序文 親子-2


 南方みなかたは邑で唯一ししが狩れる男だ。漁業を中心とするこの邑で、獣を狩り、また食らう世帯は多くない。生々しい血抜きや皮剥ぎは好かれるものではない。だからこそか、自身が死んだあとは自分の肉体も、命を多く頂いた場所に還したいと、まあそういう腹積もりでもあったのだろう。はっきりと語られた訳ではなかったが、梶火は勝手にそう理解していた。

 一体いつからじじいをやっているものか定かではないが、南方は梶火が物心つく前からずっと爺だった。だのに、その筋骨は常にたくましく、いかつく、その拳は容赦なく梶火の脳天に叩き落された。

「なあおっちゃん、この事、長鳴ながなきには」

「わかってる言わねぇよ。若が帰ってきても言うなってんだろ」

「ああ。頼む」

「だがなぁ、何時までも隠しおおせるってもんじゃねぇぞ?」

 男の言葉に梶火は黙った。

 そんな事は重々承知していたが、それでも――報せたい事ではなかった。出来る限り俎上そじょうに載せぬままにしておきたかった。誰よりも自分自身が。

「ありがとうな、おっちゃん。後は俺一人でやるわ」

「本当に大丈夫か?」

「他の手伝いが出来ずに済まねぇって、班の皆に言っといてくれるか」

「そりゃ構わんが――本当に無理だけはするなよ」

 梶火は男に背を向けたまま、こくりと頷いた。



『おいこらテメェ、何八俣やまたせがれくそみてェな因縁つけてやがんだ‼』 



 がつん! と激しい音と共に、頭頂に鉄拳制裁を喰らってかじが土間に崩れ落ちる。

 あのガチガチに硬い筋肉をまとった爺のこぶしの前では為す術もない。涙目で土間に片膝を突いたまま、両手で頭を押さえつつ梶火は南方を見上げる。

『爺……テメェこそいきなり何しやがんだちっくしょう……』

『何しやがんだじゃねぇや恥かかせやがって』

『なんっでテメェまで無参拝野郎の肩もつんだよ⁉」

 がちん! と再び拳が落ちる。「うおお」とうなりながら、今度こそ梶火は土間に額を着けた。

『――おい糞餓鬼。俺はテメェにそんな教育をほどこした記憶はねぇぞ。一体何時からテメェは人様の事を参拝の有無で批判出来る程偉くなりやがった? ああん?』

『っだよ! あいつらが無参拝なのは事実だろうが⁉』

白玉はくぎょくの参拝の有無ってんなら、俺もしてねぇだろが』

『そりゃあんたはアガリの年だからだろうが!』

 アガリ、というのは、参拝の役割を免除される取り決めの事だ。

 『色変わり』する者が加齢により白髪化すれば、当然死屍しし散華さんげが十二分に吸着されているかを「布」で見分ける事は出来なくなる。無論、邑人自身はその根拠を知らないが、邑長からの指示と判断でアガリとされれば、その邑人は参拝の役目から解放された。

 こめかみに青筋浮き立たせた南方は、仁王のような形相で梶火を見降ろしている。

『統治における正論をテメェみてぇな青二才に語ってもらう程落ちぶれちゃいねぇから俺の前では口には出すなよ。――いいか糞餓鬼。共同体の維持ってのはなぁ、むち振るって杓子定規に足並み揃えさせてりゃ良いってもんじゃあねぇんだよ』

 南方は確かに豪快な筋肉で出来ていたが、その理屈っぽさも十二分に突出していた。手先も器用であらゆる技術に明るく、まあよく出来た男だったのである。――自然、梶火もその影響を受ける。

『は? 実際に参拝してるしてねぇぐらい見れば判るだろうが⁉』

 「はんっ」と南方は呆れた鼻息で梶火を小馬鹿にした。

『――いいか? テメェ等はな、生まれてからちっとも役に立たねぇ数年を親に食わせてもらって生き方を叩き込んでもらって、やっとなんとかモノになんだ。そんでその内に年食ってまた役に立たなくなって、人の世話になって生きるんだよ。そういう風にできてんだ』

『だから! その短けぇ役に立てる期間に必死こいて働いて、動けねぇ期間に人の世話になる分がんばらなきゃならねぇって事じゃねぇか⁉』

『だからそれが間違ってんだよ』

『何が!』

 南方の、白内の病にやられた両目が梶火の目を射抜く。



『――じゃあ何か? テメェの生まれついて与えられた肉体が奴等の身体だったらどうした?』



 ぐっと一瞬梶火が詰まる。

『憶えたくても憶えられねぇ。鈴音を聞こうにも音が聞こえねぇ。そんでどうやって手順を守る? 守れるか? そうでなくとも手足に麻痺があって階段も登れねぇ身体だったら? それがテメェだったらどうだ?』

 眉間に皺を刻みながら、しかし梶火はぎりっと負けん気の強い目で南方を睨み返す。

『――そんなもん! 這ってでもやるに決まってるだろうが!』

 その言葉に、南方は溜息を零した。

『だからテメェは馬鹿だっつってんだ』

『何でだよ! 責務を果たすのは村の一員としての自覚があるからだろうが⁉』

『邑の邑のと言うならな、まず邑がそんな効率の悪い事を求めてるかどうかを見極めてから言いやがれ。そりゃ責任感じゃねぇ。ただの意地だ。そんなヤツに無駄に時間かけて参拝やらせるよか、家で飯炊きやらせた方がよっぽど効率がいいだろうがよ』

 南方は、ぐいっと梶火の襟首を掴んで立たせた。南方の体格が良すぎる事もあるが、二人並ぶと梶火の小柄さが際立つ。

『いいか、勘違いすんじゃねぇぞ。こりゃな、人間の向き不向きの話ですらねぇんだ。役に立つ立たねぇで弱者を切り捨てて良しとしたら、その内、共同体にある、一つの価値観における一定数以下は切り捨てて良いって理屈がまかり通る事になっちまうんだよ。そりゃ集団にとっちゃ害でしかねぇ。しし狩りができるのが邑にとって最良という前提ができたら俺以外はみんな不要になるし、子を産んで増やせるのが最良だとしたら男はみんな塵屑ごみくずだ。――立場が弱い奴を思いやる器量をその価値観にされたら、真っ先に切り捨てられるのは多分テメェだぞ? だから、どんなに誰かの負担になってるように見えようが、切り捨てていいって理屈だけはあってはならねぇんだよ。互助を可能にするために、邑に余剰と体力をつけさせる。それが統治者の責務だ。東馬とうま達はそれをちゃんと分かってんだよ。だからテメェが横から口出すんじゃねぇ。恥掻く』

 梶火は悔し気にうつむいて口をへの字に曲げた。

 正直なところ、南方が言っている事は、頭では理解できていた。でも気持ちの上で受け付けない。そう易々と――心は切り替えられない。

『――そりゃ、必死こいてる俺は独り相撲で無様で無意味って事かよ』

 「はぁ」と南方は再び溜息を吐いた。

『そういう事じゃねぇ。……努力は必要だ。生きる事を舐めてたり、義務を面倒くさがって他人に投げて逃げるようなずるい奴には、そういうはいしか回って来ねぇってのも自明だ。そうならねぇように、迷惑だと思われん為に、お前が必死こいて頑張ってきたのは誰より俺が一番よく知ってる。――だがな、人には生まれもっての個体差ってもんがあるんだよ。賢ぇ奴やら体力がある奴、それから健康な奴ってのはな、当たり前じゃねぇ。そりゃただの期間限定の偶然の特権だ。動ける奴が、動けねぇ奴の分、出来る範囲で助けてやりゃいいんだよ』

 巨大な手が、梶火の頭をがしがしと撫でる。

『いいか? 本当はな、テメェが知らねぇところで、助けてるつもりの奴に助けられてるんだ。それが分かんねぇのは、他でもねぇ、テメェの経験が浅くて餓鬼で無知だからだ。だから、分かるようになるまで、その目ん玉かっぴらいて、邑中の連中をよく見て学べ。教わるんだ』



 ざく、ざく、ざく、

 絶え間ない音が、しばらくその場に響き続けた。

 一人でくわを振るい、一人で穴を掘って土をどかし、南方みなかたを入れた布を穴の底に横たえて、また一人で土を盛る。汗と土でどろどろになる。

 この埋葬のために育ててやってんだ。きっちり恩返しぐらいはしやがれ。そう言っていた。

 馬鹿野郎。恩返しなんざし切れる訳ねぇだろうが。


 馬鹿野郎が。


 保管小屋の延焼は、思いの他大きく広がっていた。梶火の班の人間の家もかなり焼けた。――火を放ったのがつるまだらだという話もまた、火の粉と共に瞬く間に人口に膾炙かいしゃした。

 皆が、逆上した。

 梶火の家の隣の隣は蔓斑だ。これは、汐埜しおのの夫だった蔓斑の従兄弟の家族に当たった。押し寄せた黄師こうしによって両親は切り殺された。残された一人娘が邑人に髪をつかまれ家から引きずり出され、焼けた柱を両腿に押し付けられあぶられていた。これを助けかばおうとした南方が、逆上した連中に滅多打ちにされて――えた。

 結局、犯行に及んだ者等は全て黄師に切り殺されていた。

 蔓斑の娘一人が生き残り、今は邑長邸で手当てを受けているが、助かるかどうかは五分だという。

「なあ爺。――俺、今度こそ本当に一人になっちまったよ」

 申し訳程度に土饅頭のきわに刺した木の枝の墓標の前で、胡坐を掻いて座り込んだ梶火は、力なくぼそりと呟く。



「――俺、これから何のために生きりゃいいんだろうな」


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