2 帝壼宮



 立ち上がろうとして、はじめてゆうは自分の全身が本格的にえているのに気付いた。体重を支える為にいしどこに手を突くというだけの事が震えて出来ない。たかがそんな事に難儀している自分が信じられなかった。

 そんな熊掌を助け起こそうと、沙璋璞さしょうはくが手を伸ばした。その手を取るのを一瞬熊掌は躊躇ちゅうちょした。が、それをどう解釈したものか、璋璞は薄く笑った。くっきりとした二重のまなじりに薄い皺ができる。それだけで、璋璞の印象は随分と柔らかくなった。

「問題はない。『御髪みぐし』を含むさんぽう合祀ごうし如何いかに猛毒であろうと、手を貸す程度では何もさわりはせんよ」

「あ、ありがとう、ございます」

 熊掌は呆気にとられた。躊躇の理由が、随分と好意的に受け取られた物だと驚いたのだ。自分は、いや、自分達は、そんなに従順なように彼等からは見えているのだろうか? 不満と困惑を噛み締めながら、熊掌は璋璞の手をとった。

 軍人の腕力が、ぐい、と熊掌の身体を引き上げる。すると、熊掌の身体がふわりと宙に浮き上がった。通常では考えられぬ、ゆったりとした速度でようやくその足が石床の上に着く。熊掌には最早慣れ切った体感だが、慣れぬ璋璞は困惑の表情を浮かべた。

「――なんと、ほんのわずかに手をお貸しするだけで、まるで羽衣を得た天女のように舞い上がられるか。かように細く軽やかな肢体でありながら、一体何処いずこよりあれ程の剛力が生まれるのか。――まこと地人ちびとというものはいくら関わっても底が知れぬ」

 成程こういう事か――と、熊掌は初めて納得した。

 悟堂ごどうは昔から口を酸っぱくして、熊掌には人前で飛ぶなけるなと言い聞かせてきた。邑では所作や立ち居振る舞いを正しくするよう厳しく注意されてきたからそんな醜態を見せる事もなかったが、つまりはそれに隠され護られてきたのである。

 苦い笑みが微かに口元に浮かんだ。

 彼の手が、心が、こんなところにまで及んでいる――その事実が、胸に痛かった。

 震える膝を何とか抑えながら、熊掌は璋璞の隣に立ち、促されるまま牢を出た。縄にでも繋がれるかと思ったが、そういった事もなかった。

「体が辛いようなら言いなさい」

「はい」

 熊掌には、自身の扱われ方がこれで妥当であるのか計りかねた。罪人に対する物としては丁重に過ぎるのではなかろうか。

 璋璞が先導して歩き出す。熊掌の脚に合わせてか、ゆっくりとした歩調であった。熊掌の背後には、少し離れて先程かせを解いた二人の兵が続く。監視というような強い意図も感じなかった。

 牢を左側に五つほど眺めながら進む正面には、鉄製の両開きの扉がある。邑ではついぞ見た事のないような、重厚な代物だ。左側の扉の上部には、小さな覗き窓がめられている。璋璞が声をかけると、その窓が反対側から跳ね上げられ、看守と思しき者の眼が覗いた。暫くすると、がちゃん、と物々しい音がして扉が開かれた。ぎぎぃ、と、さっきも聞いた音がそこから発せられる。その向こうから差す光の強さに、熊掌は思わず目をつむった。

「蘇熊掌殿」

 璋璞に呼ばれ、眼を細めながら熊掌は扉を潜った。細めた眼をやっとの思いで少しずつ開いてゆく。そして、光に慣れ始めたまなこようやく目にしたその光景に、熊掌は絶句した。

 思わず、ふらふらと足が進む。

 扉を抜けた先は石造りの露台となっていて、朱に塗られた欄干によって囲われていた。熊掌は恐る恐るその欄干に手を置く。触れたその感触から、既に邑の物とは品質が違うのが分かる。恐る恐る顔を上げる。その先に広がっていたのは、正しく想像を絶する光景だった。



 ねり色に、所々薄紅うすくれないを刷毛で刷いたような天球には、宝玉が散りばめられ紫雲が棚引いている。ここまでは、白玉の間と同じだ。あの祠の内にある寝殿の天空も、これと同じ空を頂いている。

 が、その先がまるで違った。

 果てなき遠景には銀の砂漠に金の河がある。更にその果てを、金剛の如き荒々しいいわおの山脈が囲っている。そして、それらの煌びやかな自然を借景とし、尋常ならざる広大な宮城が、そしてそれを取り巻く城郭都市が、こうこうしく白銀の屋根を輝かせていたのだ。



 熊掌は、その凄まじい光景を、高所から見下ろしていた。

「あの、ここは……」

「北東の角楼かくろうだ。従来は妣國ははのくによりの襲撃に対する備えと見張りに使われたが、それもはるか遠きいにしえの事。両国間には今や不可侵の約定が結ばれておるゆえ、こうして有事における一時的な留置に使われるのみ」

 璋璞は今いる場所の事を問われたと思ったのだろう。そう答えた。角楼というだけあり、その建物を起点として、熊掌が見下ろす遥か下には二方向に向けて直角に城牆じょうしょうが伸びている。その一遍に沿うように河が流れ、その河を挟んだ向こうには巨大な街が広がる。

「――これが、宮城……」

 璋璞は、熊掌の独白に、ああとようやく思い至ったらしい。


げつ如艶じょえん猊下げいかが治められる姮娥こうが国が統治のいただきである、帝壼宮ていこんきゅうと申す」


 名だけは知り得ていたその実態を目の当たりにし、熊掌の全身は震えた。

 己は、己等は、これ程の大きく計り知れない物に対して弓を引いたというのか。戦い挑もうとしたというのか。

 漸く理解できた。父は、実際にこれを見ていたから白浪はくろうに後を委ねようとしたのだ。こんなにまで明らかに違う広大な規模の化物に、おいそれと挑んで勝てる道理があろうはずがない。

 欄干に置いた両手を拳に握りしめた。

「蘇熊掌殿。参ろう。歩けるか」

「――はい」

 人はあまりに打ちひしがれると、もう笑いしか浮かばないものなのかもしれない。唇の端に薄く笑みを浮かべた熊掌の顔を見た璋璞は、思うところがあったのかなかったのか、何も言わずに歩き出した。

 露台の左へ回るように階段が下へと延びていた。角楼をぐるり巡りながら降りてゆくそれを下りながら、熊掌は恐る恐る璋璞に声をかけた。

「あの、沙将軍」

「はい」

 先導する璋璞は、振り返りもせずにただいらえだけ返した。応えは返してくれる、という事だろう。

「先程おっしゃっていた、地人ちびと、というのは一体なんなのですか」

「ああ、貴殿方五邑ごゆうの民の事です。異なる地から来た人という事で、異地人いちびとと呼んでいたものが、やがて地人と」

「異地人、ですか」

 ひょお、と風が鳴り、熊掌の小袴をはためかせては過ぎ去ってゆく。

 背を向けたまま、沙璋璞はゆっくりと一つ首肯をした。

「貴殿方は、我々とはあまりに違う。違うものであるのに姿形があまりに似通い過ぎている。しかし、やはり異なる命。共に時を歩む事はできない。その理解が必要であった事から別を付けるために設けられた。その為の呼称です」

 熊掌は思わずくっと笑った。

「――月人の皆様からすれば、我々は理解の及ばぬ毒の化物で、共に歩めるような代物ではないのですものね」

 その言葉を受けて、璋璞は歩みを止めた。半身で振り返り、熊掌を見詰める。

「――蘇熊掌殿、我は今でこそ禁軍におりますが、かつては黄師こうしとして、貴殿方から集められた死屍散華ししさんげの管理をしており申した」

 熊掌は、ゆっくりと瞬いた。

「黄師に、いらしたのですか」

 璋璞は首肯する。

「軍師双方に属した立場から実直に申し上げるが、黄師であるか否かの別なく、地人に対する知識があり、尚且つ貴方方の命は神より預かりしものであって、我等が支配する物でもわたくしして良い物でもないという認識がある――そう言った者は大勢ではないのが実情です。故に今この時、貴殿の監視に我を差配なされた猊下のお心を、貴殿には理解していただきたいのだ」

 璋璞は手を伸ばした。熊掌は、わず躊躇ちゅうちょしてからその手に自分の手を重ねた。



「貴殿方の命はあまりに儚い。我々からすれば、刹那せつなで散る風塵ふうじんごとき物。――共に歩めるつもりで関わるのは、辛く苦しい」



 そう呟いた沙璋璞の眼差しは、なんの表情もたたえていないようでいて、どこかしら――やはり苦しそうに見えた。


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