32 瑠璃姫


          *


 回廊を渡って邸の入り口をくぐろうとした矢先に、背後から人の気配を感じた。振り返れば、先のきざはしを渡り来る少女の姿がある。

瑠璃るり姫」

 熊掌が呼ばわると、少女は顔を上げ「ああ」と微笑んだ。

 肩の上で切り揃えられた黒髪。手には、その彼女の髪を縫い付けたのであろう『色変わり』をした布が抱きかかえられている。

らんりょう様」

 屈託も鬱屈もない、美しい笑顔を少女は浮かべている。その一々の所作も、宮中に住まうのに相応しい優美さだ。

 己とはまるで違う。

 ゆっくりと余裕のある足取りで瑠璃は熊掌のかたわらへと至った。背の低い華奢な少女だ。その体格だけならば、汐埜しおのに少し似ている。

「参拝ですか?」

 熊掌の問いかけに華やかに微笑みながらうなずく。


「わたしがあに様や猊下げいかの為にお役に立てることなんて、これくらいしかありませんからね」


 瑠璃がいう兄様、というのは芙人ふひとのことだ。猊下は無論じょえんを指す。

 この娘は宮城内で生まれ育ち、その外部に身をさらした事がない。統治のいただきの間近にはべり、権勢の栄耀栄華のおこぼれによくした暮らししか知らない。当然翻意ほんいは起こりにくかろう。彼女の内に、姮娥こうがに対する敵意は身受けられない。環境が人にもたらす影響の重さを熊掌は改めて思い知らされる。そして、己とのあまりの違いに背筋が凍る。


 今の自分も十二分に地獄の底に生きているだろうが、彼女に成り代わるくらいならば死んだ方がしだと心から思う。

 

 そんな熊掌の思いなどいざ知らず、そのかたわらに立ちながら、瑠璃はくすりとおかしそうに笑った。

「どうかしましたか?」

「藍龍様ったら、急がれたでしょう?」

「と、言いますと?」

「湯殿から出られるときに、鏡をきちんとご覧にならなかったのではなくて?」

 湯殿から出て来たばかりだ、という事にこの聡い娘は気付いている。それが何を意味するのかも当然知られている。その事にさしもの熊掌も多少はまずさを覚えた。

「どこかおかしかったですか?」

「ほら、こっち」

 瑠璃が熊掌の袖を引く。思わずもうに視線を送るが、もう表情すら変えない。仰ぎ見る程、おのが職務に徹している。どこにも隙がない。熊掌の不遇をして助けるべきだったと思うなら今にしてくれ。

 瑠璃に手を引かれて建物の内に連れられる。導かれたのは起居室ききょしつの窓際に置かれた箪笥たんすの前だった。上には鏡が置かれている。

「ご覧になって」

 くすくすと笑う瑠璃に従い、見遣みやった熊掌は「ん」と思わず声に出していた。それに瑠璃が更に笑う。


「髪を結いあげたの、兄様でしょう? その時ね。とってもかわいらしいわ」


 やられた……! 熊掌は眉間に皺を寄せた。思わず李毛の顔をめつけたが、彼はそしらぬ顔で視線をよける。見て知っていたはずなのに何も言わなかったのだ、この男は。畜生め。何が「済まない」だ。

 そう言えば、と今更思い出す。芙人から髪結いが済んだと言われて鏡の前から立ち上がった後に、乱れがあるから少し待てと髪に触れられたのだ。あの時か。くそう。

 高く結い上げられた熊掌の髪には、かんざしが一本刺さっていた。象牙を彫ったと思しき、白く肉厚な五弁の花の中央に、琥珀を使った花蕊かずいがあしらわれている。花の数は五つかそこらだが、精密な作りの銀簪だった。


 芙人が手ずから熊掌の髪を結い上げるのには理由がある。


 熊掌の髪は、香油によってつややかにまとめ上げられている。この香油を使用する権利が認められ、かつそれに触れていいのは三人に限られた。


 青い柑橘の香り。これは禁香なのである。


 一人はだい璞蘭ぼくらん。今一人が四方津よもつ芙人ふひと。そして、最後の一人が……。

 熊掌はそっと簪に触れた。たちばなの花だと想像がついた。

 禁香を使ってよい者は限られる。その許可を得た人物がそれを他者にまとわせる。その事が示す意味は明白だ。


 すなわち、専有の主張である。


 瑠璃が笑ったのは、そういう事なのだ。

「本当に、困った兄様ね」

 瑠璃が手の中の布をたたもうとしているのに気付き、熊掌はそっとそれを受け取った。一度目の前で広げて、畳み、箪笥の中に仕舞いこんだ。

 やはり、色は完全に白く変わっていた。

「ねえ、藍龍様、ひどいと思わない? 兄様、まだわたしを奥方にはしてくださらないというのよ?」

 ころころと鈴を転がしたようにそう言って笑う瑠璃に、熊掌はざわりと薄ら寒いものを感じる。

「このままじゃ、わたしおばあちゃんになってしまうわ。もうずうっと小さい頃から兄様にお願いしているのに、全然聞いて下さらないんだもの」

 あ、と何かに気付いたように瑠璃が熊掌の手元に目をやる。思わず左手の手首を隠した。

「やっぱり、そうなのかしら、兄様、衆道じゃないと駄目な方なのかしら。だからわたしでは見向きもして下さらないのかしら?」

 瑠璃の言葉に何も返せずにいると、瑠璃はすそを引きずりながら卓子の近くに添えられた臥牀がしょうに近寄り、やおら腰を落ち着けた。

 そして熊掌を見上げてゆっくりと微笑む。

「藍龍様からも、兄様にお声がけ下さらない? 兄様も藍龍様を見習って早くお子を設けないといけませんって。そうそう、藍龍様のお子様は、今年お幾つでいらしたかしら? 確か、しのさんとおっしゃったわよね?」

「――はい。今年で七つになります」

「随分と大きくなられたのでしょうねぇ。奥様は産でまかられたのでしょう? 後添えはいただかないの?」

「――残念ながら、その予定はありませんね」

「そうなの。――ところで、しのさんは――」

 声色が一気に変わる。低く重い声。ぎら、と、瑠璃のまなこの底で重く鈍い光がねたように見えた。



「『色変わり』は?」



 ざわりと、戦慄する。

 熊掌は、目の前にいる少女を得体の知れぬ魔物のように感じた。今に限った話ではない。そして彼女一人に限った事でもない。この方丈ほうじょうの者は皆こうなのだ。先程までの屈託のないほがらかな少女はもうない。突如としてこういった暗がりを露呈させる。発するのだ。

 熊掌は小さく息を吸い込み、にこりと笑んだ。

「まだ参拝をさせていないんですよ」

 と、瑠璃がぱちくりと眼をしばたたいた。

「え、でも、えいしゅうでも初参りは五歳でなさるんですよね?」

「はい。しかし八重やえおうの器の誓約を果たしておりますので、猊下からは他の者は、期間は限りますが、目溢めこぼしをいただいているのですよ」

「あらあら、本当にえいしゅうは特別に可愛がられているのね」

 瑠璃の表情と声音が、それとなく元に戻る。

 熊掌は心ひそかに溜息をく。

 本当に、この娘といると心の臓がもたない。

 と、急に瑠璃がその両掌をぱん、と合わせた。

「ああ、いけない。藍龍様、何か御用事があったのではなくて?」

「ああ、ええ。今日えいしゅうへ向けて発ちますので、瑠璃姫と奥方様においとまの御挨拶をと」

「あらあら、そうでしたの。今日でいらしたのね。また淋しくなるわ」

 瑠璃は立ち上がると、丁寧な礼をとった。

「わざわざありがとうございました。お気をつけて。次のお越しをお待ちいたしております」

「ありがとうございます」

 拱手をとって礼をする。そのうつむけた顔の影で、熊掌は、ちらと箪笥を盗み見た。

 その引き出しの中には、瑠璃がその腕に抱えていた布がある。さっき仕舞い込んだのは他でもない熊掌自身だ。

 わざわざ彼女に代わり布を畳んだのは、今一度その内容を目に焼き付けておきたかったからに相違ない。これこそ正に、方丈に伝わる文献なのだが、熊掌はこの恐るべき絡繰りに気付いた時、密かに愕然とした。



 ――これでは、誰にも読めぬはずだ。



 方丈が帝壼宮ていこんきゅうに召し上げられながらも、その内部で決して反旗をひるがえす者が出なかった理由。方丈にのみこの内容が伝わっていたのに、五百年もの長きに渡って明らかにされる事がなかった。これはもう間違いない。

 異地いちの者の策略に他ならない。

 方丈に伝わる文献には、白文もひらがなもカタカナも使われていない。これは全く別の文字だ。誰にも読み方が伝わっていないものだ。誰にも読めなかったのだ。


 そして、熊掌にだけはその内容が理解できる。


 無論、熊掌自身この文字を習い得た経験はない。しかし分かるのだ。解読できるのだ。その理由を説明する事は出来ない。何故読めるのかは熊掌自身にも分からないのだ。

 近く、これを紐解かねばならない。

 長くそう思いながらも実行に移しきれぬまま手をこまねいてきたが、ついに、李毛というありがたい助け手を得た。次にここへ来る時には、必ずその全てをこの眼に焼き付けようと心に誓った。そして、熊掌には確認しなくてはならない事がもう一つある。

「姫」

「なんでしょう」

「私は、こちらにお世話になってもうずいぶんちますが、未だに『真名まな』と面会した事がございません。これからも恐らくないでしょう。姫から見た『真名』の白玉はくぎょくは、一体どういったご様子なのですか?」

「とおっしゃいますと?」

えいしゅうにはさんぽう合祀ごうしの白玉があります。蓬莱ほうらいにはいっぽうの『かんばせ』。つまりこれで五体は満足にそろっているのです。『真名』に該当しそうな肉体というものが、私には皆目見当がつかないのですよ。なにより、『真名』には方丈の方以外は近付けない決まりになっている。でもどうしても気になってしまって」

 瑠璃は、「ふふ」、と声に出して笑った。

「藍龍様、ずいぶんと形にこだわられるのねぇ」

「――ええ。お恥ずかしながら」

「形あるもの、形なきもの、何が神の本質であるのか、そこを少しだけご想像遊ばせ。あ、内緒にするなんて意地悪は致しませんわ。次にいらっしゃった時に教えて差し上げます。だからこれはわたしからの宿題。せいぜいお悩み遊ばして」

 稚気ちきを見せて笑う瑠璃に、熊掌は溜息のような笑みをこぼすと、「わかりました。必ず次の時に。お約束ですよ」と今度こそ軽く会釈をして起居室を後にした。



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