34 『発露』
間もなく
自分の分も卓子におくと、千鶴は再び
二人は――次の言葉を紡ぎ損ねた。今までは、牢の外から熊掌が語り掛け続けて、千鶴が応えを返さない、というのがこの二人のやり取りの全てであったから、今更どうすればよいのか分からなかったのだ。
つい、と千鶴が窓の外へ目をやった。鉄の格子が
「――
千鶴の問いに熊掌は視線を向けた。口に付けていた茶碗を外し、口の中の物を
「以前もお伝えしましたが、
「そうね。見事な手腕。うまく交渉したわね――と言ってあげたいけれど、
「――はい」
千鶴が自身の頬にそっと指先をあてる。
「貴方ももう十分に肌身で分かっているでしょうけど、この帝壼宮に生きるというのは、地獄に自らその身を置く事と同義。
熊掌は黙って再び茶を口にした。心なしか、苦い。
「私はあんな風に狂いたくなかったから、こうして『真名』からは距離を取らせてもらってきたけれど、やっぱり駄目ね、瑠璃からもだけど影響は受けてしまう。もちろんそこかしこを漂う空気からは逃げられるはずもない。息は吸うもの」
「
千鶴は、ふふ、と笑った。
「――
熊掌は流石に面食らった。
「どうして……」
「私に与えられた布に刺していた文献の内容が、各邑の
「あり得ない。あなたは識字は……」
「
噛んで含めるような言葉に、熊掌は肩から力が抜けた。合点が行った。熊掌ですら、あの文献に行き着いたのは災禍を経過して以降の事だ。
「偶然というものも重なるとそれは必然になるというのは本当ね。意味を正確に理解できたのは、ここにきてからだったけれど」
千鶴の右手薬指が、茶碗の内側に浸される。ついと伸ばされたそれが、大理石の卓子に文字を書き連ねて行く。
熊掌は、その文字を静かに見つめる。もう自身も暗誦出来る程に記憶しているものだ。
書き切った後、千鶴はついと視線を牢の外へ向けた。熊掌も視線だけそちらへやる。番の動きはない。そして、つい、と薬指で『発露』の文字を丸く囲む。
「これは、人を狂わせる」
「――はい」
「これを
「ええ」
「それの――」
と、続いて『真名』が丸く囲まれる。既に乾いて消えかけていた。
「力を持つ
熊掌は言葉に出来なかった。千鶴は楽しそうに微笑むと、茶碗を持ち上げ、文字の上から杯に残った茶を零した。卓子は水浸しになる。端からぽたぽたと滴が流れ落ちてゆく。
熊掌は視線を牢の外に向ける。
番は――動かなかった。
「私は、
「ええ。次に参内した時に教えてくださると約束していただきました」
「あら」
千鶴は少し眼を丸くして、ふふ、と細めた。
「取り越し苦労だったみたいね。それともお節介というのがいいかしら。お伝えしなくてはなんて、柄にもなく思ってしまったのよ」
「いえ。感謝しております」
「
千鶴は、ゆっくりと茶托に茶碗を戻した。水浸しの卓子を、そこに書き連ねられていた文字を見詰める。
「どれ程、誰の事を、どうしてそんなに憎悪したのかしらね」
薬指の先が、水の中に落とされて戯れるようになぞられる。ひたひたと滴がまた床に落ちて行く。
狂ってゆくのだ。誰もが。その焼け
「千鶴様」
「なぁに?」
「今日、ここにお招きくださった理由をお
「ふふ。簡単な話よ。貴方にお願いがあったからよ」
「お願い、ですか」
千鶴は、花が
「――もうそろそろ動く気でしょう?」
熊掌は、暫時間をおいてから「はい」と
「ねえ、
つ、と千鶴が立ち上がる。卓子の上に乗り出して、茶まみれになった手で熊掌の頬を撫でる。
「
ぎり、と熊掌の頬に爪が立てられる。
熊掌は黙って眼を閉じ、それを受け止めた。
「貴方が踏み込んだ地獄なんて、所詮浅瀬止まりなのよ」
「――そうですね」
「……反論、しないのね」
「その通りですから」
千鶴は、ゆっくりと、再び
「八つ当たりね。無様だわ、私」
「いえ……」
「こんな狭い場所に閉じ込められて、あれこれと何人もの男の子を産まされて、『色変わり』する娘を産んだ役立たずと
ふ、と笑う。嗤ったのだろう。
「挙句、貴方にその子供達を殺される」
熊掌は膝の上で両拳を握った。
「いいわよ、構わないわ。いくらでも殺しなさい。どうせ全員
「千鶴様……」
「――でも、できたら瑠璃だけは逃がしてくれると、少しだけ浮かばれるわ」
熊掌は静かに項垂れた。それを約束してやるとは言えなかった。
それは、これから熊掌が手を掛けようとしている罪業を認めるという事でもあるからだ。
牢の外で、身動ぎもしない番が、この話を聞いている。
熊掌は茶碗の中を干した。苦い――苦い味がした。
「有難うございます。
熊掌が立ち上がると、千鶴はもう視線をこちらへは向けなかった。最初に彼女を見た通り、ただ自分の正面へ視線を向け、背筋を正している。
ひた、と
「そう? また顔を見せに来て下さると嬉しいわ」
「ええ。必ず参ります。どうか息災で」
熊掌は千鶴へ拱手すると踵を返した。
牢の扉は、結局開け放たれたままだった。
熊掌は静かに歯噛みし、両の拳を固く握りしめた。爪が肌に食い込んだ。
――彼女は、瀛洲の産んだ悲劇そのものだ。
自分の両肩に、また一つ重しが加わる。
父上。父上。一体あなたはこの宮城の何処にいらっしゃるのですか? 私は、本当にこの道を進んでいて善いのでしょうか?
瀛洲から外へ出て、方丈や宮中の事に触れれば、世界の真相に
あのたった一夜に聞きかじっただけの事を全ての手がかりとして、こんな奈落の底を手探りで進む私は、
あなたの目にはどう映るのでしょうか。
どれ程滑稽で惨めに映るのでしょうか。
教えてください。父上。
牢の扉をぎぃと押し、廊下に出た。酷く生臭く湿気に満ちて冷えていた。
そこで待ち受けていた
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