7 弓削麻硝
旧
そこに、
地理的に見て、国土最南端近くに位置する
あわあわとしていた意識は、頬を
涙目で脇腹を抑えつつ、八咫は辺りに視線を向ける。そこでやっと寝棲の一喝の意味が分かった。上下に揺すられている自身の置かれた状況が如何に危険なものだったか、玉が縮み上がったのは何も気温の所為ばかりではない。
その時一行は、眼下に霧深い渓谷を臨む、切り立った断崖の極狭い悪路を、文字通り張り付くようにして進んでいたのである。
「なんだこりゃ……」
生まれて初めて見る、邑とはまるで規模の違う絶景に、八咫は呆然と口を開いた。上を見ても下を見ても果てが見えぬような岩山と谷間など、これまで想像した事すらない。凍てつくような風が谷底から吹き上げられ、八咫の前髪を
「死にたくなかったら黙れ、そして動くな」
端的なその説明に、八咫は無言でこくこくと首肯する。
寝棲が馬を進ませる後ろで、落馬もせず、舌も噛まぬようにする為には黙るしかなかった。
隊は十五人で構成されていた。そこに寝棲と八咫が加わった形になる。隊の中央には八咫に手刀を食らわせた男が常にいた。あの時見た長髪は外套の下に仕舞われて見えなかったが、その抜きん出て大柄な体格は他に類を見ないのですぐに見分けがついた。
それから半刻ほどしてから休息を取った折に、
「麻硝が
沸かした白湯をもらいながら、八咫は借り物の綿入れを肌に巻き直した。季節は真夏のはずなのに、やたらと冷えるのを訝しむ。
「なあ寝棲。今何刻ぐらいなんだ? それに何でこんなに冷えるんだよ」
「そろそろ寅の刻だよ」
背後から掛けられた声に八咫が振り向くと、そこには
「あんた……」
八咫は眉間に皺を寄せた。麻硝は「隣に失礼するよ」と断りながら八咫と寝棲の傍へ腰を下ろした。
「寅の刻なのになんでこんなに暗いんだよ。今夏だぞ」
「ここは囲いがない場所だからね。月朝の統治が届いていない場所は全てこうだよ。それにこの辺りはもう北の極に近いから気温が常に低いんだ。氷も解けない」
空は――
「月朝の統治下の空は
「あ、ああ、そうだけど……」
「そうか。――それはね、我々の祖先が生きた
「月人ってのは、みんなそんな異様な力を持ってるんか?」
麻硝は「いいや」と首を横に振った。
「
「赤玉って、なんだ?」
「こうだ」
麻硝は椀に指を浸し、石の上に「赤玉」と書き付けた。
「君は、我等をこの地に送り込んだ者の事はもう知っているかい?」
「ああ。異地の帝とかいう奴だろ」
麻硝は、少年らしい八咫の屈託のなさにふっと笑った。
「そうだ。その異地の帝が白玉という神を有していたのと同じく、
「御先祖様なんか」
「ああ。五百年前、相互に利潤が合致した彼等がこの二つの神を取り換えた。それが全ての始まりだと伝えられている。
八咫は難しい顔をして唇を尖らせた。
「そんな余計な事するからだ」
「うん?」
「だってそうだろ? 結局それでその
「そうだな。確かに皮肉と言わざるを得ないな。君の言う通りだ」
麻硝は、ぞっとするような美貌に笑みを浮かべる。
「神に近しい者を権勢に利用しようとするから滅んだ。恐ろしい教訓だね。
「――そもそも俗世に下ろしたって、それは良い事なのか?」
八咫の
「少なくとも、僕はそうは思わないがね。しかし白皇の時代には致し方なかったのかも知れないよ。当時はまだ戦が続いていたからね」
「戦……?」
麻硝は「ああ」、と気付いて笑った。
「この世には一国しか存在しない訳ではないのだよ」
そこで、背後から「麻硝」と呼ぶ声がした。
「済まない。続きは本営に帰投してからにしよう。ここも不干渉地帯とはいえ、決して安全ではないからね。両国の眼から逃れた民が混在して徒党を組んでいる。一つや二つではなくね。その全てが僕達に好意的な訳ではないんだよ」
白湯の中身を飲み干すと、麻硝は立ち上がった。
「八咫と言ったね。姓は?」
八咫はしばらく俯いてから、寝棲の方をちらとだけ見て麻硝に顔を向けた。
「仙鸞だ。
八咫の答えに、寝棲は一瞬だけ反応したが、それもすぐに消した。
「そうか。三寶の合祀を見極めてくれてありがとう。寝棲から道中聞いたが、君の眼には特別な能があるそうだね。ああ、ところで君は年はいくつだい?」
麻硝の問いに、八咫は刹那言葉に詰まった。そしてゆっくりと、「十三になった」と答えた。寝棲が顔を上げる。
「いつだ」
「――邑を出た日だ」
寝棲と麻硝は言葉を失う。言わずもがな、それは彼が父を喪った日でもある。暫時間をおいてから、麻硝は「うん」と軽く首肯した。
「年若い君に重責を望んで申し訳ないが、君にはこれから
「――白文?」
「白朝の文字だよ。今の月朝にも引き継がれている。
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