33 侶千鶴



 きびすを返し、入り口をいったん出る。

 後からついてきたもうに、ゆうは小声でつぶやいた。

「――さすがに貴殿には『真名まな』の確認は頼めそうにないからな」

「ご寛恕かんじょください。下手へたに近付こうものなら死んでしまいます」

「分かっている」

 回廊を再び渡る。今度は屋根の下の廊下へと続く進路だ。光が差さぬ、暗いずいどうの中を進んでいるような廊下だ。

 じっとりとした冷たい湿気が全身にまとわりついてくるような気さえする。


 重苦しい。何もかもが。


 この回廊を渡った回数はもう覚えていない。そしてこの先に待つ女性とまともに言葉を交わせた事もない。どれ程語り掛けようと、彼女からいらえは返らないのだ。そんな事は分かっている。それでも熊掌は、方丈へ来るたびに必ず彼女の下へ向かった。そうせずにはいられなかった。

 この訪問を投げ出せる理由など、何処にもない。

 半ばから、突如として建築の様相が変わる。

 石造りの床、壁、天井。湿気にまみれ底冷えした空気。小さなあな穿うがたれただけの窓。隧道は果てしなく続くように思われた。しこうして、突如熊掌の歩みが停まる。

 廊下の右側に、牢の鉄格子がうつる。

 一呼吸おいてから、熊掌は鉄格子の前へと至った。

 中の調度は予想に反して豪奢であった。きらびやかと表現しても差し障りはない。しかしそれは、牢獄の内にある風景なのだ。

 卓子の近くに添えられた臥牀がしょうに、一人の女性が腰を下ろしている。こちらからは、彼女が真っ直ぐに前を向いて背筋を伸ばしている横顔しか見えない。

らんりょうまかしました」

 拱手する熊掌に、牢獄の女はただ一言。


「そう」


 とだけつぶやいた。

 方丈の奥方――といっても、彼女は特定の男の妻ではない。方丈は男の人数に比べて女の数が極端に少ない。かつ『色変わり』しない女は特に有用され、なおかつ多くは『共有』される。数が少ないからである。

 この女を他邑たゆうに求める事を『妻問つまどい』という。そして目の前のこの女は、嵐大らんだい州の員嶠いんきょうより夫から引きがされて、ここに連れてこられた。およそ三十年近く前の事である。



「御無沙汰いたしております。りょ千鶴せんがく様」



 千鶴ちづるは、ゆっくりと熊掌の方へと首を巡らせた。暗がりに浮き上がる程青白い肌、柳眉りゅうびに切れ長のまなじり、すっと通った鼻梁の下には、艶めかしく赤い唇がれていた。小首を傾げて、ゆっくりとその口元を笑ませる。

「息災のようね、蘇藍龍」

 熊掌は無意識の内に、唇の内側を噛み締める。

 侶千鶴の出身はえいしゅうたい輿の邑長であった侶の血を引く女である。

 ――そして、かつて食国おすくにの親しくしていた友であり、三邑に渡ってその半生を翻弄ほんろうされた女である。


          *


 千鶴ちづるが囚われている牢のすぐ傍には常駐の黄師こうしが二名いる。これは彼女が方丈ほうじょうへ運ばれてきてから変わらぬ光景であるらしい。

 こちらへ笑みを浮かべていた千鶴が、ふいと真顔に戻り、再び正面へと顔を向ける。と。

「あなた、お茶でもいかが」

 思いも寄らぬ誘いに、熊掌は面食らった。思わず目だけでもうの顔を見るが、彼はやはり表情を変えない。傍に黄師がいるのだから当然か。次いで黄師の牢番の方へと視線を向けた。近くにいた方の番がこくりと頷く。

「構いませんよ。我々は護衛の任に当たっているだけですから。鍵もかかっておりませんのでご自由にお入りください」

 そう言われて、熊掌ははじめてその事実を知った。もう何年もここへ通ってきていたというのに、こんな重要な事を知らなかったなんてと熊掌は自分の観察眼の浅さに一瞬恥じ入ったが、直ぐに気を取り直した。

 万一これがはかりごとで、のこのこと中に入った挙句牢の中に捕らわれるような事になっても、傍には李毛がいる。最悪帰還が長引けば邑のものが怪しんで確認してくるだろう。

 瞬時にそれだけの判断をして、熊掌は牢の扉に手を掛けた。

 ぎぃ、とやや重い音がした。

 内へ身を滑り込ませる。念のための用心として扉は開けたままにしておいたが、特段とがめられる事はなかった。本当にただ護衛に当たっているだけだというのか。これも話半ばに聞いておくことにする。女虜囚一人が逃亡を企てようと、二人も兵が居れば力尽くで捕らえる事も造作ないだろう。

 熊掌が千鶴と卓子を挟んで対面の椅子に座すと、丁度視線が噛み合った。千鶴は、真っすぐな目で一頻ひとしきり熊掌の姿をその眼に映してから、ゆっくりとその肩の力を抜いた。

「お父上に似てきたわね」

「――そうでしょうか」

「ええ。若い頃の彼と貴方、驚くほどそっくりよ。造作が、というより表情が似ているというのかしらね」

「……あなたも、瑠璃るり姫とよく似ていらっしゃる」

「そうね」

 千鶴はゆっくりと笑った。瑠璃は千鶴の娘である。

 熊掌は千鶴の様を見た。美しい女だと思う。頭髪には白い物が混じっていたし、目元には薄く皺が刻まれ、疲れと無関心が染み付いていたが、それでも、そもそもの容色がすぐれているのは隠せないものだ。


 熊掌の知る限り、五邑全体に人生を振り回された最たる女性だと思う。


 方丈に『妻問い』された後、千鶴は子供を全部で六人産んだと聞く。五人が夫々それぞれ父親の違う男児で、その内の一人を兄として瑠璃が生まれている。そこで身体に限界が来たため、以降子は産まされていない。瑠璃は彼女の末娘であり、唯一の娘に当たるのだ。

「そうね、瑠璃だけね。良くも悪くもここで自分の血縁を感じられるのは。他のはいやになるくらい父親にばかり似たわね。姿形も性根も、何もかも。本当に、厭になるわ」

 千鶴はそこで「ああ、お茶だったわね」と立ち上がると、部屋の片隅に置かれた炉で湯を沸かし始めた。手慣れた仕草だ。

「あなたも、息子達とは頻繁に顔を合わせているのでしょう?」

「――はい」

「厭な人間でしょう? あの子達」

 熊掌は、瑠璃の言葉とはまた別の意味で言葉に詰まった。

 自分と母も親しく関わり合った仲とは言い難いが、これ程までも当然かの如く実子を悪し様に母親が言えるものだろうか。いや、無論全ての親子が望ましい関係を結んでいるのが普通であるなどとお気楽な事を言う気は毛頭ないし、見知った中でもいさかいの絶えぬ家庭などいくらでもある。

 しかしやはり、いたたまれなかった。

 それが例え本当にくずとしか言いようがない男共の事であったとしても、だ。

 彼女の方が母よりやや年長だとは言え、同じような世代である事は変わらない。その事実が、なおさら熊掌の心をざわめかせる。

 妄想だとは分かっているが、自分も母に同じように思われているのではないかと考えてしまう。お前のせいでと思われているかも知れない。不甲斐ないと侮蔑されているかも知れない。そんな恐れと憂慮がどうしても――ぬぐえない。

 熊掌が言葉を紡げずに困惑していると、千鶴はころころと笑った。笑い声もまた瑠璃に似ていた。

「いいのよ、気を使わなくとも。あなたがあの子達にもどんな無体を働かれてきたのか、私ですら聞き及んでいます」

「――それは誰から」

 千鶴がちらと視線を寄越して、口元を笑ませた。

「私の所へ訪ねて来られる子供なんて、もう瑠璃くらいしかいないでしょう?」

 つまり、瑠璃は熊掌が方丈で彼等にどんな扱いを受けてきたか把握しているという事だ。のほほんとして見せて抜かりも抜け目もない。恐ろしい話だ。兄共より余程恐ろしい。


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