23 懸想


          *


 八咫やあたは、自身が知識を身に着けるのは尋常ならざる早さだったが、それを人に教えるとなるとまた別のようで、何故保食うけもちが理解できないのか、身に着けるのに時間が掛かるのかが全く理解できなかったらしい。


「ごめん! すまん! 無理‼」


 ぱんっ! と目の前で手を合わせて頭を下げた八咫を見る保食の目は、どす黒い侮蔑に満ち溢れていたと、後にすいどろは微笑みながら語った。

 当然だろう。あんな大口を叩いておいて。

 保食の学びの助けになったのは、結局水泥と中達による手引きだった。



 しかし、水泥が文句を言う事はなかった。

 恐らくは、この氷珀の地でこれまでにない充実を味わっていたからだろう。

 保食が不在の内に、八咫と水泥はあらゆる物資の使い道について二人で喧々諤々としていたらしい。

 中でも水泥が舌を巻いていたのは、八咫の調合技術だった。

 聞けばえいしゅうにいた頃、友人と二人でこそこそ隠れてあれやこれやと試していたらしい。

 えいしゅうの者でも大抵が知らない事らしいが、西端の磯に小さな子供だけが潜り抜けられる大きさの穿うがあながあるのだという。そこを通り抜けて更に奥へ行くと、然程幅はないが、十分な水量のある川に辿り着ける。八咫はそこに隠れ家のような小屋を作り、その中に彼等で調合した物やこっそり集めた物などを納めて置いたのだという。

 彼曰く、誰も困らないような悪さをしてみた、のだそうだ。

 その一言だけで、それがどれ程厄介な悪さだったのか想像がついた。

 砦の大広間の窓辺で、中達に教えられながら保食は毎日書き取りをしていたのだが、眼下には八咫と水泥が調合と実験を繰り返していた鍛治小屋があった。そこから鳴り響く爆発音を聞いたのは十や二十で済む話ではない。実際に屋根が吹き飛んだのも、保食の記憶が正しければ三度は確実である。

 水泥は――本当に楽しそうだった。あんなに明るく生き生きとした彼は、それまで見た事がなかった。八咫も、初めて会った頃と変わらず、水泥を兄さん兄さんと慕っていた。

 

 それが保食には少し羨ましかった。

 割り込めない男同士の何かがそこに垣間見えていた。


 八咫やあたは常に目まぐるしく動く少年だった。あちこちの人の集まりに首を突っ込んではあれこれ聞き出し、聞いては動き、何かを思い付いては作り、途中で投げ出しては床の上に転がって仮眠を取り、ばいらんを捕まえては手合わせをし、兎に角活動量が尋常ではなかった。記憶の速さもその量も、何かを思いついて作る頻度も異常だった。

 そして、体力の限界をある時突然迎えて、三日ほど只管ひたすら眠る。体調が悪いのではなく、本当にただただ長時間熟睡するのだ。それが唐突に来るため、周りもそれに慣れたものだった。大体の周期は寝棲ねすみ麻硝ましょうが把握しているため、細かな計画には支障を来さずに済んでいるらしかった。本当に活発で生き生きとした少年だった。


 ――生き生きとはしていたが、その眼は常に暗く黒かった。


 その理由が分かったのは、約束の五ヵ月のうち四ヵ月を過ぎた頃、大晦日おおみそかの夜の事だった。

 夕餉を終えた保食うけもち水泥すいどろが中央広場に出ると、焚火が焚かれていた。年越しという事もあり、まばらではあるが少なくはない人数がその周辺を囲んでいた。その中に、ひとりぽつんと丸太に座る八咫の背中を見つけたのである。近付き声をかけた。夕餉の席でばいらんに吞まされた古酒で、少なからず酔っていたのが恐らくまずかった。



「――やぁた」



 びくりと跳ねるように立ち上がった八咫の切実な表情は、見てはいけないものだった。そんな気がした。

 逼迫ひっぱくしていた八咫の顔は、焚火の弱い光で照らし出された保食の顔を見つけると、あからさまに肩を落とし、こちらの胸が苦しくなるような、悲しい顔で笑った。立ち上がった時の八咫の眼は、まるで岩窟で光を見つけたような、救いにすがるような、そんな色をしていた。

「なんだ。お前か。びっくりした」

 溜息を吐きながら、八咫は再び丸太に腰を下ろす。

「――びっくりしたのはこっちだよ」

 保食も一息吐くと、八咫のそばに転がっていた別の丸太に腰を下ろした。水泥は腰は下ろさずに保食の少し手前に立つ。見れば、八咫の手元にも壺がある。

「ちょっと、あんた酔ってんの?」

「あ? ああ、梅蘭がさっきな……」

「飲み過ぎるんじゃないわよ? あんたまだ餓鬼なんだから」

「お前だって大して変わらねぇだろうが」

 小競り合いをする二人に、柔らかい微笑を水泥が向ける。

「――誰かの声と聞き間違えた?」

 水泥の問いに、八咫は虚を突かれたような顔をして、それから決まりが悪そうに耳をほじった。

「……ああ。こんなに声が似てると思わんかった。びっくりした」

「誰よ? 家族?」

 保食もやや酔っていたのか、小首を傾げて平素はしない軽々しい問いをした。八咫は幾度か瞬きをしてから、ふ、と瞼を閉じて、両掌を重ねると、それで自身の顔の正中線を隠した。

 橙の炎光が揺れる中、その口元は薄く微笑んでいるように見えた。



「――いや、それ以上だ」



 囁くような声は、八咫が思い浮かべる人物が、どれ程彼にとって大切なのかを如実に物語っていた。

「ふぅん……あんたにも一丁前にそんな相手がいたのね」

「そんなって、なんだよ」



「何って――懸想してんでしょ? その人に」



 八咫は、ぱちくりと眼を丸くした。

「懸想――か、そうか。そうだな……そうだったのかも知れない」

「やだ、何あんた、今あたしに言われて初めて気付いたわけ?」

「そう、みたいだ」

 水泥が、ふいと八咫に何かを差し出した。保食が目を向けると、そこにあったのは手拭いだった。それで、保食も気付いた。


「そんなに苦しそうな顔をしておいて、今まで誰にも指摘されなかったの?」


 水泥の言葉と共に差し出された手拭いで、八咫は初めて、自分が落涙していた事を知った。

「はは――そっか、おれ、俺阿保みたいやな。やから、あんなに諦められんかったんや――」

 八咫は水泥の手拭いを受け取ると、それで顔を覆った。

「あいたい」

「――うん」

「なんで……なんで俺、あの時手ぇ離してしもたんやろ」

「うん」

「ずっと一緒にいるって約束したんや。一緒に、仙山せんざんにくるはずやった」

「――えいしゅうの子なんだね」

 水泥の問いに、八咫は頷いてから顔から手拭いを外した。眉間に深く皺を寄せていた。

「……俺は、寝棲の代わりに白玉の合祀を確かめた。その時だけだったんだ、参拝できたのは。その初めての、たった一回の参拝で、俺は自分が『色変わり』しない事を知った。それを伝えたら寝棲に言われた。もう二度と食国おすくにに触れるな。触れたら殺すことになるって……」

 保食と水泥は、顔を強張こわばらせた。

「それ、その子もしかして」

「ああ、の民だ」

「『色変わり』しないから、触れたら殺してしまうって……そこまでの物なの?」

「詳しくは――寝棲は聞いても答えてくれんかった。ただ、えいしゅうにあった白玉はさんぽう合祀ごうしだ。その一つは、旧員嶠いんきょうの『御髪みぐし』で、その力は『必滅』だ。つまり、それくらい危険だって事なんだろうさ」

 しばらくの沈黙を挟んでから、八咫は「ありがとう」と水泥に手拭いを返した。水泥は受け取り懐にしまう。

「一緒にくるはずだったけど、できなかったんだよね」

「ああ」

「理由をきいても?」

 八咫は、ゆっくりと息を吐き出してから、目を焚火に向けた。


「邑を出てすぐに、白浪はくろうに奪われた」


 保食は思わずひゅっと息を呑んだ。「――はくろうに、って」と我知らず声が漏れる。

「触れたら殺す事になるって言われて、俺が日和ひよった所為せいだ。俺が付いたから、遮二無二しゃにむにで取り戻そうとしなかったから、自業自得で食国を失った。死ぬほど後悔したよ。だから、俺、何回も麻硝に頼んだんだ。仙山に来てから何度も。食国を取り戻させてくれって。そうこうしてるうちに、自分の中から死屍しし散華さんげが消えて行っているのが分かって、もしかしたら、食国の傍にいられるようになってるんじゃないかって、俺、そう思って」

「――ねえ、八咫」

 水泥が静かな声で八咫に問いかける。

「ぼく、前から気になっていたんだけど、砦で君達から贄になってって言われた時に、君が当主に言った事がずっと引っかかってたんだ。あの時君、誰かを取り返す為ならなんだってやる。今度こそ、しくじりたくない、そういったんだよ」

「ああ。言った」

「つまり、ここにきてからぼくたちと知り合うまでの一年の間に、すでに動いていたんだね?」

 暗い、暗い双眸に炎光が揺れた。



「――――そうだ」




――――――――――――――――――――――――――――――――――


作中に未成年の飲酒描写がございますが、これを推奨する意図は全くございません。というか、成年であっても過度の飲酒は絶対にするな。

酒には飲まれるな。

死んでも飲まれるな。

「人」を維持できないような飲食は絶対に許されないと心して生きて欲しい。


心から、頼みます。

大切に生きてください。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る