3 猊下


 月皇げっこうの御前にともなわれると聞いていたが、先んじてゆう璋璞しょうはくに連れて行かれたのは禁軍の兵舎だった。

 そうと言われなければ、本殿か何かと間違えるところだった。見上げた殿舎でんしゃ一つだけで、既に邑の半分が埋まる。そんなものが五つも六つも平気な顔をして続いているのだ。もう規模の違いに呆れて声も出ない。

「――流石に、そのままの身形みなりでは皇の前には出せぬのでな」

 璋璞の言い分は尤もだ。今の熊掌がまとっている直垂ひたたれは袖が千切れかけているし、髪も肌も砂だらけの埃塗ほこりまみれだ。


 ――なのだが、それはまずい。どう考えても拙い。


 これは……着替えさせられる。ヘタをすれば風呂にも放り込まれる。拙い。それだけは絶対にあってはならない。知られてはならない事が知られてしまう。血の気を引かせながら、しかし逃げると言う訳にもいかず、どうすればいいのか決められずにぐるぐると逡巡していると、そのまま璋璞は兵舎群を通り抜けてしまった。

 呆気に取られていると、目の前に堀が現れた。その上には石造りの橋が渡されている。その橋を渡り切ると、その先には赤い大門が待ち構えていた。門は白壁に囲われている。棟門むねかどの一種だろうか。書で少し見た図に似ている気がしたが定かではないし判別も付かない。邑の長邸の表門は、四脚よつあし門だ。それと違う事だけは確かだった。

 赤門を潜り抜けると、内には質実剛健を旨としたような殿舎でんしゃがあった。当然、それまでに見た兵舎とは規模も造りもまるで違う。それが、沙璋璞専用、つまり将軍用の官舎なのだった。


 成程そうか。自分は『色変わり』しない五邑ごゆうの民なのだ。


 出産の気だけで血相を変えて全軍が撤退するほどである。何時いつ如何いかなる状態で、この身から死屍しし散華さんげの毒が周囲に散り、姮娥こうがの民を毒するか分からぬのだ。だから、はじめから他の兵とは極力距離を置かせたいという事なのだろう。道理で彼等以外の月人の姿を見かけないはずだ。

 これならば、力尽くで衣を剥がされる事もあるまい。

 そう思い、ようやく、ほぅと安堵の吐息が漏れる。

 思わぬ事に救われるものだと、そう思った。


 が、当然そうは問屋が卸さない。

 

 通された先で湯殿と下婢かひを用意していると言われ、思わず後退あとずさった。しかしこれはもう四の五の言っている場合ではない。女性に湯殿の世話をさせる習慣はないと丁重に丁重を重ねて断ろうとした。が、「下婢と言っても五邑の女とは違う」と璋璞は聞かない。続けて、何よりその萎えた体では溺れかねない、世話は必要だ、女に見えるのが厭ならば下僕に見える者を付けるかと言い出す始末。ならばこのままで構わないと食い下がると、璋璞は深い溜息を吐いて、一人での入浴は許可するが、肌着を付けた後は侍女を呼ぶようにと譲歩した。


地人ちびとの装束と我等の装束は異なります故」


 まあ、その辺りが限界だろう。よく勝ち取れた方だ。

 案内された浴場は、璋璞一人の為の物とは思えぬ広さと豪奢さを誇っていた。本人の口からも、


一交いっこうも子も持たぬ故、好きに使われるとよい」


 という言葉が出ている。

 妻、ではなく交、しかも一交というその表現に、本当に己等とは異なる生物なのだという事を痛感する。

 真っ直ぐにそう語る璋璞の目に、熊掌はようやくまともな心地を取り戻し、己も真っ向から視線を返して、深く頭を垂れた。


 自邸の大広間程の大きさもある湯殿の内に誰もいない事を確認すると、肌襦袢だけは着けたまま、熊掌は湯に身体を落した。


 頭から湯船に沈むと、全身に襦袢が絡みついた。纏わりつく布の感触が、肌に触れた手を、その胸に引き寄せた腕を思い起こさせる。歯を食いしばり、両の腕で自身の身体をきつく抱き締めた。気を抜けば、ふいと何処かから自身の肉体が溶け出してしまいそうだ。それ程、今の己という存在はあまりに軽く、形を保つ事すらままならなく感じられた。


 どうしようもなく囚われ、どうしようもなく一人だった。

 戻せるものならば、時を戻して止めてしまいたかった。

 あの温もりが、心と心が吸い付くようだった一時ひとときが――恋しかった。


 用意されていた襦袢じゅばんこそ着付けるのに難のない形だったが、待ち受けていた下婢に着付けられたのは深衣しんいだった。無論熊掌にはその違いを知る由もない。ただ、履き慣れぬ革の靴にはひどく難渋した。

 身支度を済まされた後、長い回廊を渡り連れて行かれたのは、正殿などの他の宮に比べれば余程簡素な平屋の殿舎だった。

 璋璞が先んじて中に入る。それに続くと、そこは予想に反して明るい場所だった。それも極彩色に室内を染め上げている。見上げれば天窓には彩色玻璃の明り取りがめられている。そしてその部屋の一段上がった間の片隅には臥牀がしょうが一床置かれており、その上には、こちらに背を向けたまま、しどけなく半身を横たえている人影があった。その背には、長い白髪が惜しげもなくたたえられている。

 璋璞が音もなくその段差の手前で膝を折り叩頭した。


「沙璋璞、まかしました。えいしゅう東馬とうまの後嗣、ゆうをお連れいたしました」


 璋璞の声を受け、臥牀の上の人物が、ゆっくりとこちらへ向けて体を起こしつつ顔を向けた。

 月人つきびとの例に漏れず、当然のように白髪白眼の主である。しかし、いまわずかな例しか持たないとは言え、今までに熊掌が見知った月人の顔立ちとは、大きく異なる印象を受けた。

 その唇は厚く、目鼻立ちの彫は深く、全体の造作は大振りだった。一見して男性的な外観ではあるが、そのまなじりと唇には紅をさしている。無論、月人である。大抵の性は雌雄に二分されないのだ。だから、その心象で分類する意味はないのだろう。

 見ればその手には一冊の書籍がある。その人物は欠伸あくびを噛み殺しながら半跏はんか趺坐ふざを組み、頬杖をついて、にまり、と笑った。


「――璋璞しょうはく。手間を取らせたねぇ」


「いえ。御猶予をたまわかたじけなく存じまする」

 紅の人は、猫のように目元を細めながら面白そうに熊掌を見る。そして大きく一息吸い込むと、「ほぅ」と感心したようにその眼を見開いた。

「聞きしにまさる雌雄の別なき美貌だね。実際に会うてわからぬものとは思わなんだよ、えいしゅうの子。我等が装束もよう似合におうているじゃないか。いっそ、瀛洲に与える着物も他邑たゆう同様全て変えてしまってはどうだえ? 見目みめうるわしくなれば、我が民が地人より受ける心象も少しは変わるやも知れぬぞ」 

 熊掌が困惑したまま棒立ちしていると、璋璞が頭を上げてわずか熊掌の方へ視線を向けた。


「蘇熊掌殿。猊下げいかの御前である」


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