23 懸想
*
「ごめん! すまん! 無理‼」
ぱんっ! と目の前で手を合わせて頭を下げた八咫を見る保食の目は、どす黒い侮蔑に満ち溢れていたと、後に
当然だろう。あんな大口を叩いておいて。
保食の学びの助けになったのは、結局水泥と中達による手引きだった。
しかし、水泥が文句を言う事はなかった。
恐らくは、この氷珀の地でこれまでにない充実を味わっていたからだろう。
保食が不在の内に、八咫と水泥はあらゆる物資の使い道について二人で喧々諤々としていたらしい。
中でも水泥が舌を巻いていたのは、八咫の調合技術だった。
聞けば
彼曰く、誰も困らないような悪さをしてみた、のだそうだ。
その一言だけで、それがどれ程厄介な悪さだったのか想像がついた。
砦の大広間の窓辺で、中達に教えられながら保食は毎日書き取りをしていたのだが、眼下には八咫と水泥が調合と実験を繰り返していた鍛治小屋があった。そこから鳴り響く爆発音を聞いたのは十や二十で済む話ではない。実際に屋根が吹き飛んだのも、保食の記憶が正しければ三度は確実である。
水泥は――本当に楽しそうだった。あんなに明るく生き生きとした彼は、それまで見た事がなかった。八咫も、初めて会った頃と変わらず、水泥を兄さん兄さんと慕っていた。
それが保食には少し羨ましかった。
割り込めない男同士の何かがそこに垣間見えていた。
そして、体力の限界をある時突然迎えて、三日ほど
――生き生きとはしていたが、その眼は常に暗く黒かった。
その理由が分かったのは、約束の五ヵ月のうち四ヵ月を過ぎた頃、
夕餉を終えた
「――やぁた」
びくりと跳ねるように立ち上がった八咫の切実な表情は、見てはいけないものだった。そんな気がした。
「なんだ。お前か。びっくりした」
溜息を吐きながら、八咫は再び丸太に腰を下ろす。
「――びっくりしたのはこっちだよ」
保食も一息吐くと、八咫の
「ちょっと、あんた酔ってんの?」
「あ? ああ、梅蘭がさっきな……」
「飲み過ぎるんじゃないわよ? あんたまだ餓鬼なんだから」
「お前だって大して変わらねぇだろうが」
小競り合いをする二人に、柔らかい微笑を水泥が向ける。
「――誰かの声と聞き間違えた?」
水泥の問いに、八咫は虚を突かれたような顔をして、それから決まりが悪そうに耳をほじった。
「……ああ。こんなに声が似てると思わんかった。びっくりした」
「誰よ? 家族?」
保食もやや酔っていたのか、小首を傾げて平素はしない軽々しい問いをした。八咫は幾度か瞬きをしてから、ふ、と瞼を閉じて、両掌を重ねると、それで自身の顔の正中線を隠した。
橙の炎光が揺れる中、その口元は薄く微笑んでいるように見えた。
「――いや、それ以上だ」
囁くような声は、八咫が思い浮かべる人物が、どれ程彼にとって大切なのかを如実に物語っていた。
「ふぅん……あんたにも一丁前にそんな相手がいたのね」
「そんなって、なんだよ」
「何って――懸想してんでしょ? その人に」
八咫は、ぱちくりと眼を丸くした。
「懸想――か、そうか。そうだな……そうだったのかも知れない」
「やだ、何あんた、今あたしに言われて初めて気付いたわけ?」
「そう、みたいだ」
水泥が、ふいと八咫に何かを差し出した。保食が目を向けると、そこにあったのは手拭いだった。それで、保食も気付いた。
「そんなに苦しそうな顔をしておいて、今まで誰にも指摘されなかったの?」
水泥の言葉と共に差し出された手拭いで、八咫は初めて、自分が落涙していた事を知った。
「はは――そっか、おれ、俺阿保みたいやな。やから、あんなに諦められんかったんや――」
八咫は水泥の手拭いを受け取ると、それで顔を覆った。
「あいたい」
「――うん」
「なんで……なんで俺、あの時手ぇ離してしもたんやろ」
「うん」
「ずっと一緒にいるって約束したんや。一緒に、
「――
水泥の問いに、八咫は頷いてから顔から手拭いを外した。眉間に深く皺を寄せていた。
「……俺は、寝棲の代わりに白玉の合祀を確かめた。その時だけだったんだ、参拝できたのは。その初めての、たった一回の参拝で、俺は自分が『色変わり』しない事を知った。それを伝えたら寝棲に言われた。もう二度と
保食と水泥は、顔を
「それ、その子もしかして」
「ああ、
「『色変わり』しないから、触れたら殺してしまうって……そこまでの物なの?」
「詳しくは――寝棲は聞いても答えてくれんかった。ただ、
「一緒にくるはずだったけど、できなかったんだよね」
「ああ」
「理由をきいても?」
八咫は、ゆっくりと息を吐き出してから、目を焚火に向けた。
「邑を出てすぐに、
保食は思わずひゅっと息を呑んだ。「――はくろうに、って」と我知らず声が漏れる。
「触れたら殺す事になるって言われて、俺が
「――ねえ、八咫」
水泥が静かな声で八咫に問いかける。
「ぼく、前から気になっていたんだけど、砦で君達から贄になってって言われた時に、君が当主に言った事がずっと引っかかってたんだ。あの時君、誰かを取り返す為ならなんだってやる。今度こそ、しくじりたくない、そういったんだよ」
「ああ。言った」
「つまり、ここにきてからぼくたちと知り合うまでの一年の間に、すでに動いていたんだね?」
暗い、暗い双眸に炎光が揺れた。
「――――そうだ」
――――――――――――――――――――――――――――――――――
作中に未成年の飲酒描写がございますが、これを推奨する意図は全くございません。というか、成年であっても過度の飲酒は絶対にするな。
酒には飲まれるな。
死んでも飲まれるな。
「人」を維持できないような飲食は絶対に許されないと心して生きて欲しい。
心から、頼みます。
大切に生きてください。
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