59 脈動 ー経緯ー
*
滝の
その水中に以前身を
梶火は
この
ざば、ざば、と、ゆっくり水を蹴りながら淵を抜けて水から上がった。傍に落としていた手拭いで体を拭くと、
露台には、先に
「何が見える?」
「見てた」
「何を?」
熊掌は視線を梶火へ向けて、ふふっと笑った。
「お前が迷っているのを」
思わずうっと詰まるが、図星なので反論はしなかった。そして、熊掌から視線を
滝壺に水が吸い込まれるのを見下ろしながら、欄干に手を置く。ひやりと予想以上に冷たい石が梶火の手を迎えた。
「――本当にいいのか」
梶火が
梶火自身の中にある迷いは、その理由を一つに
また、離れていた
ふ、と吐息が聞こえた。
「一度許されたら手放さないって聞いてたはずなんだけどなぁ」
梶火が顔を上げる。熊掌の眼が梶火の視線を受け止める。言葉は――拾われていた。熊掌の表情は穏やかだった。その眼は真っ直ぐに澄んでいて、とても美しかった。胸がつぶれそうな程に、居たたまれなくなる程に。
熊掌は欄干から離れると、露台中央にある石台に腰を置いた。梶火もその後を追い、隣に座する。
ただ辺りに水の落ちる音が満ちる。
「迷わせるのは、僕のせいだな」
ぽつり、と熊掌が零した言葉に梶火ははっと顔を向けた。熊掌は静かに
「
「――こんな時に言う事じゃないかも知れないが」
「いや、言ってくれ。ちゃんと聞くから」
熊掌はしばしの逡巡の後、また少し俯いた。膝にのせていた手の指先が、かすかに握りしめられる。
「あの夜、からか」
「あの夜って」
「――僕の事を、知ったのは」
意味を理解して、思わず唇を引き結んだ。
「いや。中は見てない。あの時は格子窓の下に立っていただけだ」
「全部聞こえてた?」
「――ごめん」
謝罪は肯定の意にしかならない事を梶火も知っていたが、それ以外の言葉を選べなかった。しかし熊掌は首を横に振った。
「いや、謝るのはこちらの方だ。不快なものを聞かせた。あんなもの、気持ち悪かったろう」
「いや、それはない――ていうのもおかしな話だが、それはないんだ、ただ……」
「ただ?」
「――どうして俺を選んでくれなかったのかと」
「それは――」
「あの時、師範は俺の事も選択肢に入れて話してた。なのに、どうして、って」
苦しい沈黙が落ちた。
「僕は、あの時、本当にこれ以上誰にも自分の事を知られたくなかったんだ。知る人間を増やしたくなかった。説明もしたくないし、
水の落ちる音が胸の奥にまで響く。苦しいのは胸だろうか、心だろうか。
「あんな無茶苦茶な事、いかにそれが僕の為だったとしても、あんな意味の分からない事をやれというなら、自分がそれを請け負えるのかって……あいつを試した部分は、あった」
「青」
熊掌は首を横に振った。
「軽蔑するだろう? 八つ当たりで、甘えて巻き込んだ。挙句がこの
風が吹き抜けた。熊掌の髪が風に巻き取られ
「――前は言わなかったけど、その、体の事は、ずっと知ってた」
「いつから」
「もうずっと前だ。十二だか、そこらだった気がする。偶然見た。すまない。俺が知っている事は師範も知ってた。だからあの時俺の名前も上げたんだと思う」
熊掌は顔を上げて、責めるような眼で梶火を見た。
「どうして、それを言わなかっ――」
そこで言葉を区切ると、小さく「言ってくれていたら」と零した。しかしそれからややあって、ふっと自嘲の笑みが熊掌の口からこぼれた。
「いや、違うな。結局は僕が自分で決めた事だ。お前達のせいじゃない」
「――関係ないと、思ってたんだ」
ぐ、と歯を食いしばると、梶火は熊掌の握りしめられた手の上に自身の手を重ねた。
「俺はずっと、あんたの右腕になるって決めてたから、あんただから決めたんだから、そんな事は何も関係ないって。事情があるんだろうとは思ったけれど、俺が聞ける立場じゃないとも――そう思ってたから」
熊掌がふっと困ったように笑った。
「変な所で遠慮をするんだな」
「あんただって、変なところで自信がなさすぎる」
熊掌は苦笑する。
「自分に向けられる評価が分不相応だって分かってたからな」
「どういう意味だ」
「長の
梶火の手が置かれた自身の手を引き抜き、熊掌は胸の上にぐっと拳を押し付けた。
「――自信なんか、どうやって持てばいい」
その熊掌の手を、梶火が掴み、自分の方へ熊掌の体を向けさせた。
「
熊掌は、泣きそうな顔で笑った。
「こんな強烈な口説き文句が言えるのに、どうしてまだ迷う?」
「言わせるなよ。――あいつより上手くやれる自信がねぇ」
吐き出した本音は、もう後に隠すものがない最後の
静かに、ただ静かに視線を交わす時間だけが過ぎて行く。
水の流れて行く音。風が枝を巻き込む
どちらからともなく、静かに、静かに影を重ね合う。
ゆっくりと静かに、淡く唇だけを重ねる。
いつ閉ざしたかもわからない瞼を開くのと、唇を離すのは、ほぼ同時だった。
「――うまくなんか、なくていい」
梶火の襟元に熊掌の手が伸びる。ゆっくりと胸襟が開かれる。心の臓の上に、熊掌の掌が這わされる。
「うまくやりたいなら、たくさん触れてよ。――知って。見つけだしてよ」
「青」
触れられた心の臓の脈動が走り過ぎて痛かった。苦しい顔をした梶火の手を取り、熊掌は自身の心臓の上に梶火の手を導いた。
「――ねぇ、いい加減僕を見つけてよ。お前、あんなにずっと追いかけてきてたくせに、これ以上僕を一人で置いておく気か?」
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