2 帝壼宮
立ち上がろうとして、はじめて
そんな熊掌を助け起こそうと、
「問題はない。『
「あ、ありがとう、ございます」
熊掌は呆気にとられた。躊躇の理由が、随分と好意的に受け取られた物だと驚いたのだ。自分は、いや、自分達は、そんなに従順なように彼等からは見えているのだろうか? 不満と困惑を噛み締めながら、熊掌は璋璞の手をとった。
軍人の腕力が、ぐい、と熊掌の身体を引き上げる。すると、熊掌の身体がふわりと宙に浮き上がった。通常では考えられぬ、ゆったりとした速度でようやくその足が石床の上に着く。熊掌には最早慣れ切った体感だが、慣れぬ璋璞は困惑の表情を浮かべた。
「――なんと、ほんの
成程こういう事か――と、熊掌は初めて納得した。
苦い笑みが微かに口元に浮かんだ。
彼の手が、心が、こんなところにまで及んでいる――その事実が、胸に痛かった。
震える膝を何とか抑えながら、熊掌は璋璞の隣に立ち、促されるまま牢を出た。縄にでも繋がれるかと思ったが、そういった事もなかった。
「体が辛いようなら言いなさい」
「はい」
熊掌には、自身の扱われ方がこれで妥当であるのか計りかねた。罪人に対する物としては丁重に過ぎるのではなかろうか。
璋璞が先導して歩き出す。熊掌の脚に合わせてか、ゆっくりとした歩調であった。熊掌の背後には、少し離れて先程
牢を左側に五つほど眺めながら進む正面には、鉄製の両開きの扉がある。邑ではついぞ見た事のないような、重厚な代物だ。左側の扉の上部には、小さな覗き窓が
「蘇熊掌殿」
璋璞に呼ばれ、眼を細めながら熊掌は扉を潜った。細めた眼をやっとの思いで少しずつ開いてゆく。そして、光に慣れ始めた
思わず、ふらふらと足が進む。
扉を抜けた先は石造りの露台となっていて、朱に塗られた欄干によって囲われていた。熊掌は恐る恐るその欄干に手を置く。触れたその感触から、既に邑の物とは品質が違うのが分かる。恐る恐る顔を上げる。その先に広がっていたのは、正しく想像を絶する光景だった。
が、その先がまるで違った。
果てなき遠景には銀の砂漠に金の河がある。更にその果てを、金剛の如き荒々しい
熊掌は、その凄まじい光景を、高所から見下ろしていた。
「あの、ここは……」
「北東の
璋璞は今いる場所の事を問われたと思ったのだろう。そう答えた。角楼というだけあり、その建物を起点として、熊掌が見下ろす遥か下には二方向に向けて直角に
「――これが、宮城……」
璋璞は、熊掌の独白に、ああと
「
名だけは知り得ていたその実態を目の当たりにし、熊掌の全身は震えた。
己は、己等は、これ程の大きく計り知れない物に対して弓を引いたというのか。戦い挑もうとしたというのか。
漸く理解できた。父は、実際にこれを見ていたから
欄干に置いた両手を拳に握りしめた。
「蘇熊掌殿。参ろう。歩けるか」
「――はい」
人はあまりに打ちひしがれると、もう笑いしか浮かばないものなのかもしれない。唇の端に薄く笑みを浮かべた熊掌の顔を見た璋璞は、思うところがあったのかなかったのか、何も言わずに歩き出した。
露台の左へ回るように階段が下へと延びていた。角楼をぐるり巡りながら降りてゆくそれを下りながら、熊掌は恐る恐る璋璞に声をかけた。
「あの、沙将軍」
「はい」
先導する璋璞は、振り返りもせずにただ
「先程
「ああ、貴殿方
「異地人、ですか」
ひょお、と風が鳴り、熊掌の小袴をはためかせては過ぎ去ってゆく。
背を向けたまま、沙璋璞はゆっくりと一つ首肯をした。
「貴殿方は、我々とはあまりに違う。違うものであるのに姿形があまりに似通い過ぎている。しかし、やはり異なる命。共に時を歩む事はできない。その理解が必要であった事から別を付けるために設けられた。その為の呼称です」
熊掌は思わずくっと笑った。
「――月人の皆様からすれば、我々は理解の及ばぬ毒の化物で、共に歩めるような代物ではないのですものね」
その言葉を受けて、璋璞は歩みを止めた。半身で振り返り、熊掌を見詰める。
「――蘇熊掌殿、我は今でこそ禁軍におりますが、かつては
熊掌は、ゆっくりと瞬いた。
「黄師に、いらしたのですか」
璋璞は首肯する。
「軍師双方に属した立場から実直に申し上げるが、黄師であるか否かの別なく、地人に対する知識があり、尚且つ貴方方の命は神より預かりしものであって、我等が支配する物でも
璋璞は手を伸ばした。熊掌は、
「貴殿方の命はあまりに儚い。我々からすれば、
そう呟いた沙璋璞の眼差しは、なんの表情も
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