59 脈動 ー経緯ー


          *


 神無月かんなづきともなると、流石さすがに夜は冷える。

 滝のはたともなれば尚更だ。水中ともなれば何をかいわんやである。

 その水中に以前身をひたしたのはもう半年も前の事だ。あの時はくずれかけた熊掌ゆうひを支えるのに必死だったから、水の感触もろくに覚えていないけれど、今自身の身を浸して、初めてその水の清さにかじは気付いた。すくって口に含めば、甘い。しかしこの水もまた死屍しし散華さんげに汚されているのだという。自分達にとっては何と言う事もないこの清い水で命を奪われる者達が大勢いる。その事実は、この世と五邑ごゆうへだたりを強く思い起こさせる、あらがいがたい事実だった。

 梶火は諸手もろてで水を掬い取り、頭から被った。繰り返し、繰り返し被る。何度も同じ事を繰り返すうちに、ようやく冷たさに慣れ、震えは収まった。


 この翡翠ひすいの滝までくれば、えいしゅうはもう目前である。

 

 儀傅ぎふの兄弟子の手筈で、梶火は再びここまで出迎えにきたというていを取る事にした。だからこの先の道中、他の黄師こうしに対して姿をひそめる必要はない。顔を掌で拭いながら振り返る。

 ざば、ざば、と、ゆっくり水を蹴りながら淵を抜けて水から上がった。傍に落としていた手拭いで体を拭くと、短褐たんかつを羽織った。滝の横にはその上へと登れるささやかな階段がある。梶火はそれを上った。滝の上までその階段を上がり切ると、その先に露台ろだいがある。かつて遊山に使われた名水名瀑めいすいめいばくだけの事はある。露台から落ちる滝の流水を見下ろせる趣向なのだ。

 露台には、先に水垢離みずごりを終えた熊掌がいる。露台の欄干らんかんもたれ、こちらに背を向けたまま滝をのぞき込んでいた。ゆっくりと隣へ進み、同じように滝を見下ろす。

「何が見える?」

「見てた」

「何を?」

 熊掌は視線を梶火へ向けて、ふふっと笑った。

「お前が迷っているのを」

 思わずうっと詰まるが、図星なので反論はしなかった。そして、熊掌から視線をらした理由はそれだけではなかった。

 襦袢じゅばん一枚を素肌の上に付けただけの姿は危うい。襟元からのぞく素肌から匂いたつのは、何もあの練香水だけではない。

 滝壺に水が吸い込まれるのを見下ろしながら、欄干に手を置く。ひやりと予想以上に冷たい石が梶火の手を迎えた。


「――本当にいいのか」

 

 梶火がこぼした言葉はあまりに小さく、瀑布ばくふに落ちる水音が掻き消したかと思われた。熊掌からいらえは返らぬまま、二人の間を風が吹き抜ける。枝鳴りが大きい。

 梶火自身の中にある迷いは、その理由を一つにしぼられない。

 辿たどってきた経緯がある。これまでの関係性がある。義兄弟であり、長らく大兄と仰ぎ見続けてきた存在である。そこに、肌を重ねる関係を加えるというのは、超える境の高さが違った。更には――考えたくなくとも考えずにはいられない、師という存在の影がある。

 また、離れていた三月みつきの内に知り得たあまりに膨大な情報がある。それが更に梶火を迷わせていた。恐らく熊掌自身が知り得ていない彼自身の事を、梶火はあまりに多く聞き及んでしまった。それをまだ自分は熊掌に伝えていない。どう伝えればいいのか分からない。

 ふ、と吐息が聞こえた。

「一度許されたら手放さないって聞いてたはずなんだけどなぁ」

 梶火が顔を上げる。熊掌の眼が梶火の視線を受け止める。言葉は――拾われていた。熊掌の表情は穏やかだった。その眼は真っ直ぐに澄んでいて、とても美しかった。胸がつぶれそうな程に、居たたまれなくなる程に。

 熊掌は欄干から離れると、露台中央にある石台に腰を置いた。梶火もその後を追い、隣に座する。

 ただ辺りに水の落ちる音が満ちる。

「迷わせるのは、僕のせいだな」

 ぽつり、と熊掌が零した言葉に梶火ははっと顔を向けた。熊掌は静かにうつむいていた。

せい

「――こんな時に言う事じゃないかも知れないが」

「いや、言ってくれ。ちゃんと聞くから」

 熊掌はしばしの逡巡の後、また少し俯いた。膝にのせていた手の指先が、かすかに握りしめられる。

「あの夜、からか」

「あの夜って」

「――僕の事を、知ったのは」

 意味を理解して、思わず唇を引き結んだ。

「いや。中は見てない。あの時は格子窓の下に立っていただけだ」

「全部聞こえてた?」

「――ごめん」

 謝罪は肯定の意にしかならない事を梶火も知っていたが、それ以外の言葉を選べなかった。しかし熊掌は首を横に振った。

「いや、謝るのはこちらの方だ。不快なものを聞かせた。あんなもの、気持ち悪かったろう」

「いや、それはない――ていうのもおかしな話だが、それはないんだ、ただ……」

「ただ?」



「――どうして俺を選んでくれなかったのかと」



「それは――」

「あの時、師範は俺の事も選択肢に入れて話してた。なのに、どうして、って」

 苦しい沈黙が落ちた。

「僕は、あの時、本当にこれ以上誰にも自分の事を知られたくなかったんだ。知る人間を増やしたくなかった。説明もしたくないし、してやその上で関係を持てなんて言える程の価値が自分にあるなんて思えなかった。あんな――」

 水の落ちる音が胸の奥にまで響く。苦しいのは胸だろうか、心だろうか。



「あんな無茶苦茶な事、いかにそれが僕の為だったとしても、あんな意味の分からない事をやれというなら、自分がそれを請け負えるのかって……あいつを試した部分は、あった」



「青」

 熊掌は首を横に振った。

「軽蔑するだろう? 八つ当たりで、甘えて巻き込んだ。挙句がこのざまだ」

 風が吹き抜けた。熊掌の髪が風に巻き取られなびいた。それをまぶしい思いで見つめてから、梶火は吐き出すように小さな声で言葉を絞り出した。

「――前は言わなかったけど、その、体の事は、ずっと知ってた」

「いつから」

「もうずっと前だ。十二だか、そこらだった気がする。偶然見た。すまない。俺が知っている事は師範も知ってた。だからあの時俺の名前も上げたんだと思う」

 熊掌は顔を上げて、責めるような眼で梶火を見た。

「どうして、それを言わなかっ――」

 そこで言葉を区切ると、小さく「言ってくれていたら」と零した。しかしそれからややあって、ふっと自嘲の笑みが熊掌の口からこぼれた。

「いや、違うな。結局は僕が自分で決めた事だ。お前達のせいじゃない」

「――関係ないと、思ってたんだ」

 ぐ、と歯を食いしばると、梶火は熊掌の握りしめられた手の上に自身の手を重ねた。

「俺はずっと、あんたの右腕になるって決めてたから、あんただから決めたんだから、そんな事は何も関係ないって。事情があるんだろうとは思ったけれど、俺が聞ける立場じゃないとも――そう思ってたから」

 熊掌がふっと困ったように笑った。

「変な所で遠慮をするんだな」

「あんただって、変なところで自信がなさすぎる」

 熊掌は苦笑する。

「自分に向けられる評価が分不相応だって分かってたからな」

「どういう意味だ」

「長の継嗣けいしだから――そういう理由だけで、あらゆる事が皆より優遇されて、僕は他の人よりよくできて当たり前の環境を与えられてるんだ。お膳立てをしてもらっていて人より多少できたくらいで何を誇れる?」

 梶火の手が置かれた自身の手を引き抜き、熊掌は胸の上にぐっと拳を押し付けた。

「――自信なんか、どうやって持てばいい」

 その熊掌の手を、梶火が掴み、自分の方へ熊掌の体を向けさせた。

せい。あんたは俺の全てだ。そう言ったろう。俺が生きる理由の全てはあんたの為に使う。だから、せめて俺の目方めかた分くらいは信じてくれねぇかな。あんたに価値があるってこと」

 熊掌は、泣きそうな顔で笑った。

「こんな強烈な口説き文句が言えるのに、どうしてまだ迷う?」

「言わせるなよ。――あいつより上手くやれる自信がねぇ」

 吐き出した本音は、もう後に隠すものがない最後のとりでだった。開き直った本心が静かに夜の空気に溶けてゆく。

 静かに、ただ静かに視線を交わす時間だけが過ぎて行く。

 水の流れて行く音。風が枝を巻き込む轟音ごうおん。その風が滝の水をまき上げて水滴を霧のようにまとわせる。

 どちらからともなく、静かに、静かに影を重ね合う。

 ゆっくりと静かに、淡く唇だけを重ねる。

 いつ閉ざしたかもわからない瞼を開くのと、唇を離すのは、ほぼ同時だった。

「――うまくなんか、なくていい」

 梶火の襟元に熊掌の手が伸びる。ゆっくりと胸襟が開かれる。心の臓の上に、熊掌の掌が這わされる。

「うまくやりたいなら、たくさん触れてよ。――知って。見つけだしてよ」

「青」

 触れられた心の臓の脈動が走り過ぎて痛かった。苦しい顔をした梶火の手を取り、熊掌は自身の心臓の上に梶火の手を導いた。



「――ねぇ、いい加減僕を見つけてよ。お前、あんなにずっと追いかけてきてたくせに、これ以上僕を一人で置いておく気か?」


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