7 弓削麻硝


 えいしゅう有する危坐きざ鬼射きいる県は、月朝が治める国土の最東端に位置する。そこから西へ向けて荒野を渡り切り、北にげん州、南にてい州を目してその間を抜けた先に、『かんばせ』を祀る玉枝ぎょくし蓬莱ほうらい有するじょう州はあった。

 方丈ほうじょうがかつて外部にあった頃は、帝壼宮ていこんきゅうに程近い南部のうん州に置かれていたという。そして、かつて員嶠いんきょうを有した嵐大らんだい州は、危坐きざ州とは逆に国土の最西端に位置していた。

 旧たい輿を有した州は、この嵐大らんだい州から見て東北寄り、国土全体においては西北に位置する。この州と玄州は阿閉殷あえいん山脈に隔てられている。この二つの州を遥か北へ越えた先に、治める州すら存在しない、氷の大地と呼ばれる最北端の地があった。


 そこに、仙山せんざんの大本営がある。


 地理的に見て、国土最南端近くに位置する帝壼宮ていこんきゅうからは、最も離れた場所にあたった。

 危坐きざ州から氷の大地へ至るには、州の間を抜けるよりも、国境沿いとなる北の山間地を迂回して回る方がはるかに安全だった。各地には黄師こうしは元より、治水土木をその主要任務とする廂軍しょうぐんも配されている。州近くの行路などおいそれと選べたものではない。痕跡の発見も徹底回避したい彼等としては、それ以外の選択肢がないと言っても過言ではなかった。


 麻硝ましょうの手刀を食らった八咫やあたが意識を取り戻したのは、この道中を急ぐ馬上であった。

 あわあわとしていた意識は、頬をなぶった寒気によって瞬く間にはっきりと覚醒した。気を失う直前に食国おすくにを連れさらわれた事を思い出し、八咫は叫びながら暴れた。が、その八咫を自身の背にくくりつけていた寝棲ねすみが血相を変えて「落馬する!」と叫ぶ。背に負っているため拳は届かない。代わりにひじが脇腹に入れられ、悶絶しながらようやく八咫は黙り、止まった。

 涙目で脇腹を抑えつつ、八咫は辺りに視線を向ける。そこでやっと寝棲の一喝の意味が分かった。上下に揺すられている自身の置かれた状況が如何に危険なものだったか、玉が縮み上がったのは何も気温の所為ばかりではない。

 その時一行は、眼下に霧深い渓谷を臨む、切り立った断崖の極狭い悪路を、文字通り張り付くようにして進んでいたのである。

「なんだこりゃ……」

 生まれて初めて見る、邑とはまるで規模の違う絶景に、八咫は呆然と口を開いた。上を見ても下を見ても果てが見えぬような岩山と谷間など、これまで想像した事すらない。凍てつくような風が谷底から吹き上げられ、八咫の前髪をもてあそぶ。

「死にたくなかったら黙れ、そして動くな」

 端的なその説明に、八咫は無言でこくこくと首肯する。

 寝棲が馬を進ませる後ろで、落馬もせず、舌も噛まぬようにする為には黙るしかなかった。

 隊は十五人で構成されていた。そこに寝棲と八咫が加わった形になる。隊の中央には八咫に手刀を食らわせた男が常にいた。あの時見た長髪は外套の下に仕舞われて見えなかったが、その抜きん出て大柄な体格は他に類を見ないのですぐに見分けがついた。

 それから半刻ほどしてから休息を取った折に、弓削ゆげの麻硝ましょうという名なのだと寝棲が語った。

「麻硝が仙山せんざんの当主だ。俺も麻硝本人がわざわざ迎えに来るとは思わなかった」

 沸かした白湯をもらいながら、八咫は借り物の綿入れを肌に巻き直した。季節は真夏のはずなのに、やたらと冷えるのを訝しむ。

「なあ寝棲。今何刻ぐらいなんだ? それに何でこんなに冷えるんだよ」



「そろそろ寅の刻だよ」



 背後から掛けられた声に八咫が振り向くと、そこには白湯さゆの入った椀を手にした麻硝がいた。

「あんた……」

 八咫は眉間に皺を寄せた。麻硝は「隣に失礼するよ」と断りながら八咫と寝棲の傍へ腰を下ろした。

「寅の刻なのになんでこんなに暗いんだよ。今夏だぞ」

「ここは囲いがない場所だからね。月朝の統治が届いていない場所は全てこうだよ。それにこの辺りはもう北の極に近いから気温が常に低いんだ。氷も解けない」

 空は――留紺とまりこんに銀粉の如き星々を散らしていた。邑や州のように朝廷の息が掛かっている場所以外では、夜が明ける事がないのだという。

「月朝の統治下の空はねり色をしているね。えいしゅうの昼間が明るく青いというのは本当かい?」

「あ、ああ、そうだけど……」

「そうか。――それはね、我々の祖先が生きた異地いちの名残なのだそうだよ。げつ如艶じょえんの囲いの術でそう見せる事ができるそうだよ」

「月人ってのは、みんなそんな異様な力を持ってるんか?」

 麻硝は「いいや」と首を横に振った。

如艶じょえんは特別だ。あれは元来赤玉せきぎょくの最も近くに仕えていた神子みこだったそうだ」

「赤玉って、なんだ?」

「こうだ」

 麻硝は椀に指を浸し、石の上に「赤玉」と書き付けた。

「君は、我等をこの地に送り込んだ者の事はもう知っているかい?」

「ああ。異地の帝とかいう奴だろ」

 麻硝は、少年らしい八咫の屈託のなさにふっと笑った。

「そうだ。その異地の帝が白玉という神を有していたのと同じく、の民も赤玉という神を有していた。夜見の民にとって赤玉とは直系の始祖にあたる」

「御先祖様なんか」

「ああ。五百年前、相互に利潤が合致した彼等がこの二つの神を取り換えた。それが全ての始まりだと伝えられている。如艶じょえんは赤玉の力を誰よりも強く受け継いでおり、民が暮らす土地を囲いで加護し、赤玉の化身とも称されていた。その力と功績を見込んだ白皇はくこうが、自身の覇権を強化せんと如艶を三交后さんこうごうに据えたのだという。つまり白皇は、神に仕えた最も神に近い者を、自身の権勢の為に俗世に下ろしたのだね」

 八咫は難しい顔をして唇を尖らせた。

「そんな余計な事するからだ」

「うん?」

「だってそうだろ? 結局それでその如艶じょえんとかいう奴に殺されてんだから」

 食国おすくにの親父さんは、と言いかけて、八咫はその言葉を飲み込んだ。

「そうだな。確かに皮肉と言わざるを得ないな。君の言う通りだ」

 麻硝は、ぞっとするような美貌に笑みを浮かべる。

「神に近しい者を権勢に利用しようとするから滅んだ。恐ろしい教訓だね。如艶じょえんまさしく赤玉の代弁者であり代行者なのだろう。今でも彼に信心の拠り所を見出す者は多い。故に、祭事に近しい立場にある黄師こうしなどは、如艶じょえん猊下げいかと称する者が多い」

「――そもそも俗世に下ろしたって、それは良い事なのか?」

 八咫のげんに麻硝は肩をすくめた。

「少なくとも、僕はそうは思わないがね。しかし白皇の時代には致し方なかったのかも知れないよ。当時はまだ戦が続いていたからね」

「戦……?」

 麻硝は「ああ」、と気付いて笑った。

「この世には一国しか存在しない訳ではないのだよ」

 そこで、背後から「麻硝」と呼ぶ声がした。

「済まない。続きは本営に帰投してからにしよう。ここも不干渉地帯とはいえ、決して安全ではないからね。両国の眼から逃れた民が混在して徒党を組んでいる。一つや二つではなくね。その全てが僕達に好意的な訳ではないんだよ」

 白湯の中身を飲み干すと、麻硝は立ち上がった。

「八咫と言ったね。姓は?」

 八咫はしばらく俯いてから、寝棲の方をちらとだけ見て麻硝に顔を向けた。

「仙鸞だ。仙鸞せんらん八咫やあた

 八咫の答えに、寝棲は一瞬だけ反応したが、それもすぐに消した。

「そうか。三寶の合祀を見極めてくれてありがとう。寝棲から道中聞いたが、君の眼には特別な能があるそうだね。ああ、ところで君は年はいくつだい?」

 麻硝の問いに、八咫は刹那言葉に詰まった。そしてゆっくりと、「十三になった」と答えた。寝棲が顔を上げる。

「いつだ」

「――邑を出た日だ」

 寝棲と麻硝は言葉を失う。言わずもがな、それは彼が父を喪った日でもある。暫時間をおいてから、麻硝は「うん」と軽く首肯した。

「年若い君に重責を望んで申し訳ないが、君にはこれから白文はくぶんを学んでもらいたい」

「――白文?」

「白朝の文字だよ。今の月朝にも引き継がれている。たい輿の跡地から運んだ書籍の解読を、僕は君にも頼みたいと考えているんだ」



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る