22 二者択一



          *


 すいどろは、保食うけもちに「ほんとうの自由をあげたかった」と言ってにえの任を引き受けた。つまり、あの瞬間から、本当の意味で自分達の命は切り離せない関係になったのだろう。


 保食が器となって死ぬか。

 水泥が『環』の贄となって死ぬか。

 そのどちらかが必ず選択される。


 二者択一の場面など、これまでに何度も保食は遭遇してきたし、その度に煮え湯を飲まされる思いで乗り越えてきた。だから、どんな場面でも自分は心を凍らせて乗り越えて行く事が出来る。そう信じていた。いたのに。

 全くそんな事はなかった。

 水泥に関しては駄目だった。

 そんな自分の本音を突き付けられて、保食は自身に失望し、失笑した。結局、この兄代わりに自分は途方もないくらい依存していたのだ。


 寝棲ねすみの式には参列したが、夢現ゆめうつつのような心地で、今尚本当にあった事だったか曖昧な記憶でしか留まらない。

 ――ただ、梨雪りせつがあまりに美しくて、鮮明だった。

 微笑み合う梨雪と寝棲の姿があまりに幸せそうで、保食はただただ苦しかった。本当なら、少しの淋しさと閉じて行く自分の未来に一抹のわびしさを感じながらも、心から長い時間を耐え忍んだ二人に祝福をしていたはずだった。

 自分が見ていた未来は、こんな形はしていなかった。



 頼めるのは――保食、水泥、お前達だけなんだ。



 八咫やあたが言ったその言葉が、ずっと耳から離れない。


 その後間もなく保食は蓬莱ほうらいに入った。

 蓬莱の滞在時には、病態を装うために特殊な調合を施した薬を酒に混ぜて飲む。酒精だけは感知されぬままに不調を作り出せるという、極めて都合のいい薬だ。しかし何故か今回は、その酒と薬の効きが常より強く、保食は、ずっと朦朧とした状態で蓬莱での日々を過ごす事になった。

 その様子は、定例の来訪者からは余程体調が悪いように受け取られたらしい。受け答えのはっきりとしない保食はそれ程に珍しかった。夢現の最中、大きな温かい手が保食の頭を撫でているのを一度だけ感じた。


「ゆっくり休みなさい」


 来訪者のものと思しき、落ち着いたその低い声に再会できたのは、その時だけだった。配慮してくれたのだろう。

 至極呆気なかった。


 どうしてそんなにも自分はけていたのか。

 恐らくは、大本営での出来事が余程衝撃だったのだろう。受け止め切れていないのだ。そして水泥一人を氷珀に残して自分だけが蓬莱で過ごしているという事の意味が保食には分からなかった。ずっと共にいた。離れる事などなかった。そんな彼と引き離されて、なぜ自分はこの蓬莱で横たわっているのだろうか、と。

 本当に不可思議でならなかったのだ。

 これは、自分達の別離の隠喩いんゆなのではないかと、うっすら思いもした。



 蓬莱で七日の時を過ごし、保食は長月に氷珀ひょうはくへと舞い戻った。

 帰投した保食を待ち受けていたのは、想像以上に容赦のない八咫の識字の叩き込みだった。

 あの日、水泥と保食に想像もしなかった道を開いた大広間の卓子の傍で、いしどこに直座りしながら、一文字一文字を読むところから始まった。

 最初の三日は午前の内に逃げ出した。座っているだけでこんなに頭痛を感じたのは初めてだった。と、後に保食はげっそりとしながら語った。逃走の度に首根っこを掴まれ引き戻された。初日はばいらん、二日目は寝棲ねすみ、三日目にはとうとうちゅうたつに捕まって、そこでようやく諦めた。その度に三人には笑われた。聞けば、八咫も全く同じ事をしたのだという。

 ――ただそこからが違った。

 八咫はそこからの三日、つまり合計六日間で、ひらがなとカタカナの読み書きを共に習得したそうだが、保食には天地が引っ繰り返っても無理だった。逃げるのはあきらめたし、出来の良し悪しは比較にならないので考えるのを止めた。自分のような凡人は地道に一つずつやるしかない。

 八咫は憶えの速さが常人のそれとは異なるので、気にしても始まらん、というのが中達ちゅうたつ師傅しふの言だった。

「元々の資質もそうだが、あれは執念のなせるわざじゃな」

「執念、ですか」

 苦笑いを浮かべた中達から手渡された白文の字引を手にし、分厚いそれをぱらぱらとめくって、これがどうしたのかと聞くと、八咫がその中身を全部頭に叩き込むのに要した時間が一日だったという。聞いた途端、保食は昏倒こんとうした。


 昏倒から目覚めた後、保食は額に置かれた濡れ手拭いを床に放り出しながら臥床の上で身体を丸めた。そして思った。


 一度目にしたものは決して忘れない。

 忘れられない。

 それは、一体どんな景色なのだろうか。

 そんな能を抱えて生きるのは、苦しくはないのだろうか? と。


 保食は寧ろ忘れる事の方が得意だ。心から追い出すのが得意、と言うのが正確か。切り刻んだ肉体に潰した眼球。石床に縫い留めた手足。穿った腹。――そんな全ての光景をずっと脳裏においたまま生きねばならなかったとしたら、さすがに己でも発狂したろう。

 他人の脳の内、心の内など目には見えないし分からない。

 だから、保食はあまり他人の心には踏み込まない。自分の心にも踏み込まれたくない。

 理解したような顔をする男共が――不快で不快でたまらない。

 俺には分かる、お前の苦しみを受け止めて愛してやれる。だからここから一緒に逃げ出そう。

 俺のものになれ。

 そう言って手を伸ばす奴等を皆殺しにしたい。そう思って生きて来たし、そう思わされる事がなかったのは、水泥と長と麻硝と寝棲だけだった。

 自分が何者として生きるかは自分で選べと麻硝は言った。

 しかし、保食はその言葉の裏に含まれた麻硝の意図を感じてしまう。考えてしまう。それに従わねばならないのではと体と思考が反射する。

 あの男は、保食を女として見ないし消費しない。その代わりに徹底して駒として見ている。

 それが嬉しいとは思っていない。

 ただ、不快ではなかった。

 だから今まで仙山として生きることは数少ない救いであり、器となる未来を保食に忘れさせてくれる大切な時間だった。

 だがしかし。

 水泥の命と両天秤にかけられた今はもう――分からなくなった。

 考えなくてはならない事は分かるけれど。

 何も見たくなかった。

 先を、決めたくなかった。

 だから保食は――きつく眼を閉じた。



 結論から言って、八咫は保食に文字を教えられなかった。



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