69 最後の砦


          *


 海神わたつみの宮に戻ると、げっそりとした面持ちでもうが待っていた。前屈みの姿勢で臥床がしょうに座り込んだまま動けないでいる。

 恐らくゆうが戻るまで、茘奈らいな小鈴しゃおりんの果てしないおしゃべりにずっと付き合わされていたのだろう。気の毒だがおかしくて、熊掌はふふっと笑った。下女二人は、まだまだおしゃべりを止めようとしない。

 彼等三人を後目しりめに、熊掌は再び箪笥たんすの前に立った。扉を開けて、中に手を入れ、紫色の小さな袋を取り出すと、ふところにそっと仕舞しまう。

「じゃあ李毛、ちょっと行こうか」

 熊掌の声かけに、胡乱うろんな目をしつつ顔を上げた李毛がおかしくて、また笑った。



 熊掌は李毛と二人連れだって別棟の邸に向かった。

 別棟ははくおうていより更に奥にある。現在、他の殿舎でんしゃは多く閉じられており、大半の方丈ほうじょうの民は、こちらに起居していた。住まう人数の多さから、自然白央邸よりも大きい。

 

 ――いや、すでに起居はしていないか。

 皆、病の床にせって居るのだから。

 

 熊掌が何をしようとしているのか、李毛はもう問いかけようともしなかった。歩いている内に疲労ひろう困憊こんぱいの様相を見せていた顔も、常のものへと戻っていた。

 別棟の荒れ具合は一目瞭然だった。既に大半の下男下女が引き払っている。流石さすがの李毛も少しだけ困惑しているのが熊掌からも見て取れた。熊掌の護衛を務める彼は基本的に熊掌が動く場所以外に立ち寄らない。これまで熊掌がここへ脚を運ぶ事は一度もなかった。

 そう。常の深衣しんいまとっては。

「――ここにも頻繁ひんぱんに?」

 小声で問うた李毛に、変わらず下女の姿に身をやつしたままの熊掌が笑った。今二人はその先導の位置を変えている。下女の後に禁軍の兵が付き従うというは、誰かに見られでもすれば異質と受け取られても仕方がない。だから、先頭に立つのは李毛だ。

 熊掌は、これまで滅多に見る事のなかった李毛の背中をじっと見詰めた。極めて軍人らしい体格をしている。それでも、彼は自分には敵わないだろう。そしてそうは思われていないだろう事が、最近では愉快にすら思えていた。

 本当の事など、誰も知らなくていいのだ。

「そこの角を左に。その先に別棟の離れがある」

 小声の指示に従い先へと向かう。果たしてそこには僅かに建て増しをされた形の離れがあった。李毛は扉の前に立ち熊掌を振り返ると、微かに首肯してその立ち位置を変えた。熊掌の手が微かな叩扉こうひの音を立てる。いらえはない。ゆっくり扉を押し開けると、起居室内には誰もいなかった。

 余程慣れているのか、熊掌は躊躇ためらいもせずその右奥へと進んだ。そこにあった戸を引くと、そこから更に先に続く、細く暗い廊下がある。廊下の最奥さいおうまでは、左程さほど距離はなかった。進み行き奥の戸を開くと、あにはからんや、白くやわらかな光が零れ出た。

「ここで」

 と、熊掌が手をかざして李毛の室内へ入る事を制した。戸は開けられたままなので、中の様子はうかがい知れる。

 そこは清潔で品のい寝室だった。寝台の枕辺にあるけやきと思しき小箪笥の上に活けられた、牡丹の紫紅色と葉緑がまぶしい。

 熊掌がその寝台に歩み寄る。そのかたわらに置かれていた椅子に座すと、寝台に横たわっていた青年がふっとまぶたを開いた。視界のすみに李毛の姿が見え隠れした可能性が幾ばくかあったが、彼はそれに気を割く余裕もないのだろう。乾いた唇を戦慄わななかせながら今己のかたわらに座する人物――つまり熊掌へと視線を向け――ふわりと苦し気に微笑んだ。

らんりょう

 熊掌は微かに笑みを浮かべてうなずいた。

「また、こんなところまできて――むりを、したのではない?」

玻璃はり。そんなこと気にしないで。しびれはどう?」

 熊掌が呼ばわったその名で、彼が瑠璃るりの兄である事が知れる。つまり千鶴ちづるの息子の一人だ。これこそが熊掌の靴に刃物を仕込んだ張本人である。

 玻璃は寝台の上に投げ出していた手を持ち上げて見せようとした。かすかに上がったそれは激しく震えていた。やがて限界が来たのかそれとも諦めたのか。ぱたりと布団の上に落とされた。

「だめだね。もうなかなか、いうことをきかない。したも、しびれて、うまくまわらない」

「無理に話さなくていい。薬を持ってきたから、少しだけ体を起こしてもいい?」

「ああ。たのむ」

 熊掌は立ち上がり、玻璃の背に手を回してその上半身を起こした。痛みがあるのか玻璃の唇からうめき声が漏れる。楽な姿勢がとれるように大振りな枕の形を整え直し、その背をもたれさせると、玻璃はようやく落ち着いたように吐息を漏らした。

 熊掌は懐から紫色の袋を取り出すと、小箪笥の上においた。その口を開くと中から小瓶が姿を現す。熊掌が小瓶を逆さにかたむけると、中から黒い粒状のものが少し出て来た。それを自身のてのひらに受ける。それから牡丹の脇にあった水差しから水を杯に注ぐと、まずは玻璃の口の中に粒状のものを入れ、それから杯を渡して水と共に飲ませた。

 水を長らく口にしていなかったのか、玻璃は注がれた分の水を一気に干した。嚥下えんげを確認すると、熊掌は空になった杯に水を注ぎ足してから小箪笥の上に置き、自身も再び椅子の上に腰を下ろした。

「ねぇ、藍龍」

「うん?」

「あの頃、君をまもれなくてごめん」

 玻璃は熊掌をじっと見つめながら、静かに涙ぐみそう言った。水を含めたからか、わずかにかつぜつが落ち着いていた。

「ひどい意地悪をして、本当にごめん」

 熊掌は微笑みながら首を横に振った。

「こんな有様になってなお、忍んで会いに来て薬を飲ませてくれる。そんな君に、僕は――何という、ことを」

 熊掌の両手が玻璃の手に伸ばされた。両の手で大切にはさむようにして、ゆっくりといたわる様にでる。

「玻璃、もういいんだよ。さあ、もう少し水を飲んで。少しでもいいから。寒いからと言って水分を控えては治るものも治らなくなるよ」

「うん。――ほんとうに、ありがとう」



 しばらく様子を見ていると、玻璃が再びうつらうつらとし出したので、その身を横たえてから二人は彼の寝室をした。戸を閉めて起居室までくると、李毛が「蘇藍龍」と名を呼んだ。声音は――硬かった。

 熊掌は振り返りもせずに「はあ」と溜息を零す。

「――あれを意地悪と言えるんだからなぁ。無害そうな顔をしておいて、大した性根だよ」

「彼は、千鶴ちづるの息子ですよね」

「そうだよ。僕の靴に刃物を仕込んだ奴。芙人ふひとに制裁で両脚の腱を切られていてね。歩けないんだ。足に害をなしたからって事だろうね。知らんけど」

 その言葉にはもう何の感慨も含まれていなかった。

 それから熊掌は別棟中を回り、一人一人に薬を飲ませて回った。その間、ただの一人も下女下男を目にする事はなかったし、薬を飲ませてもらった大半の方丈たちは、皆一様に熊掌に礼を言っていた。

 方丈の下男下女を引き下がらせたのは熊掌だと、さっき小鈴しゃおりんが明かしてくれた。手引きをしたのは彼女らだという。

 全身の神経がしびれ、痛み、身動きすらままならなくなったというのに下男下女にまで捨て置かれ、方丈の民は絶望の淵に立たされた。そんな彼等を見かねた蘇藍龍が、方丈へ訪う時にはどこで手に入れたのか薬を持参しそれを飲ませ介抱をする――これはそういうなのだ。

 甚振いたぶり嫌がらせを尽くした瀛洲えいしゅう邑長ゆうちょうが、こうして助けの手を差し伸べてくれている。彼等の多くは泣いて感謝し謝罪をした。一部は変わらず偽善と悪態を吐いたが、薬を不要とは言えなかったらしい。それは大人しく受け入れていた。

「だから、一進一退を繰り返してきた、という話なんだけれどね」

「蘇藍龍、あれは――」

 毒なのか、とは口に出せなかった。熊掌は晴れやかな笑顔を浮かべながら、足取りも軽く回廊を行く。

「やはりそれは――」

「あ、これ? これ本当に解毒薬だよ」

「え」

「皆の顔や様子、見えてただろう? 楽になったようにしていなかった?」

「確かに、ええと、では」

 離れの扉に手を掛けながら、熊掌は小首を傾げて微笑んだ。



「毒は井戸の中だ」



 ぐっと李毛が喉を鳴らす。彼の中にここ数年国家の最大懸念事項である水源汚染が脳裏を過ったのも無理はない。

 あ、と熊掌が小さく声を漏らす。

「大丈夫、心配しないで。今飲ませているのはまだ二つ目だから。あれには神経を麻痺させる効果程度しかない。まあ量を飲めば飲むだけ多少苦しみはするだろうけど。それに、君達姮娥こうがには関係ないものだから。そのまま飲んでもらっても一向に差し障りないからね」

「何故――方丈全てを、こんな」

「なぜって、さっきもう言ったじゃないか。忘れたの?」

 熊掌は微笑みながら蝶のように両の手先をひらひらと舞わせる。



「理想と現実は違う。自分がやりたい事より、やらなくてはならない事をしなければ」



 細められた美しい眼に、李毛はとらわれる。この美しい憎悪に己の精神が飲み込まれ、もう思考する事すら危うくなりつつある事を悟る。

「最後のとりでは最後に瓦解がかいさせるから意味があるんだ。それ以外のものは早急に片付けてしまわないと、後からどんな弊害へいがいが起こるか分からない」

 李毛は、溜息を吐いた。

 もう何となく、この蘇藍龍という人物がどんな人間なのか理解が出来て来ていた。この若き邑長は、目的を完遂するためには私情を完全に殺せるのだ。

りょ千鶴せんがくが言っていた事は、本当だったんですね」

 熊掌はふふっと笑った。

「彼女の気が触れていると判断した理由を、僕は君達に聞いてみたいよ。あれ程記憶が明白で己の魂に忠実な人を僕は他に知らないな」

「――彼等がこの世を後にするのは、何時ですか」

 直截ちょくさいな李毛の問いに、熊掌はそっと手の中で薬瓶の蓋をした。ぎゅっと、強く。それを大切そうに胸に抱く。

「――次の薬が体内で混ざった時だ」


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