63 噂話と姑娘達


          *


 海神わたつみの宮とはくおう邸をつなぐ回廊は、その半ばに切れ間がある。

 幅の大きい間隙かんげきではないが、ゆう程度の体格ならば通り抜ける事も難しくはない。体を横に向ければすんなりとすり抜けられる。

 抜けた先には植栽しょくさいがある。その隙間を縫って進むと、やがて植栽が途切れ、足元に白砂の敷き詰められた庭園が現れる。色取り取りの花や果樹がその枝振りを誇る中、先へ先へとただ進む。そうするとやがて粗末な垣根が行く手をはばんでくる。垣根は朽ちかけた木の板でこしらえられていて、左右遠くまでずっと続いていた。その垣根沿いにやや右へ移動すると、下部がいたんで穴が開いている所がある。成人が通り抜けられる程の大きさではない。しかしそれを押しやると存外簡単に幅が広がる。そこをくぐり抜ける。すると、左側に宮城内にあるとは思えぬ粗末な建物が現れる。下男下女用の住居だ。

 小走りに進むと、やがて建屋の二階部分にひとつの露台が見えてくる。熊掌はそれを見上げてふわりと笑った。一瞬の間をおき、そこへ向けて跳躍ちょうやくする。物音も軽く露台へ飛び乗ると、衣がふわりと風に舞った。幸い誰からも目撃される恐れのない裏側だ。表の出入り口を使い、誰かに見つかるという危険をけられるので、熊掌はもっぱらこちらから屋内に入るようにしていた。

 二階のその露台に面している部屋は、下女用の食堂兼起居室として使われていた。

 露台の欄干から降り、こここんと窓を叩扉こうひする。するとがたんと激しい音がして窓が開けられた。


らんりょう遅い!」


 窓を開けてくれた下女が頬を膨らませながら両の腰に拳を当てて怒りを表現する。しかし中へは入れてくれるのだ。熊掌は肩を軽くすくめながら彼女のそばへ歩み寄る。

「悪い。りょ千鶴せんがくのところでちょっと手間取てまどった」

「え? なぁに? なんかあったわけ?」

「お茶をご馳走になったんだよ」

「ああそう!」

 下女が眉間に皺を寄せながら何かを投げて寄越よこした。顔に飛んできたそれをつかんでみれば黒木苺くろきいちごである。反射のように熊掌はそれを口に運んだ。ふ、と懐かしい香りと味わいに熊掌の表情がやわらぐ。そしてわずかに目元をくもらせた。

 それに気付いたのか、果実を投げて寄越したその下女もまた表情を変えた。

「見せて。腕の傷はどう?」

 下女が心配げに左手首を見てくるのに、熊掌はそっと右手でさすりながら笑って見せた。

「ああ、さっき加減して洗ってくれたから。軟膏なんこうも効いてる。ありがとうね、子涵ずーはん

「ほんとどうしようもないわね、方丈ほうじょうのは」

 子涵は、伸び上がると熊掌のくびに両腕を回して抱き寄せ、肩を軽く数回叩いた。熊掌より大幅に小柄な少女が一生懸命に背伸びをして抱き寄せてくれるのは心地よかった。経験はないのに、母親にそうされているような気にさせる。

「良い子。藍龍は良い子」

「――ありがとう」

 子涵は少し身を離してからふわりと微笑んだ。

「どういたしましてよ」

「やっぱり、そういうところ、子涵は似てる」

「似てるって、例の初恋の子? 汐埜しおのとかいう」

「うん。ねえ、やっぱり全部落ち着いたら子涵、僕の所にお嫁にこない?」

 子涵はぺしりと熊掌の肩を軽く叩いた。

「何言ってんの。あたし後妻? だとかは厭だって言ってるじゃん。それに毎日死屍しし散華さんげで死ぬかも知れないなんて震える人生厭よ? あとあんたあっという間に死んじゃうじゃん」

「まあ、あっという間に死んじゃうけどさ、死屍散華は解毒薬があるんだから大丈夫じゃない?」

「まーもう、簡単に言ってくれちゃって」

 ぶぅっと頬を小動物のようにふくらませる。そんな様子も愛らしいと熊掌は内心笑った。

「言ったでしょ? あたしはじっくり三交を決めて子供産んで、みんなで幸せに暮らすの。そう決めてるの」

 熊掌はくすくすと笑って子涵の肩を抱き寄せた。

「子涵は、必ずいい親になるよ」

「決まってるじゃない。さあよし皆! 藍龍きたからお茶にしよ」

 子涵がぱん、と手を打ち鳴らした。

 これが茶会――密談開始の合図である。奥にいた下女達がわらわらと集まってきた。子涵を含めた五人がそれぞれ好きな茶をれた湯呑を手にして集まってくる。

「はい皆おつかれー」

「おつかれさま」

「ちょっとそこ詰めてよ」

「まって、あんたあたしのくん踏んでる!」

 一斉にかしましくなった姑娘クーニャン達に熊掌は笑った。

 彼女達は全員方丈につとめている下女だ。皆さっき湯殿で熊掌の世話を焼いてくれた者達である。頭から爪の先まで世話をしてもらっているので、もう今更包み隠すものも何もないのだ。

 そう。はくおう邸の下女相手で自身の体を隠す事はもうない。

 着替えの礼を言っても視線も合わさず口も利かないのは、水くさいからだ。

 世話を焼かれるようになった頃に、熊掌はこう理解した。本来彼女等にとって、自分が何者かなどどうでもよいのだ。月人つきびとの彼女等は、如艶じょえんの命で方丈ほうじょうの管理をしているにすぎない。瞬く間に死に、次々と子を産んではまた死ぬ五邑ごゆうの民の世話など、家畜のそれを扱うのに等しいのかも知れない。ならば自分が礼を言うのも、馬のいななき程度にしか思われていないのだ――と。

 しこうして、そうした所感を述べた所、子涵に頭をはたかれた。

「馬鹿じゃないの⁉」

 と。

 呆気に取られていた熊掌の頸に子涵は両腕を回して抱き寄せた。



「あたし達にだって情緒ってもんがあるのよ。実際に関わって肌に触れたら生きてるって事が分かるの。分かっちゃったらもうおんなじ人間! 寿命が全然違っても、生きて言葉が交わせるなら人間!」



 そんな子涵の言葉に、熊掌がどれだけ救われたか知れない。

 席の一つに着くと緑茶が出される。「ありがとう」と一口すする。ここできっされる茶がどれだけ心身を癒してくれたか知れない。ほっとようやく一息を吐いた。

 熊掌に構わず下女達は好き勝手に会話を繰り広げている。

「ねえねえ、最近城下で流行はやってる語部かたらいべ行った?」

「行ったよ! もー! 全部禁軍大将軍の英雄譚ばっかりよ! その名をらん成皃せいぼうという! こればっかり!」

 ふ、と熊掌は茶碗に口を付けたまま目線を向けた。

 禁軍の大将軍は、確か二年前にその座に着いたばかりのはず。それまでは長く空位が続き、実質右将軍である沙璋璞さしょうはくが禁軍の全権を握っていた。

「まあ仕方ないよね。最近また水吞みずのみの反乱があちこちでおきてるみたいだし。ほら、水源汚染以降武器を持って暴動を起こすのが増えたじゃない。ああいうのの対処に成功してるの、ほぼ鸞成皃だけだもんね」

 水吞、というのは浮浪民の事だ。

「あんた達せめて敬称つけなさいよ」

 子涵が苦言をていしたところで、ようやく熊掌が口を開いた。

「ねぇ。みんな、その大将軍って、実物見た事あるの?」

「ああ、藍龍はないんだっけ?」

「うん。僕方丈から基本出られないから」

「あー、あたしある! すっごいでっかいの!」

「確か五邑との混血なんだっけ?」

「そうそう。だから死屍しし散華さんげが効かないらしいよ。それとあの人、あの例の――あの州の事件の時の。あれの生まれみたい」

「そう聞くわね。語部では言ってないみたいだけど。そりゃ誰もあんな話聞きたくないよねぇ」

「あたし達は藍龍で五邑見慣れてるから平気だけどさ、禁軍の連中はよく平気だよね」

「うん。寧ろ人気高いらしいよー。あとさ、戦場には決して姿を現さないってのでも伝説化するのには十分だよね」

「禁軍に推挙される前に両目がつぶれたんでしょ? 五邑の血が濃いから失明したまんまだって。そこは気の毒だよねぇ」

「そうそう。五年前だったかな。それまでは黄師こうし大師長の側近だったんだよね」

げつ様の元側近かぁ、出世頭じゃん」

「こら! いみなで呼ばない! 仮にも猊下げいかのお子だよ⁉ 首飛ぶよ⁉」

「ごめんて! げっとう様!」

「でもそうなのよねぇ。出自と推挙元としてはこれ以上ない後見があるんだよね、大将軍。それでめちゃくちゃ頭がいいって言うので、城の中に引きこもって作戦を立てるだけで負け知らずって、ちょっと冗談みたいな人だよねぇ」

 盲目でありながら歴戦常勝の智将――という前評判だけで敵には回したくないな、と熊掌は内心思う。

 基本的に熊掌が方丈から出られないのは事実だが、拝謁の時などに太陰たいいん殿でんに立ち入る事はある。接触する可能性や機会がない訳ではないが、熊掌はえてそれを避けるようにしていた。

 熊掌自身は左程さほど知略に富む訳ではない。そういった智者と行き会ってこちらの策略に気付かれるのはまずい。何より、五邑の血を引くと言えど、沙璋璞さしょうはくのように五邑に肩入れしてくれるとは限らないのだ。距離を取るに越した事はないと判断してきた。

 禁軍の将である以上、間違いなくこの先熊掌はその人物と刃を交える事になる。不死石しなずのいしを外した五邑の自分が、並みの姮娥こうがに劣る事はまずないが、彼が五邑との混血という事が引っ掛かった。

 もしその人物が不死石を体内に安置していなかったら、恐らく条件は熊掌と同じになる。否、姮娥の民である以上、不死の要素も高いかも知れない。智将であり六倍の膂力りょりょくを持つ不死の大将軍など最悪だ。

 関わりたくはないが、その人物を知る必要はある。しかし藪をつつきたくもない。難しいところだった。


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