69 最後の砦
*
恐らく
彼等三人を
「じゃあ李毛、ちょっと行こうか」
熊掌の声かけに、
熊掌は李毛と二人連れだって別棟の邸に向かった。
別棟は
――いや、すでに起居はしていないか。
皆、病の床に
熊掌が何をしようとしているのか、李毛はもう問いかけようともしなかった。歩いている内に
別棟の荒れ具合は一目瞭然だった。既に大半の下男下女が引き払っている。
そう。常の
「――ここにも
小声で問うた李毛に、変わらず下女の姿に身を
熊掌は、これまで滅多に見る事のなかった李毛の背中をじっと見詰めた。極めて軍人らしい体格をしている。それでも、彼は自分には敵わないだろう。そしてそうは思われていないだろう事が、最近では愉快にすら思えていた。
本当の事など、誰も知らなくていいのだ。
「そこの角を左に。その先に別棟の離れがある」
小声の指示に従い先へと向かう。果たしてそこには僅かに建て増しをされた形の離れがあった。李毛は扉の前に立ち熊掌を振り返ると、微かに首肯してその立ち位置を変えた。熊掌の手が微かな
余程慣れているのか、熊掌は
「ここで」
と、熊掌が手をかざして李毛の室内へ入る事を制した。戸は開けられたままなので、中の様子は
そこは清潔で品の
熊掌がその寝台に歩み寄る。その
「
熊掌は微かに笑みを浮かべて
「また、こんなところまできて――むりを、したのではない?」
「
熊掌が呼ばわったその名で、彼が
玻璃は寝台の上に投げ出していた手を持ち上げて見せようとした。かすかに上がったそれは激しく震えていた。やがて限界が来たのかそれとも諦めたのか。ぱたりと布団の上に落とされた。
「だめだね。もうなかなか、いうことをきかない。したも、しびれて、うまくまわらない」
「無理に話さなくていい。薬を持ってきたから、少しだけ体を起こしてもいい?」
「ああ。たのむ」
熊掌は立ち上がり、玻璃の背に手を回してその上半身を起こした。痛みがあるのか玻璃の唇から
熊掌は懐から紫色の袋を取り出すと、小箪笥の上においた。その口を開くと中から小瓶が姿を現す。熊掌が小瓶を逆さに
水を長らく口にしていなかったのか、玻璃は注がれた分の水を一気に干した。
「ねぇ、藍龍」
「うん?」
「あの頃、君をまもれなくてごめん」
玻璃は熊掌をじっと見つめながら、静かに涙ぐみそう言った。水を含めたからか、
「ひどい意地悪をして、本当にごめん」
熊掌は微笑みながら首を横に振った。
「こんな有様になってなお、忍んで会いに来て薬を飲ませてくれる。そんな君に、僕は――何という、ことを」
熊掌の両手が玻璃の手に伸ばされた。両の手で大切に
「玻璃、もういいんだよ。さあ、もう少し水を飲んで。少しでもいいから。寒いからと言って水分を控えては治るものも治らなくなるよ」
「うん。――ほんとうに、ありがとう」
熊掌は振り返りもせずに「はあ」と溜息を零す。
「――あれを意地悪と言えるんだからなぁ。無害そうな顔をしておいて、大した性根だよ」
「彼は、
「そうだよ。僕の靴に刃物を仕込んだ奴。
その言葉にはもう何の感慨も含まれていなかった。
それから熊掌は別棟中を回り、一人一人に薬を飲ませて回った。その間、
方丈の下男下女を引き下がらせたのは熊掌だと、さっき
全身の神経が
「だから、一進一退を繰り返してきた、という話なんだけれどね」
「蘇藍龍、あれは――」
毒なのか、とは口に出せなかった。熊掌は晴れやかな笑顔を浮かべながら、足取りも軽く回廊を行く。
「やはりそれは――」
「あ、これ? これ本当に解毒薬だよ」
「え」
「皆の顔や様子、見えてただろう? 楽になったようにしていなかった?」
「確かに、ええと、では」
離れの扉に手を掛けながら、熊掌は小首を傾げて微笑んだ。
「毒は井戸の中だ」
ぐっと李毛が喉を鳴らす。彼の中にここ数年国家の最大懸念事項である水源汚染が脳裏を過ったのも無理はない。
あ、と熊掌が小さく声を漏らす。
「大丈夫、心配しないで。今飲ませているのはまだ二つ目だから。あれには神経を麻痺させる効果程度しかない。まあ量を飲めば飲むだけ多少苦しみはするだろうけど。それに、君達
「何故――方丈全てを、こんな」
「なぜって、さっきもう言ったじゃないか。忘れたの?」
熊掌は微笑みながら蝶のように両の手先をひらひらと舞わせる。
「理想と現実は違う。自分がやりたい事より、やらなくてはならない事をしなければ」
細められた美しい眼に、李毛は
「最後の
李毛は、溜息を吐いた。
もう何となく、この蘇藍龍という人物がどんな人間なのか理解が出来て来ていた。この若き邑長は、目的を完遂するためには私情を完全に殺せるのだ。
「
熊掌はふふっと笑った。
「彼女の気が触れていると判断した理由を、僕は君達に聞いてみたいよ。あれ程記憶が明白で己の魂に忠実な人を僕は他に知らないな」
「――彼等がこの世を後にするのは、何時ですか」
「――次の薬が体内で混ざった時だ」
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