58 腕《かいな》 ー経緯ー



 ――たった三月みつきだ。


 三月離れているだけで、ここまで人は様変わりするものなのだろうか。

 それは、かじの思いであり、熊掌ゆうひの思いであり、また二人を馬車に乗せて運ぶ儀傅ぎふの思いでもあった。

 三月前に烏鷺うろで別れた時の梶火からは、まだ無鉄砲と闊達かったつの入り混じった物が見て取れていた。しかし、帰路に合流すべく城牆じょうしょうの凸壁に紅炎こうえんと共に紛れ込んだ彼は、もうどこか大きく変容していたのだろう。

 

 馭者ぎょしゃだいの周りを片付けていた儀傅がふと顔を上げた時には、既に荷台に梶火がいた。


 誰かが乗り込んできたような物音は一切なかった。儀傅は完全に梶火の気配をとらそこねたのだ。

 ――梶火は、同じく荷台にいたらんりょうと、只管ひたすら無言で向かい合っていた。

 二人の間に満ちる空気があまりに切実で、儀傅はしばらく声を掛ける事ができなかった。

 沈黙を破ったのは梶火だった。ついと儀傅へ目を向ける。

「出立はいつだ」

「あ――ああ、明朝の刻になる」

「俺はここにひそんでいていいか」

「そうしてくれ」

「大兄がどうしてここに?」

「先日熱を出したんだ。だからこちらに」

「夜は天幕で休ませるんだな?」

「その予定で張っている」

「わかった。それでいい。――儀傅」

「どうした」

「済まないが、大兄と話がある。少し外してくれ」

 儀傅は無言のまま首肯し、幕を下ろすと馭者台を降りた。



 儀傅が荷馬車から離れて暫時ざんじ、沈黙が荷馬車内に満ちる。

 ややあって、どちらのものでもない溜息が落ちた。互いの視線が絡み、ふ、と笑みが浮かぶ。

 梶火の手が熊掌の頬と首筋に触れた。やはり熱がある。うっすらと汗ばんでいた。

 熊掌の手が梶火の髪に伸びる。三月で伸びた髪はもうすでに柔らかな手触りとなっていた。

 その指先を梶火が引き取る。視線は爪の先に向かう。薄い金の色に染められた爪が、誰の要求によるものなのかなど明白だった。わずかに指先でこすってみたが、そうそう取れるようなものではないらしい。熊掌に目を向ければ矢張やはり首を横に振る。あの忌々しい柑橘の香りと、求めて止まなかった温もりが混じり、梶火の感傷は揺れた。と、そこで思い出し、自らの懐に手をやった。熊掌が不思議そうな眼でその手の行方をのぞき込む。

 梶火は少しだけ笑って、例の練香水を取り出した。蓋を開けて中を見せる。香りを聞いた熊掌の表情が和らぎ、ふっと噴き出した。


 通じる思い出が、確かに二人の間にある。


 梶火は薬指の先で練香水をすくいとると、熊掌の耳のすぐ下あたりの頸筋に塗り付けた。ゆっくりと、左から。次いで右の同じ個所に。

 甘く懐かしい香りが漂う。

 それがどれ程遠く、どれ程貴重な自分達のよすがであるのか。

 その切実さが二人の胸を詰まらせた。

 つ、と梶火が微かにうつむく。

「――約束。おぼえてるか」

 ささやくような梶火の言葉に、熊掌は声には出さずに、微かに視線を外して首肯した。

 梶火は再び熊掌の手をとると、その掌を自身の唇に押し当てた。

「あのな――ああは言ったが――無理はさせたくない。俺はやっぱり、あんたに負担はかけたくない――いためるような真似はできない。したくない」

 二人の視線が絡む。

せい、だから――」

「傷はない」

 静かで小さな、しかし明瞭はっきりとした熊掌の言葉に、梶火が微かに生唾なまつばを飲み込む。無意識の事だ。

「だけど、青」

「ないんだ」

 そっと、梶火の肩先に熊掌の顔が近付く。唇が耳元に寄せられる。



「――長鳴ながなきの薬がよく効いた」



 甘くささやくような声色にぞくりとしたものが鎌首かまくびをもたげるが、同時に気付いて梶火の顔色が変わる。

「まさか」

 熊掌が静かに鼻先と唇を梶火の頸筋に当てる。騎久瑠きくる達にそれと同じ事をされた時にはあんなに不快なあわが立ったのに、今のそれはまるで違う。

「青、あんたまさか自分も毒をあおったのか?」

 熊掌は答えずに、すぅと深く息を吸い込んだ。

「ああ――ほんとうに、紫炎しえんだ」

 吐息のような声が耳をくすぐる。梶火の身の内に、二重の意味で、ぞくりとしたものが這い上がる。

「なんて事すんだよ、あんた」

「今回のは、遅効性なんだ。効き目も弱いから」

「だけど、体外に排出されないって長鳴が言ってただろうが」

「僕一人だけ元気でいるのは不自然だろう?」

「だけど」

「それでいい事にしておいてくれよ。お陰で――触れられずに済んだんだから」

 思わず肩を掴んで熊掌の体を引き剥がした。その眼をのぞき込む。見た事がないような、澄んだ眼の色をしていた。ふふ、と声に出して熊掌が笑う。

「あいつには多めに毒を盛らせてもらったんだ。大丈夫、ヘマはしていない。あれが寝込んだのをながめているのは、少し面白かったな」

「青」

「傷はない。治った。――これ以上僕の口から何を言わせたい?」

 熊掌がその体を梶火のふところに預ける。

「これも約束した。必ずこの腕の中に帰って来いって、そう言ったのは紫炎、お前だろう」

 梶火の背に熊掌の腕が回される。

「ああ。そうだな」

 胸がつぶれそうな思いで、梶火は熊掌の体を受け止めた。すっぽりと収まる華奢な肩に、全身が騒いだ。

「お前に会いたかった。そう思ってたのは僕だけなのか?」

「そんなわけがないだろう」

 きつく、腕に力をめる。

 気を緩めると涙がこぼれそうで、梶火はぐっと瞼の裏に力を込めた。

 この感情に、身が割かれそうな思いに、どんな名前を付ければ正しいのか、梶火にはもう分からなかった。


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