34 『発露』

 

 間もなく千鶴ちづるは茶を淹れて戻った。飾り気のない、小ぶりな青磁の茶碗である。茶托ちゃたくは黒檀。入れられたのは白茶だった。淡い味わいの上品な一煎である。

 自分の分も卓子におくと、千鶴は再び臥牀がしょうに座した。

 二人は――次の言葉を紡ぎ損ねた。今までは、牢の外から熊掌が語り掛け続けて、千鶴が応えを返さない、というのがこの二人のやり取りの全てであったから、今更どうすればよいのか分からなかったのだ。

 つい、と千鶴が窓の外へ目をやった。鉄の格子がはまってはいるが、その鉄も意匠を凝らした細工の凝ったものである。総じて美しく品のある空間であった。故に牢の鉄格子の異様さが際立つ。

「――えいしゅうは、今はどう?」

 千鶴の問いに熊掌は視線を向けた。口に付けていた茶碗を外し、口の中の物を嚥下えんげする。そしてそっと椀を茶托の上に戻した。

「以前もお伝えしましたが、白玉はくぎょくの事は皆に周知いたしました。父に代わり私が当代邑長を務め、叔父の南辰なんしんと弟の長鳴ながなきが、補佐として立ち回ってくれています。天照之あまてらすの八重やえおうという娘が次代の器を務める誓約をし、代わりに下がりの品の納品を免除頂いている状態です」

「そうね。見事な手腕。うまく交渉したわね――と言ってあげたいけれど、さんぽう合祀ごうしの危険さゆえに救われたわね。貴方達ではもう、危険すぎて方丈ほうじょうでは引き受けられない。ここはもう『真名』一つで限界だもの」

「――はい」

 千鶴が自身の頬にそっと指先をあてる。



「貴方ももう十分に肌身で分かっているでしょうけど、この帝壼宮に生きるというのは、地獄に自らその身を置く事と同義。五邑ごゆう月人つきびとの別なくね」



 熊掌は黙って再び茶を口にした。心なしか、苦い。

「私はあんな風に狂いたくなかったから、こうして『真名』からは距離を取らせてもらってきたけれど、やっぱり駄目ね、瑠璃からもだけど影響は受けてしまう。もちろんそこかしこを漂う空気からは逃げられるはずもない。息は吸うもの」

りょ千鶴せかがく様は、『真名まな』の特性についていつからご存知だったのですか?」

 千鶴は、ふふ、と笑った。

「――えいしゅうにいた頃からよ」

 熊掌は流石に面食らった。

「どうして……」

「私に与えられた布に刺していた文献の内容が、各邑のほうの名称とその特性だったのよ」

「あり得ない。あなたは識字は……」

食国おすくにに習ったの」

 噛んで含めるような言葉に、熊掌は肩から力が抜けた。合点が行った。熊掌ですら、あの文献に行き着いたのは災禍を経過して以降の事だ。

「偶然というものも重なるとそれは必然になるというのは本当ね。意味を正確に理解できたのは、ここにきてからだったけれど」

 千鶴の右手薬指が、茶碗の内側に浸される。ついと伸ばされたそれが、大理石の卓子に文字を書き連ねて行く。



  はち方丈ほうじょう、『真名まな四方津よもつ。『発露はつろ

  玉枝ぎょくし蓬莱ほうらい、『かんばせさい。『繁茂はんも

  かわごろも員嶠いんきょう、『御髪みぐし仙鸞せんらん。『必滅ひつめつ

  龍玉りゅうぎょくえいしゅう、『玉体ぎょくたい。『如意にょい

  かいたい輿、『子宮しきゅうりょ。『繁殖はんしょく



 熊掌は、その文字を静かに見つめる。もう自身も暗誦出来る程に記憶しているものだ。

 書き切った後、千鶴はついと視線を牢の外へ向けた。熊掌も視線だけそちらへやる。番の動きはない。そして、つい、と薬指で『発露』の文字を丸く囲む。

「これは、人を狂わせる」

「――はい」

「これをよくした者の内心に秘めた憎悪を増幅し、残虐性を暴き露呈する」

「ええ」

「それの――」

 と、続いて『真名』が丸く囲まれる。既に乾いて消えかけていた。

「力を持つ一寶いっぽうがこれなんて、皮肉ね」

 熊掌は言葉に出来なかった。千鶴は楽しそうに微笑むと、茶碗を持ち上げ、文字の上から杯に残った茶を零した。卓子は水浸しになる。端からぽたぽたと滴が流れ落ちてゆく。

 熊掌は視線を牢の外に向ける。

 番は――動かなかった。

「私は、白玉かのじょの名前を知らないわ。ここでは参拝をしたあいにいったことがないから。だから『真名それ』を知りたければ瑠璃に聞いてちょうだい」

「ええ。次に参内した時に教えてくださると約束していただきました」

「あら」

 千鶴は少し眼を丸くして、ふふ、と細めた。

「取り越し苦労だったみたいね。それともお節介というのがいいかしら。お伝えしなくてはなんて、柄にもなく思ってしまったのよ」

「いえ。感謝しております」

白玉かのじょは――その本当の名前を持つ人は……」

 千鶴は、ゆっくりと茶托に茶碗を戻した。水浸しの卓子を、そこに書き連ねられていた文字を見詰める。



「どれ程、誰の事を、どうしてそんなに憎悪したのかしらね」



 薬指の先が、水の中に落とされて戯れるようになぞられる。ひたひたと滴がまた床に落ちて行く。

 狂ってゆくのだ。誰もが。その焼けただれるような怒りに毒されて。

「千鶴様」

「なぁに?」

「今日、ここにお招きくださった理由をおうかがいしても?」

「ふふ。簡単な話よ。貴方にお願いがあったからよ」

「お願い、ですか」

 千鶴は、花がほころぶように微笑んだ。


「――もうそろそろ動く気でしょう?」


 熊掌は、暫時間をおいてから「はい」とうなずいた。千鶴はころころと笑う。瑠璃のように愛らしく。

 おすくには、この明るい笑い声を好んだのだろうかと、ふと思った。

「ねえ、らんりょう。私、貴方が女であろうと男であろうと、どちらでもよかったのよ」

 つ、と千鶴が立ち上がる。卓子の上に乗り出して、茶まみれになった手で熊掌の頬を撫でる。

おさの愛玩にちてどれだけなぶられても、どうせはらみはしないでしょう? 憎悪しかない男共の種に寄生されて命を吸い取られる地獄を十月十日。これを六度。六度よ? あなた想像できる? 最後の瑠璃の時には会陰が黄門まで裂けて道から便が漏れ出るまでになったのよ? どうしようもないから縫い合わせるしかなかった。それでようやくお役御免。――私の体の扱いなんて家畜同然だったわ」

 ぎり、と熊掌の頬に爪が立てられる。

 熊掌は黙って眼を閉じ、それを受け止めた。

「貴方が踏み込んだ地獄なんて、所詮浅瀬止まりなのよ」

「――そうですね」

「……反論、しないのね」

「その通りですから」

 千鶴は、ゆっくりと、再び臥牀がしょうに座した。

「八つ当たりね。無様だわ、私」

「いえ……」

「こんな狭い場所に閉じ込められて、あれこれと何人もの男の子を産まされて、『色変わり』する娘を産んだ役立たずとなじられて――」

 ふ、と笑う。嗤ったのだろう。

「挙句、貴方にその子供達を殺される」

 熊掌は膝の上で両拳を握った。

「いいわよ、構わないわ。いくらでも殺しなさい。どうせ全員ろくでもないのばかりだもの」

「千鶴様……」

「――でも、できたら瑠璃だけは逃がしてくれると、少しだけ浮かばれるわ」

 熊掌は静かに項垂れた。それを約束してやるとは言えなかった。

 それは、これから熊掌が手を掛けようとしている罪業を認めるという事でもあるからだ。

 牢の外で、身動ぎもしない番が、この話を聞いている。

 熊掌は茶碗の中を干した。苦い――苦い味がした。

「有難うございます。馳走ちそうになりました。この辺りでおいとまさせていただきます」

 熊掌が立ち上がると、千鶴はもう視線をこちらへは向けなかった。最初に彼女を見た通り、ただ自分の正面へ視線を向け、背筋を正している。

 ひた、としずくがまたいしどこに落ちた。

「そう? また顔を見せに来て下さると嬉しいわ」

「ええ。必ず参ります。どうか息災で」

 熊掌は千鶴へ拱手すると踵を返した。

 牢の扉は、結局開け放たれたままだった。

 熊掌は静かに歯噛みし、両の拳を固く握りしめた。爪が肌に食い込んだ。

 

 ――彼女は、瀛洲の産んだ悲劇そのものだ。


 自分の両肩に、また一つ重しが加わる。

 父上。父上。一体あなたはこの宮城の何処にいらっしゃるのですか? 私は、本当にこの道を進んでいて善いのでしょうか?

 瀛洲から外へ出て、方丈や宮中の事に触れれば、世界の真相にせまれるのではないかと思っていました。しかし違っていた。ここにきて私は尚更分からなくなってしまった。

 あのたった一夜に聞きかじっただけの事を全ての手がかりとして、こんな奈落の底を手探りで進む私は、

 あなたの目にはどう映るのでしょうか。

 どれ程滑稽で惨めに映るのでしょうか。

 教えてください。父上。

 牢の扉をぎぃと押し、廊下に出た。酷く生臭く湿気に満ちて冷えていた。

 そこで待ち受けていたもうの眼を見る気にはなれなかった。


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