67 限界



 限界が来たのは火災の夜から三年を経た秋の事。ゆうが夏に二十一の歳を数えた直後だった。


 梶火の限界が、だった。


 はじめに、翡翠ひすいの滝で二人が決めたのは、邑内ゆうないでは二人の事は知られないようにするという事だった。そのはずだった。

 邑長ゆうちょうと最側近の衛士えじが二人並び立つ事は不自然な事ではない。しかしれ伝わるものがある。どうしても、ある。

 同じ邸に起居し、かつ間取りの都合上二人は同じ寝室を使用していた。昼夜を問わぬ護衛を兼ねる為、それも許容できぬ事ではなかったろう。

 しかし、一度許された関係から下がる事は、この年代の青年にとってはあまりに難しく、また酷な事だった。それが日々身命しんめいした責務を背負い生きる束の間の逢瀬おうせであればこそ、また長年に渡り逡巡しゅんじゅんを繰り返し、ようやく自覚した思いの果てに成就じょうじゅしたものであればこそ、己が恋着を見て見ぬふりなどできなかったのである。

 触れたい。

 寄り添いたい。

 そのごく当然の欲求は、瞬く間に忍耐という器から溢れ出たのだった。



 そしてそれは、梶火だけの事ではない。

 熊掌にとっても同じだった。



 それは、わずかなすきだった。

 人目を忍んで、温もりを求めて、何かの拍子に指先をからめただけだった。

 やがて、夜の冷え込みを言い訳に同衾どうきんがはじまった。夜具の中で凍えて震えていた熊掌を梶火が自身の夜具に招いた。そして熊掌がそれに応じた。

 次には肌の香りを求めた。

 唇に触れることを求めた。

 ついには触れられる事を求めた。

 ――その時にたがは外れた。

 命と尊厳をにじられる、責務と危難きなんふちに立つ日々からわずかばかりに解放されるという間隙かんげき。その刹那にだけ、微かに与えられる温もり。それをむさぼらずにはいられなかった。



 それでも、どうしても、その間に必ず芙人ふひとの影がちらつく。



 縛り上げられた傷が手首の上に残っている。

 爪紅が残されている。

 骨盤の上に執拗な鬱血うっけつあとが残されている。

 それを見て見ぬふりが出来る程には、梶火の執着は浮薄ふはくではなかったのだ。

 二人を結び、その繋がりをあかし立てるような物はもう存在しない。ただ一つのそれだった練香水は、梶火が叩き割ってしまった。

 また、二人の事を認めて心に留め置いてくれる他人も存在しない。

 それでは、この関係はこの世に存在しないのと同じだ。

 何一つ、次の約束すらも残せない。

 その苦しさから梶火の苛立いらだちはつのり、言葉と態度が荒くなり、自身を卑下ひげする事が増えた。本来の梶火の性情からは考えられぬ有様だったが、熊掌にはそれをどうしてやる事もできなかった。

 人間が二人いる時に、その関係性というものはどうしても匂いたつ。他者からは明白に見えてしまう。



 熊掌が南辰なんしんから苦言をていされたのは無理からぬ事だった。



 彼等二人を誰よりも近くから支えまもってきた人物だ。見えないはずがない。その苦言は、それまで二人には伏せられてきた具体的ななんが既に出ている事を下敷したじきとしていた。その事実を知らされた熊掌は頭を抱えて一人にしてくれと南辰に懇願した。

 割れるような頭痛が熊掌を襲った。南辰にしても、身を切るような思いで此方こちらに告げてきたのだと分かっていた。

 事情を梶火に説明するまでに数日を要した。その事実を共有する事で失われる物を熊掌は恐れた。

 数日経ってから終に聞かされた梶火は、ただ静かに「わかった」とだけ言うと、邸を後にした。

 その直後、梶火は南方みなかたの遺した家に一人戻った。

 熊掌は一人、頭を抱えて悟堂ごどうの邸でうずくまる事が増えた。



 それは、何気ない瞬間だった。

 二人が夫々それぞれの場所から帰邑してすぐの事。

 神無月だった。

 熊掌と梶火は、悟堂の邸で二人、次の出立の日程と計画の調整をしていた。この時、八重やえ長鳴ながなきは不在にしていた。

 ふと、熊掌が振り返り背中を梶火に向けた。熊掌のうなじに梶火の視線が向かったのは、髪を高く結い上げていたからだった。



 熊掌のうなじの深い部分、背との境あたりに、深いあとがあった。



 それを見た瞬間、梶火の忍耐に限界が来た。

 熊掌は常に、梶火に背中を向ける事を拒絶していたからである。

 自分には赦されない事を芙人ふひとに赦し、受け入れている熊掌が其処そこに確かに存在した。それが止むを得ない事であったにせよ、望まぬ事であったにせよ、受け入れているという事実ががたかった。もう看過できなかった。



 『発露はつろ』の恐ろしさとは、正しくそこにあった。



 力尽くのそれは、間違いなく暴力だった。

 この時に初めて熊掌は、自分の本気の抵抗が梶火に通用しない事を知った。あらがえなかった。抵抗するための力がなかった。

 本当に引き裂かれたのはころもではなかったのかも知れない。助けを求めて叫ぶ事ができなかったのは、隠さなければという判断が下したからだが、その理由が何処どこにあったのかは、もう分からない。

 うつぶせに倒されて、うなじに激しい炎のような激痛が走った時に、初めて悲鳴が漏れた。痛みにはもう慣れていたはずだった。だからこれは、痛みに対する悲鳴ではなかったのだろう。

 悲しかったのだろうか。

 悔しかったのだろうか。

 絶望だったのだろうか。

 頭にもやがかかったように、上手く思考する事ができない。肩を掴まれて表に返された。視界は、明るかった。


 戸が――――――開いていた。


 次の瞬間、梶火の頭部に何かが振り下ろされたのが見えた。それが石を包んだ布だと気付いた時にはもう遅かった。



 それを鬼のような形相で振り下ろしていたのは――長鳴ながなきだった。


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