4 喝破

1 沙璋璞


 ぴちょん、と水滴が近くでしたたり落ちる。

 その音に誘われたかのように、ふぅ、とゆっくり熊掌ゆうひは瞼を開けた。


 虚ろなまなこが、かすみながらも、牢の鉄格子を見るともなく見る。

 いしどこの上に直接下肢を付けているため、全身が冷えて痛んだ。両腕は後ろ手にされて木のかせを付け吊るされているから、もう肩の辺りなどは感覚あるのかどうかも危うい。


 ――もう何日をこうやって牢に繋がれ過ごしたろうか。


 ああ、こうなって少しだけ蔓斑つるまだらの気持ちが分かる。今の自分なら平気で火を掛けてしまいそうだ。

 悟堂ごどうを見失った後、熊掌は身も世もなく海の中で絶叫した。周りなど何も見えていなかった。その隙を突かれた。後頭部に投石が命中し、そのまま気を失ったらしい。頬に打擲ちょうちゃくを受けて意識を取り戻し、自身がとらえられている事に気付いた。その直後、どさりという音と共に自分の隣に投げ出されたのは、他でもない、肩を酷く負傷した父だった。

 それぞれ違う移送車に乗せられ、一月近い行程を経て自分達が引き立てられたのがここだった。移送車から下ろされる直前に頭から布を被せられ、この牢に叩き込まれたから、ここがどこなのかは分かっていない。邑からどれ程離れているのかも想像が付かない。何もかもが分からないまま、今に至っている。

 熊掌は、小さな溜息をいた。


 瞼の裏に、あの柔和な笑顔が蘇る。


 守ると言ってくれた。

 耳元でささやかれた「必ずお前の元へ戻る」という言葉が、心の臓を掴んだまま離さない。

 その人を、その命を、自分はあの海に取り落としてしまったのだ。 

 すっぽりと包まれたぬくもりを思い出しても、すぐにつるりとすべり落ちて霧散してしまう。

 本当ならば、こんな事で心を締めている場合ではないのに。父と自分の双方が同時に不在となっている邑は大丈夫なのか。今どうなっているのか。母上と長鳴は、皆は無事なのか。何よりそこを考えるべきなのに、今の自分はどうだ? 思い浮かぶのは、彼と――悟堂ごどうと生きた日々の事ばかりだ。

 最初の内は、悟堂の生存に対して一縷の望みをかけてあれこれ考えを巡らせ続けた。

 もしかしたら、姿が見当たらないのは、ここではない場に捕らえられているからかも知れない。いやもしかしたら、ここにおいて彼は捕らえられる側の立場にはないのかも知れない。

 ある日突然、見慣れぬ衣服を纏い、牢の鍵を開けて、「約束したろう」と笑いかけてくるかも知れない。

 もう、推測かも妄想かも分からなくなって――考えるのを止めた。

 この状況下では、何一つ真実になど辿り着けはしないのだ。



 ――阿呆だ、俺は。



 自嘲の笑いで、喉の奥がくつくつと小さく鳴った。

 周囲の状況を探れるのは音と光だけだった。最初の内は幾ばくか朦朧もうろうとしていたが、やがて日中か否かから日数が数えられるようになった。日に何度か見回りの兵がある以外は、本当に静かだった。

 ゆっくりと右隣の壁を見る。その向こう側には、しばらく前まで父が繋がれていた。ある日唐突に兵が数名現れ、熊掌の牢の前を通り過ぎた。右側から荒い言葉と共に金属の軋む音がした。ややあって、鉄格子の向こう側を、鎖に繋がれた父が通り過ぎて行った。ほんの一瞬だけ目が合ったが、その姿は吸い込まれるようにして左側へと流れて消えた。


 そうして、本当にそこにいるのは自分一人だけになった。


 諦めと痛みに慣れ、確実に意識を取り戻したと実感を得てから、既に数日が過ぎている。溜息なのか吐息なのか分からない物が唇から零れ落ちる。開いた時と同じように、ふぅっと瞼を閉じた。


 と、

 ぎぎぃ、と重い音が聞こえた。


 は、と目を開き、つい、と視線を左に送る。鉄格子の向こうの石床を光の筋が濡らしている。――扉が開いているのだ。

 そのまま待っていると、やがて三人の兵が姿を現した。がちゃがちゃとせわしない音を立てて鍵を開け、兵等が熊掌の捕らわれている牢の中に入ってきた。

 さすがの熊掌もまばたきして顔を上げた。こんな事は、ここに繋がれてから一度もなかった。

 真っ先に眼を引いたのは、先頭に立つ一人の男だった。

 男は、胸に届く白髭鬚はくししゅと、白く鋭い眼光の持ち主だ。全身を竜文様に彩られた赤い甲冑に包み、じっと熊掌を見据える。その男の後ろには、雑兵と思しき二人が控えている。そちらの纏う鎧の色は灰銀。つまり彼等は黄師ではないのだろう。黄師の鎧は全て黄白おうはく色だったから。


「――瀛洲えいしゅう熊掌ゆうひ殿、だな」

 

 赤甲冑の男は、低く静かな声で問うた。熊掌が無言のまま頭を垂れると、男は後ろに控えていた兵に「かせを」と告げた。二人の兵は熊掌から戒めを解くと、牢を出て鉄格子の外に控えた。

 熊掌が久方ぶりに解放された腕をさすっていると、一人残った白髭鬚の男が眼の前で膝を突いた。思いも寄らない行動に、熊掌は思わずびくりと後退あとずさった。それに対して男がどう思ったかは知れないが、彼は、ただじっと熊掌を見ていた。その眼差しは鋭いながらも静かで――清廉だった。

 その目で熊掌を見詰めたまま、すぅ、と大きく息を吸い込む。


「――本当に、分からぬものだな」


「え」

 ぼそりと男が零したその言葉を聞き洩らした熊掌が眼を見開いていると、男は頸を横に振り「いや、失礼致した」と続けた。

「手荒な真似をした。しかし、貴殿の力が強過ぎてな。こうする事しかできなんだ」

 最初は男の話を理解できなかったが、捕縛の直後と到着して後、しばらくの間、自分は随分と暴れたらしい。止むを得ず薬を盛った事を詫びる、と男は続けた。

「我は禁軍右将軍、と申す。貴殿が正気を取り戻しているか否かの判断を一任されている。我がとした後、皇の御前に引き立てる。此度こたびの件は、皇自らが裁断を下される事となる」

「あ、あの……」

 久方ぶりに発した声は、かすれて音にならなかった。否、暴れていたというから声を枯らしたのかも知れない。

「あの、父と、それから、他に捕らえた者は、ありませぬか。供の者が、背を、二本の矢で射られて海に落ちたのですが……」

 しばらくの間沈黙していたが、やがて「そういった話は聞いていない」とだけ告げた。一縷の望みを絶たれた熊掌は、静かに項垂れた。


 これが、熊掌と右将軍璋璞しょうはくとの邂逅かいこうである。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る