71 桜花



 ねり色のそらまたたく雲は美しい。

 かれた朱の色と金銀にさざめく星々もまた美しい。

 天地がどちらかも分らなくなる程に高く跳躍して、ゆうはくおうていへの最短移動を求めた。もう誰に見られていようが構わなかった。その答えを知りたかった。


 七年だ。

 七年も過ぎた。

 どうして今なんだ。


 間もなく方丈を瓦解させる最後の砦に手を掛ける日が来る。それを目前にして、どうしてお前はその存在を知らしめてきた。



 ――待っていたのか? この日を。



 いた心は着地する場所を見誤らせた。屋根のはしに降りるつもりが目算を誤り足をすべらせ落ちた。植栽の中に突っ込み全身が切り傷だらけになった。それでも立ち上がり走った。欄干を飛び越えて起居室に飛び込もうと扉の前に立った。叩扉しようと手の甲を扉へ向けた時に、中から声がするのが聞こえた。



「――それで、母はなんと。どうすると言っているんだ」



 熊掌の喉が音を鳴らす。

 それは、芙人ふひとの声だった。

帝壼宮ていこんきゅうへの帰還を望まれているようです。これまでの不遇を撤回したいと」

 応えを返したのは、常に芙人の傍に仕えている供のものだ。次いで、はっと吐き捨てるような芙人の嗤いが漏れ聞こえた。

流石さすがだな。いけ図々しい。――あれが俺を産んだ人間だと思うと虫唾が走る」

「ですが、猊下が彼の方の行方をずっと探していらしたのは事実。黄泉よもつ比良坂ひらさかつなげる可能性のあるのが彼の方しか存在しない以上、棄てては置けませぬ」

 芙人の重い溜息が落ちる。

「分かっている。あれは素戔嗚すさのおを誘き寄せる為にどうしても必要なものだ。その時の為に帝壼宮内に留めておけるのならば寧ろこちらにとっても都合がよい。猊下もそれを狙っておられるのだろう」

「はい」

「――父と母の存在と正体を知る者は少ない。あれで黄泉比良坂が繋がっていれば、白玉の継承が危ぶまれるまでの事態に追い込まれる事もなかったというのに――母が己の宿命に大人しく従い、あまてらすの命を聞き入れてさえいれば――俺も」


 ぎい、と音がした。


 はっと、芙人と供の者が顔を上げる。扉の向こうに姿を現したのは、深衣しんいの袖を破り、顔にまで傷をつけ、呆然と立ち尽くす熊掌だった。

「――芙人」

「お前―――そのなりは一体なんだ」

 青褪あおざめた熊掌に、芙人は苦虫を嚙みつぶしたような顔を向けた。

「芙人、これはどういう事。一体何の話をしているの」

 芙人は答えずに、文を床の上に投げてた。

「立ち聞きとは感心しないな。なぜ戻った。いや、何故まだここにいる。もう出立の刻限はとうに過ぎているはずだろうが」

「出立は明日へ日延べになったんだよ。いや、そんな事はどうでもいい。今の話はなんなんだ。白浪の使者の話だよな?」

 芙人は額を指先で抑えながら深い溜息を零した。

「全く……少し気が抜ければ、お前はすぐに下世話な口の利き方に戻るな」

「教えてくれ。悟堂ごどうの事で聞きたい事が――」

「その名前を俺の前で口に出すなと言ったはずだ‼」

 芙人の怒声に、しかし熊掌は怯まなかった。駆け寄りその袖をつかむと、悲愴な眼差しで芙人を見上げた。

「芙人。お願いだ。これだけは誤魔化ごまかさないでくれ。教えてください。悟堂は今、本当に白浪はくろうにいるのか?」

 芙人は観念したようにちっと舌を打つと「そうだ」と吐き捨てるように言った。

「――猊下の下へ届けられた書状にそう記されていた。七年前にえいしゅうで射落とされて以来、昏睡状態のまま白浪で保護していたと。それが昨年の末に覚醒したそうだ。書状を持参したのは、素戔嗚の娘であり、先の白皇の一交であった宇迦之だ」

「いきてた――いきてたんだな」

 熊掌が膝から崩れ落ちる。全身が震えて止まない。

 その様を、冷たい眼差しで芙人が見下ろす。



「――そんなにも、会いたいか」



 芙人の言葉に、熊掌はびくりと震えた。

「奴が生きていて、嬉しいか」

「――やめてくれ」

 芙人の口元が、皮肉な嗤いに歪む。

「肉の愉悦を俺や邑の男に叩き込まれたその体で、今更あいつの前に立てるのか」

「やめろ‼」

 熊掌は震える手で自身の両耳を塞いだ。

 生きていた。生きていてくれた。あんなに切望していた事なのに、あんなにも無事を祈って願って望んでいた事なのに、それがこんなにも、こんなにも絶望しかもたらさないなんて。

 おこりのように止まない震えを止められず、熊掌は見開いていた何も映せない眼を、ぐっと閉じた。

 もう何も見たくない。

 何も聞きたくない。


 ――今更、会えるわけがない。


          *


 翌朝、定刻通りに熊掌達一行は帝壼宮ていこんきゅうを後にした。

 騎上の人となった熊掌は慣れた様子で手綱をさばく。その眼は真っすぐに、はるか遠いえいしゅうを、その未来を見詰めていた。帝壼宮は既に遠く背後に消えてゆくばかりだ。


 出立の目前、熊掌は静かに李毛に耳打ちした。

「李毛。僕はすぐこちらに戻るよ」

「それは……」

「滞在許可申請をしたが先程出したばかりなので裁可に間に合わなかった。僕があちらへ戻っている内に出されるだろうから、ほぼ折り返しで戻ってくる」

「――動かれますか」

「ああ」

 こくりと頷き、熊掌は鋭い眼差しで李毛の眼を射た。

「だからお前に頼みたい――どうか、僕が戻るまでに父上の拘束されている場所を掴んでくれ。詳しくは白央邸の湯殿番に聞くように。彼等が主に僕の手足となって動いてくれている。それから官吏の飯炊きの番、黄師兵舎の清掃番、宮城内の庭師、彼等も臨赤諜報に関わりがある。上手く使ってくれ」

「――わかりました」


 馬上で、ふと自身の目の前に一枚の花弁が散り落ちたのが見えた。

 一応辺りと頭上を見回すが、そこに花を付けた枝はない。

 しかし、また一片、また、一片。白に等しい薄紅色の花弁が舞い落ちてくる。ここしばらくは見かけなかったというのに。

 ――まだ残っていたのか。

 熊掌は静かに散り落ちる花弁に掌を向けた。しかしそれはするりと熊掌の肉の身を通過してどこかへ消え失せてしまう。

 熊掌は、これが何かを知っている。

 瞼を閉じ、開く。



 熊掌の視界は、舞吹雪く桜花で満たされている。

 帝壼宮の中庭に。屋根の上に。往復の途上の砂漠の上に。吹き抜ける風に。あらゆる場所に花弁が舞い、吹き溜まっている。

 瀛洲は特に壮観だ。

 白玉はくぎょくの祠へ向かう階段は全て桜花の花弁に埋もれている。階段を一段昇る度に花弁が舞い上がる。邑長邸は産を司るからか、特に花弁に埋もれていた。

 翡翠の滝で梶火を見下ろした時、熊掌の眼に映っていたのは薄桃色に染まった滝だった。桜の花弁を流し続ける滝は既に翡翠ではない。

 石台の上で自分を見下ろす梶火の背後に、枝鳴りと共に桜花が舞っていた。

 熊掌は眼を眇めた。

 世界はもう、薄桃色に染まって、他の物がよく見えない。

 熊掌はもうすでに、何もかもがまともに見えていないのだ。


 最初の帝壼宮への招集から帰邑した後。

 邑での長期療養を経てようやく一人で歩けるようになったある日、熊掌は一人白玉の祠に昇った。

 早朝に昇ったはずの熊掌が下山したのは、昼近くになっての事だった。



 熊掌は、白玉の祠へは入れなかったのだ。



 下山するまでの間、熊掌はただ一人で祠の前に立ち尽くしていた。自分の眼が見ている物を理解できなかったのだ。辺りを埋め尽くした、季節外れの大量の桜に困惑しながら、祠から世界を見下ろした。

 桜に埋もれた邑。

 薄桃色に染まった海。

 そしてただ――空だけが、青い。

 そっと両の掌を持ち上げると、さらさらと指先から、自らの指先から桜の花弁が零れ落ちて行った。


 自分の肉体から零れ落ちて行くこの桜の花弁の正体を、熊掌はもう知っている。姮娥こうがを埋める美しき猛毒。死を司る白玉の神威。または病。


 その名を、死屍しし散華さんげという。



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