らかな戸惑いがあった。あの夜をて向き合う今、確かにこれまでとは互いを見る目が変わっている。状況も立場も、何もかもが――それまでの前提を過去にしてしまっていた。

 先に沈黙に耐えかねたのは熊掌の方だった。絞り出すような溜息と共に、再び「そうか」と言葉を落とす。

「――すまなかった、梶火」

「何がだよ」

 絞り出すような、かすれ声での梶火の問いかけに、熊掌は苦し気に俯く。

「何も――何もできなかったから、俺は」

「――あの状況で、あれ以上の何ができたって言うんだよ」

「梶火」

 梶火は一歩一歩、ゆっくりと熊掌の傍へ近付いてきた。そしてその傍らに立ち、上から見下す。無言の時があまりに長く続き、熊掌が「あの」とかすれ声を上げた段で、梶火はぐっと歯を食いしばって急に身を沈めると熊掌の襦袢の襟を掴んだ。

「――なあ、俺はあんたのやった事が間違ってたとは思っちゃいねぇ。あの時はあれで精一杯だった。それはもう仕方がねぇよ。――だがな、今のテメェの、そのザマは何だ?」

 ぎりっと絞める力が増す。

「毎晩毎晩、悟堂ごどう悟堂とうなされて泣きやがる――それが長のやる事か⁉」

 熊掌は梶火の顔を見、そして視線を逸らした。

「お前、様子を見に来てくれていたのか」

「――ああ」

 吐き捨てるように肯定する梶火の手に、熊掌はそっと手をかけた。

「不甲斐ない長で済まない。阿呆だろうと自分で自分を呪うよ。俺は何も知らなかった、何も見えていなかった。あんな、あんなに強大な物に立ち向かえると本気で思っていた。知らないからできた事だ。――知った上で全てを賭けた悟堂とは、俺は、全然違ったんだ。それが、今回の事でよくわかった……」

「お、おい」

 伏せた熊掌の眼から、再び涙が落ちる。枯れたかと思う程に泣いても一向に止まる事がない。

「俺は、おれはっ……あの背と腕に守られて、ただ良い気になっていただけだったんだ。悟堂の力を自分の力の一部と思い上がって、それを扱う権利が自分にあるとでも言わんばかりに傲慢な思い上がりをしていたんだ――こんな情けない者に命を託さなければならないこの邑の皆が不憫でならなくて、申し訳なくて、俺はもう消えてしまいたい……っ」

 その言葉に、ざわりと梶火の背中から怒りが這い上がった。脳髄にまでその炎は巡らされ、次の瞬間には、熊掌の襟首を力いっぱいに絞め上げて自分の傍に引き寄せていた。

「ぐっ……!」

「何やってんだテメェは。それがテメェの覚悟した生き方か? ちげぇだろうが」

「梶火っ、やめ、ろ」

「命と体をくれてやるだ⁉ んな事言われたぐらいでそこまで堕ちるのかテメェは⁉」

「やっ――やめてくれっ」

 梶火の言葉はえぐる様な鋭さで、熊掌の胸を割いた。もう思い出したくもないのに、ただ苦しいばかりなのに、肌に、心に刻み付けられた夜を熊掌に思い起こさせる。頸を絞められた苦しさと相まって、更にまなじりに涙が浮かぶ。そんな熊掌の有様に、梶火の中で何かがぶつりと音を立てた。襟首を絞めたまま、熊掌をしとねに叩きつけた。

「くっそ……! この糞が‼ ちくしょう、畜生っ‼」

 そうできてしまった事実が梶火には耐えがたかった。本来熊掌の力は自分など容易たやすく跳ね除けてしまえるはずなのに、それがこの有様だ。捕らわれていた期間の長さも大きいだろうが、何よりも悟堂という男の喪失がこれ程までに熊掌を衰えさせている。

 梶火は唇を咬んだ。馬乗りになったその体の細さに、絶望と怒りが綯い交ぜになった。

「テメェはっ! ほうを着て長と認識される者ってヤツになるんじゃなかったんか⁉ それ以外の評価は要らんっつったテメェは何処に行った⁉ お前以外はどうでもいいだ? ふっざけんなよ、あの間諜野郎‼ ――んな言葉にほだされて、高々一度や二度モノにされただけで、テメェはただの「女」になっちまうのかよ‼」

 羞恥と怒りで熊掌の全身にしびれが走る。と、次の瞬間、がつん、と熊掌の額に打撃が走った。見開いた眼に映るのは、焦点の定まらないほど近くにある梶火の二つの眼だった。

 梶火の額が、熊掌の額に叩き付けられていた。

 そこにあったのは――焼け付くような怒気だった。



「――そんなに雌狗に堕ちたままがいいなら、二度と立ち上がれねぇように俺が足腰立たなくしてやろうか」



 かっと、熊掌の頭に血が上った。背筋を炎のような憤怒が這い上がる。気付いた時には梶火の口を左手で掴み、右手でその腹に一撃を見舞っていた。

 梶火が、がはっと胃液を吐き出して身体をくの字に曲げる。そこへ更に顔面に一撃を放つ。梶火の身体は吹き飛び寝間の引き戸すら突き破って土間の壁に激突した。そして、土間の端に積み上げられていた籠の上に盛大な音を立てて落ちた。

 興奮のあまり肩で息をしながら、熊掌は唇を震わせた。

「――ふっっざけるのも大概にしろよこの糞餓鬼が‼ 誰が「女」だ見縊みくびってんじゃねぇ‼ まかり間違っても誰がお前なんかに大人しく組み敷かれるか‼」

 崩れ落ちて転がった籠が、ゆっくりと回転を続けて、やがて静かに止まった。籠の山の上で仰向けになっていた梶火が、細かく震え出した。そこにきて、ようやく熊掌は我に返った。思わず全力で殴り飛ばしてしまったが、自分の本気では殺してしまいかねない。

「か、かじ、梶火、すまん、だ、だいじょうぶか?」

 震えていた梶火が、ゆっくりと腕を上げて自身の目元を覆いながら上体を起こした。

「はっ、くくく」

 梶火は、笑っていた。それを知って、熊掌はどっと脱力する。

「な、何を笑っとるんだ、お前は」

「――まだ、ちゃんとそういうツラできんじゃねぇか、大兄」

 熊掌ははっとして拳を下げた。梶火は額と目元を覆い隠したまま、くつくつと笑い続けた。

「なぁ大兄――俺達は、酔狂であんたに付いていく覚悟決めた訳じゃねぇんだよ」

「――かじ」

「あん時、本当はあいつらと一緒に出て行く事だって俺には選べたんだ。そうしなかったのは、あんたが見てた未来の中に俺がいたのが分かったからだ。じゃなきゃ、そもそもあんた、俺にこの国の事を教えたりしなかったろ? なあ、思い出してくれよ」

 上顔を覆った掌の下で、その唇が震え、曲がる。



「――俺を選んだのは、あんただろうが」



 絞り出すような梶火の言葉に、熊掌は拳を握りしめた。正しく、彼の言葉の通りだった。

「頼むよ。俺はともかく、このままじゃ八重も長鳴も、他の奴等も、失ったもんがでかすぎる」

 唇を噛み締めると、梶火は顔を壁の方へそむけた。

「お願いだ。――あんたを信じた俺達を裏切らないでくれ。そんな簡単に放り出さないでくれよ」

 あまりにも、あまりにも悲痛な梶火の訴えに、熊掌の眼から涙が零れ落ちる。

 熊掌は、自身の息の根を止めんばかりに両手でくびを強く掴んだ。

 そうだ。自分が決めたのだ。自分の命は、袍を纏って為す働きによってのみ、その評価を仰ぐのだと。それ以外のものには左右されてなるものかと。

 この邑を、民の命を託されたのならば、これを守ると決めた自身の言葉に従ってくれた彼の思いを無駄にしたくないならば――。

 熊掌は、がっと両眼を見開き天井を見上げた。

 このままでは、駄目だ。

 今度こそ、この脚で立たなくてはならないのだ。

 立ち止まっているいとまも、己を憐れんでいる余地もないのだ。


 この邑には――もうそんな余裕など、一切ないのだから。



 それから数日後。

 ようやく一人でまともに歩けるようになった熊掌が、今日は自分が行くよと言って、一人白玉の祠へと向かった。吐く息は白く、全身が凍える朝だったが、それでも薄明りの中に立つ彼の表情は、何かが吹っ切れたかのようにすっきりとして見えていた。

 ――しかし、早朝に登ったはずの熊掌が下山したのは、昼近くになっての事だった。

 出迎えた長鳴と八重の前で、蒼白な顔をしながら微笑んだ熊掌は、そのまま土間に崩れ落ちた。


 下山するまでの間に何があったのか、熊掌は決して言おうとしなかった。

 ただ、自身の両掌に視線を落として、ゆっくりと、苦痛に耐えるようにそれを握りしめるばかりだった。


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