68 告白



 かじが凶行に至ったのは無理からぬ事だとゆうには思えた。

 しかしそれは納得だったのだろうか。それとも失望だったのだろうか。

 梶火はあの地下牢に繋がれた。邑長ゆうちょうに対する暴行の罪によるものである。

 焼け落ちたはずのその場所は、一部機能を残していたが、崩落の危機にあるのには違いなかった。それでも敢えてその場を使った事には意味がある。それ程に重い罪だった。熊掌は――力尽くで引き回された結果、左肩の関節が外れ、肘の靭帯じんたいまで損傷していたのだ。

 治療後、投獄の事実を聞かされた熊掌は血相を変えた。南辰と長鳴に談判し、梶火の解放を嘆願した。

 しかし、二人は首を縦に振らなかった。


 否、振れなかったのだ。

 

 この時、えいしゅうは紛れもない最悪の岐路きろに立たされていた。

 梶火が起居の場を南方みなかたの屋に戻したのは、えいしゅうの民の生活が緊迫状態におちいっていた為である。

 梶火がさといのと同じように、芙人ふひともまた些細な変化を看過しない、何事も取りこぼさない鋭敏さの持ち主だった。

 熊掌に梶火の気配を察知した芙人は、瞬く間にその背後で手を回した。

 彼の持ち物に手を着けた者を決して許さないという姿勢を示すかの如く、芙人は瀛洲へ運び込まれるはずだったあらゆる生活の品をとどこおらせたのである。

 瀛洲のように規模の小さい集落において、生活物資の不足は逼迫ひっぱくに繋がり、即時困窮こんきゅうもたらす。それ程に現在の瀛洲は朝廷からの支給品に頼らざるを得ない状態となっていたのだ。

 芙人は全五邑ごゆうへの物品の分配と種々の策定さくていの全権限をその掌中に握っていた。

 かつてはそれを黄師こうしが定めていると思われていたが、実際は芙人が決定した分配を実行しているのに過ぎなかった。この数年で支給されるものはその品質を上げていた。そして一度上げられた生活の質は簡単には下げられない。

 そもそも品々の質を上げるよう裁可さいかを下したのは他でもない芙人なのだ。その事実を踏まえた上で、一度上げた品質を下げ、つ支給をとどこおらせる意図は明白であり、その行為は酷薄こくはく無残むざん其の物である。

 善い物を与えられ、それに慣れた頃に品質が下がれば民の不満は統治者に向く。不満がけば集はかたむく。集が傾けば反旗をひるがえす者が必ず現れる。

 これを回避するためには、統制している者に膝を屈するよりない。

 つまり芙人は既に瀛洲統治の生殺与奪の権をその手中に収めているも同義だったのである。

 南辰としてはこれ以上邑を逼迫した状況に置いておく訳にはいかなかった。そのために断腸の思いで二人を引き離した。瀛洲が自滅するのを防ぐためには、そうするより手立てがなかったのである。

 梶火を投獄するにまで至ったのは、彼が熊掌に傷をつけた事で、更なる芙人の怒りを買う可能性が非常に高かったからである。これもまた苦渋の選択だった。邑を護るために、瓦解させない為に、他に打つ手がなかったのだ。

 状況が変わったのは、その翌日の事である。

 危坐きざの州長より使いが入ったのだ。



 臨赤りんしゃく大将軍紫炎しえんを即刻釈放せよ。逆らう場合は州として対応する事を辞さぬ――と。



 この時梶火は既に臨赤の全武力部門をその配下におき、騎久瑠きくるを筆頭とした臨赤統括の首脳部に籍を置いていた。その彼を投獄しているという事は何を置いても認められない事だったのである。臨赤もまたその構造を大きく変え、世の変革に向けて歩みを進めはじめていた。

 熊掌が蒔いた種は、梶火によって巨木へと育まれていたのだ。

 この時の南辰の心境は如何ばかりであったか。


 そして、この板挟みになった最たる人物は――他でもない熊掌だ。


 邑を護るためには芙人に逆らえない。

 芙人の事で限界に至ってしまった梶火の望みに応える事はできない。そうしたくともできない。しかし、それで我を忘れた彼を捕らえたままにすれば臨赤が敵に回る。


 いっ昼夜ちゅうや邸にこもった熊掌が、夜明けの直前に南辰の元を訪れ、考えを告げた。

 南辰は、それを受け入れた。



 梶火が繋がれていたのは、かつて蔓斑つるまだらが吊るされていた牢、その場所だった。生臭く、焦げ臭く、厭な湿気に満ちて冷えていた。床にも壁にもすすが染み付き、息を吸うだけで喉がひりつき、傷んだ。

 繋がれて三日目の早朝、ぎい、と音がしたので顔を上げた。

 牢の鍵を開けていたのは、熊掌だった。

 その姿を認めた後、梶火はただ無言でそのこうべを垂れた。

 もう、謝る資格すら己にはないと、ただ己を嗤った。

「――何しに来た」

 だというのに、自身の口から零れ落ちるのはそんな陳腐な言葉でしかない。更なる失望に歯噛みしていると、自身の腕に触れるぬくもりがあった。顔を上げると、熊掌がかせの鍵を外していた。

「何してる」

「鍵を外している」

「そんな事見りゃ分かる。なんで鍵外してんだ」

「南辰に、頼んだ」

「なに……?」

「お前をここから出してくれ。開放してくれ、と」

 さすがに梶火はふはっと嗤った。

「冗談だろう?」

「冗談の方が良かったか?」

 熊掌の静かな声が、それが真実であるのだと告げていた。

「――そんな、馬鹿な話があるか。そんな直截ちょくさいな頼み方で、あんな事を仕出かしたのが許されるはずが――」

「臨赤からの要請だ」

 熊掌の回答に、梶火は思わず息を呑んだ。

「お前を解放しなければ危坐きざが動くと使役鬼を使って文が来た。開放せざるを得ない。お前を釈放して、このままここに留め置く事が邑として難しいのであれば波海はかい難海なんかい城に引き渡せ――だそうだ」

「――そう、言う事か」

「良かったな。お前の命はもう、臨赤にとっても危坐州にとってもなくてはならないものになっているそうだ」

 かちゃり、と鍵が外される。からん、と腕のいましめが石床いしどこに落ちる。

 ぴちゃん、と水滴がどこかで跳ねた。



「今日を限りに――お前との関係は絶つと南辰と約束した」



 ぴちゃ、と、再びどこかで水滴が跳ねた。ぎぃ、ぎぃ、と遠くでさびた金属の擦れる音がする。

「――せい

「長く苦しめて済まなかった」

「青」

「これは全てお前の心をないがしろにした僕のとがだ」

「厭だ」

紫炎しえん

「絶対に厭だ!」

 枷を説かれた腕で、梶火は熊掌の腕を掴んだ。石床に膝を突いたまま、すがりつくようにその細い腕を全力で握りしめた。哀願するように頭を深く深く垂れた。それこそ石床になすり付けるように。

「紫炎。聞いて」

「そんな事を受け入れるくらいならここにつながれていた方がマシだ! じゃなきゃ、いっそ殺してくれよ‼」

「――お前は、やっぱり分かってないよ。あんなにずっと追いかけてきてたくせに、やっぱり僕を一人にする気か」

 すう、と、冷たい空気が梶火の肺に流れ込んだ。顔を上げると、紙のように白く血の気の引いた熊掌の顔がそこにあった。

「青」

「今お前を解放しなければ、臨赤は完全に瀛洲からお前をぎ取って返さなくなるだろう。それ程お前はもう、この世に必要とされているんだ。お前自身が積み重ねてきた事の結果がお前を認めている。――だけど僕は違う。流されて踏みにじられて、それでもこのからは降りられない。僕は――僕自身の努力など何処どこにも存在しない、関係ない、ただ東馬とうまの子に成り損ないで生まれたってだけで、俺は消費されて消えるばかりの――」

「そんなっ、そんなことは――っ」

 思わず腰を浮かせかけた梶火の前に、熊掌の静かな微笑が広がった。ゆっくりと、その体が立ち上がる。

 はらはらと、静かに涙が落ちる。熊掌の頬を、何時ぶりかの涙が伝い落ちる。

「何も好き好んでこんな風に生まれた訳じゃない。なのに、女の形に生まれたっていう、ただそれだけの事のために、どうして俺にはまともに生きて息をして自分の脚で歩く事すら赦されないんだ?」

「――せ」

「この世は俺の事を一人の人間だなんて思っちゃいないんだ。それでも――それでも、お前がいた。いてくれた。僕が自分を、この責任を投げ出さずに済んだのは、真っ向から僕を見て、僕の淀みがちな足取りを叱咤しったしてくれるお前がいたからだ」

 そっと熊掌の両掌が梶火の頬を包む。止まらない涙に、その表情が苦悶に歪む。



「――なあ、こんなこえめの底みたいな人生の中で、お前まで奪われたら、僕はどうやって生きたらいい? 何をえにしにしたら崩れ落ちずにいられるっていうんだ?」



 細い両の腕が梶火の頭を抱えた。震える腕に声に、思わず梶火はその華奢過ぎる体を渾身の力で抱き寄せた。

「頼む。僕からお前を失わせないでくれ……!」

 血を吐くようなその言葉に、梶火はそれ以外の選択肢がない事を悟った。

 本当の意味で完全に熊掌と離れる事は出来ない。そんな事をすれば、今まで歯を食いしばって進んできたこの道を先へ繋げる意味が失われてしまう。梶火にとって、熊掌は生きる意味そのものだ。それを失ってまで臨赤を昇り詰める意味などない。

 だが、芙人に逆らう事も出来ない。

 強く強く、只強く抱き寄せる事しか出来ない。邑長としての彼の為に出来る事はいくらでもあるだろう。だけれど、彼個人の為に、せいという人のために出来る事はもう何一つとしてないのだ。自分の無力さに、そしてその愚かさに反吐へどが出た。そのくつがえしようのない事実が心臓に杭を打ち込まれるがごとくに刺さった。

 この生臭い地下で、罪人を捉えるべき場所で、ただきつく抱き合う事しかできず、それももう、これで終わりにしなければならない。



「すき」



 静かに、梶火は目を見張った。

 はらりと、桜の花弁のように儚い言葉が、梶火の耳元に零れ落ちてきた。

「すき。すきだ。どうしようもなくすきだ」

 振り絞る様に、ささやくように、熊掌がつぶやく。

 それは、ずっと聞きたかった言葉だった。梶火が欲して止まなかった言葉だった。顔をぐしゃぐしゃにして、梶火は熊掌の胸の温かさを、その匂いを嗅いだ。

 だけれど、どこか、頭の片隅が冷えていくのが分かる。そう。理屈ではなかった。薄々気付きながら、えて目を閉じて見ない振りをしてきた事だった。

「紫炎、ねえ紫炎、聞いてる?」

 涙交じりの声が、頬を寄せた胸の奥から響く。熊掌の体を抱えたまま梶火は、苦しそうに笑った。



「――だれを?」



 熊掌が言葉を失って腕の中の梶火を見下ろす。

 だれを? 確かにそう問われた。

 何かを答えようとして、唇を開きかけて、また閉ざして、そして次に開いた時に「いや」と梶火が止めた。

 涙交じりの梶火の顔が、笑みの形に口元をゆがめてつぶやいた。

「いいや。言わなくていい。――あんたら、うそつきだから。昔から」


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