60 恋 ー経緯ー 



 互いに髪に触れながら、相手の頬を包み込む。まるで違う手の大きさに、思わず笑ってしまう。きっと、これからまた差が増してくるのだろう。

 あんなに長く、あんなに狭いむらの中で、ほとんど毎日互いの顔を見てきたのに、ずっと一緒にいたのに、こんなに近くで、ちゃんと互いの顔を見つめ合った事などなかった。ただ静かに、互いの吐息が掛かり合う距離で、互いの温もりに触れる。

 唇の形、頬骨の高さ、瞼の形、眉の手触り、ゆうがなぞるかじひげの剃り跡。梶火の指先が辿たどる熊掌の下顎かがくこつ。ずっとずっとすぐ隣にあったのに見過ごしてきたものに、近付かずにおいたものに、そっと手を伸ばす。実際に触れて感じる。生きている手触りを知る。

「――ごめん」

 ささやくような声で梶火は零した。

「本当の事言う。俺、すげぇいやだった」

 頬と頬をすり合わせる。かすかに熊掌の頬のほうが冷たい。

「俺、自分の気持ちが分かってなかった。俺、あの時きっとすげぇ厭だったんだ。俺の事を一番に信じて選んで欲しかったのに、そうしてもらえなかった。でも、選んでほしいって自分の本心がわかんなかったから言えなかった。気付いたのが今更だから仕方ねぇんだけど、俺が悪いんだけど。そりゃ信頼とかって話になれば師範に勝てねぇのは仕方ねぇよ、分かってるよ。わかってるんだけど――」

紫炎しえん

 熊掌が梶火のくびに両腕を回す、瞼に口付けを落とす。唇は首筋に流れ落ちる。指先が梶火の帯を解き胸襟を開いた。



「今、選んでる」



 肩から短褐たんかつが滑り落ちる。

「僕がこんなに我儘を言えるのは、紫炎にだけだ」

 熊掌の長い黒髪がさらりと零れて石台の上に広がる。甘い、薔薇と黒木苺の香りが広がる。

 情欲と、安堵と、労わりたいという思いと、それに勝る、この腕から放したくない、離れたくない、守りたいという思い。自分の中にある強い思いは、全てこの腕の中の命に向けられている。


 我知らず涙が零れる。

 ふいに、騎久瑠の言葉が耳の奥に蘇る。


(やっぱり変だ。なんか変だぞ、お前のその大兄っての)

(種は明らかに雌性雄性なのに、捻じれが起きている)

(一度でも『神域』に関わった者において、繁殖の為の種は意味を為さないものになる。だから種が捻じれて認識されるようになる)

(――そいつ、本当にただの五邑か?)


 梶火の胸の内に芽吹いた焦燥の種が、再び騒ぎ出す。取り返しのつかない何かが予感させる。こんなに腕の中に捉えているのに、熊掌を連れ去ってしまうような、そんな強い不安が全身をひたしてくる。

 思いを重ねられた気はしている。

 方丈に対する憎悪と怨嗟は底がなく膨れ上がり続け、『発露』に育まれ、いつか限界を迎える予感はしている。

 しかしそれとは全く別に、何だろうか、するりと指先から零れ落ちてしまうような、そんな怖さがある。それが厭で、手と手を重ね、包んだ。指と指を絡めた。息がつまる程に唇を重ねた。

 甘い薔薇の香りと、熊掌自身の汗の匂いが混じり、肺の奥にまで満ちる。眩暈がする。

 唇を離し見下ろすと、紅潮した頬の熊掌がこちらを見上げていた。潤んだ眼がじっと見つめ返す。これが恋しいという思いならばそれはなんと苦しいものなのだろうか。これでは胸が潰れてしまう。


 熊掌の指先が頬に触れる。

 瀑布の音が辺りを包み込む。枝鳴りがひどく大きい。

 だから、この声も、音も、全部包み隠してくれるはず。

 お願いだ。誰もせいに気付かないで。見逃して。連れて行かないで。

 俺からこの人を取り上げないで下さい。

 人生も命も何もかも差し出すから、この人の為に戦って死ぬならそれでいいから、お願いだ。

 神様。

 どうか神様。

 奪って行かないで。

 抱き締めていると、今まで埋まらなかったあらゆるものが満たされてゆくような気がした。涙が落ちる。止められない。

 どれだけ自分が温もりに飢かつえていたのか、甘く清い水を求めていたのか、眼の前の人達が当たり前のように手にしているそれを飲み干したかったのか、漸く痛感した。

 自分はずっと、欲しいと求める事を許され、受け入れられたかったのだ。

「かお」

 苦し気に熊掌が呟く。

「しえん、顔、かお見せて」

 その言葉で、涙を隠すために自身が顔を背けていた事を知る。熊掌の両の手が梶火の頬を包み込む。涙の滴が熊掌の頬へ落ちる。

 ふわりと微笑んだその顔を、自分はずっと求めていたのだ。


 二人は時間が赦す限り、露台から動かなかった。

 これが最初で最後になるかも知れない。

 その可能性が高い場所に自分達は身を置いている。

 次に離れたら、それが互いの姿を眼にする最後になるかも知れない。例え生きていたとしても、だ。

 そうでなくとも、これは他の人間に――特に邑で明かせる事ではない。秘する必要がある以上、帰邑すればこの肌に触れる事はおろか、微かに寄り添う事すら許されないだろう。

 それが余計に今を手放し難くさせた。知らなかった互いを探して、痛みに変わる目前になっても指先を絡める事を止められなくて。

 もつれあった脚と、視界を覆う黒髪と、天地が入れ替わるのを何度も何度も繰り返して――夜の開けない朝が来るまで。



 それが恋ではないと言うならば、もう何でもよかった。




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