6 覚醒

72 海岸にて、二者 ー経緯ー



「――それは、ほんとう?」


 大きなまなこを見開いて、黒い瞳でじっとこちらを見据みすえながら問う七つの子供に、悟堂ごどうはざわりと背中がさわいだ。

 それは恐らく他愛もない日常の中での出来事だった。


大陀羅だいだら、いつもみかんみたいなにおいがする」


 ふいと、抱き上げていた幼子がそういいながら、自分の頸筋くびすじに鼻先をうずめて来たので、頭を一撫でしてから砂の上に下ろした。

 明るい冬の日だったと思う。

 そう、浜辺を歩いていた。前後の流れは失念したが、確か、母と弟の連れ立って歩く姿を見かけてしまった彼が一人部屋の隅でひっそり泣いていたので、浜へと連れ出したのだ。

 正面から吹き付ける海風が肌を叩き、前髪の形を崩れさせる。

 草履ぞうりが砂をんで歩きにくかった。

 自分から柑橘のかおりがするというので、こうを使っているのだと話した。どうしてこの香りなのかと追って問うので、にっこりと笑ってこの香りが好きなんですよ、と答えた。

 それに対して問うてきたのだ。

 それは、本当か? と。

「――ええ、本当ですよ。どうしてそんな嘘をくと思ったんですか?」

「うーん。なんとなく」

「私が若に嘘を吐く必要がないでしょう?」

 ふわりと微笑んで返すが、黒い瞳はこちらの目を見据えて放さない。

 悟堂ごどうは苦笑しながら、この幼子おさなごの前に膝を突いて、その眼の奥を見つめ返した。

 光を飲み込み真実まで射るような眼の前に、悟堂は躊躇ためらう。そして思う。果たして自分は――自分達は、どこまでこの曇りのないまなこたばかりを見抜かれているのだろうか、と。


 この世に生を受けて早幾年。近年では、大抵の者はこの物腰と、急ごしらえできたえ上げた体躯たいくの説得力にだまされてくれるようになっていた。

 方便ほうべんという手管てくだが染み付きすぎて、最早もはや自身ですら何が真実で、どれが本音で、どこまでが嘘かも分からなくなっている。

 でも、自分はそんな人間でいいのだ。他人からどう思われようが、裏切ろうが裏切られようが、そんなものは所詮しょせん浮世の刹那に過ぎる一陣の風のような物に過ぎない。


 そう――確かにそう思っていたのに。


 今よりも若く未熟だった頃の自分は、本当に、滅茶苦茶めちゃくちゃな生き方をしていたと自覚している。姮娥こうがの女から女を渡り歩き、刺された事も一度や二度ではない。しかし、それを後悔したこともない。

 その度に、母は心底苦々しい顔をした。そんな母を見るのが、大層愉快だった。あれ程胸のすく物はないとそう思っていた。あの顔のために女達を抱いていたとも言える。

 くずである。

 だが、相手を自分の思うわくに押し込めようとする事を罪業と言うならば、それはお互い様だ。ろくな母子ではなかったのは、悟堂だけのせいではない。



 ただ――胸の底に、ころりと転がしてある、たわいもない一つの思い出だけが、微かに悟堂の良心をいためる事はあった。

 一人の少女が、過去からじっと悟堂を見つめている。

 いつも自分の事を案じてくれたあの横顔が、ささやかな接吻が、救えなかった後悔が、ずっと、転がっている。



 どうせ五邑ごゆうはみんなすぐに死ぬのに。

 自分を置いていくのに。

 どうしても守りたかったあの命は、救うために離れていた間に、あっという間に散った。

 離れてはいけなかったのに。

 喪いたくないならば、絶対に、離れてはならなかったのに。

 救うために動いた隙に奪われたなんて、笑い話にもならない。


 だから、そこからの悟堂の人生は、ないがしろにされた尊厳への復讐のために投じられている。


 誰にも理解されなくていい。殺意を含めた侮蔑にさらされようが、背信の賊とそしられようが――例え世界の全ての敵に回ろうが、一向に構わなかった。

 構わなかったのだ。

 奴等の望みなど全てこの手で断ち切ってやる。思い通りになど絶対にしてやってなるものか。そのためならこの手を汚す事などなんでもない。あらゆるものを破綻させてやる。


 そのために、自分はこの口を閉ざし続けるのだ。

 そう思って生きてきたのに。


 じっと見つめる子に微笑みかけてから、すっと立ち上がりその手を繋いだ。

「戻りましょうか、若」

「うん」

 手を繋ぎ、この進みにくい砂地をゆっくりと進む。

 砂が――砂が足元を覚束おぼつかなくさせる。歩みを遅らせる。幼子がまろびかける。小さな手を、ぎゅっと強く握った。




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