32 瑠璃姫
*
回廊を渡って邸の入り口を
「
熊掌が呼ばわると、少女は顔を上げ「ああ」と微笑んだ。
肩の上で切り揃えられた黒髪。手には、その彼女の髪を縫い付けたのであろう『色変わり』をした布が抱きかかえられている。
「
屈託も鬱屈もない、美しい笑顔を少女は浮かべている。その一々の所作も、宮中に住まうのに相応しい優美さだ。
己とはまるで違う。
ゆっくりと余裕のある足取りで瑠璃は熊掌の
「参拝ですか?」
熊掌の問いかけに華やかに微笑みながら
「わたしが
瑠璃がいう兄様、というのは
この娘は宮城内で生まれ育ち、その外部に身を
今の自分も十二分に地獄の底に生きているだろうが、彼女に成り代わるくらいならば死んだ方が
そんな熊掌の思いなどいざ知らず、その
「どうかしましたか?」
「藍龍様ったら、急がれたでしょう?」
「と、言いますと?」
「湯殿から出られるときに、鏡をきちんとご覧にならなかったのではなくて?」
湯殿から出て来たばかりだ、という事にこの聡い娘は気付いている。それが何を意味するのかも当然知られている。その事にさしもの熊掌も多少は
「どこかおかしかったですか?」
「ほら、こっち」
瑠璃が熊掌の袖を引く。思わず
瑠璃に手を引かれて建物の内に連れられる。導かれたのは
「ご覧になって」
くすくすと笑う瑠璃に従い、
「髪を結いあげたの、兄様でしょう? その時ね。とってもかわいらしいわ」
やられた……! 熊掌は眉間に皺を寄せた。思わず李毛の顔を
そう言えば、と今更思い出す。芙人から髪結いが済んだと言われて鏡の前から立ち上がった後に、乱れがあるから少し待てと髪に触れられたのだ。あの時か。くそう。
高く結い上げられた熊掌の髪には、
芙人が手ずから熊掌の髪を結い上げるのには理由がある。
熊掌の髪は、香油によって
青い柑橘の香り。これは禁香なのである。
一人は
熊掌はそっと簪に触れた。
禁香を使ってよい者は限られる。その許可を得た人物がそれを他者に
瑠璃が笑ったのは、そういう事なのだ。
「本当に、困った兄様ね」
瑠璃が手の中の布を
やはり、色は完全に白く変わっていた。
「ねえ、藍龍様、
ころころと鈴を転がしたようにそう言って笑う瑠璃に、熊掌はざわりと薄ら寒いものを感じる。
「このままじゃ、わたしおばあちゃんになってしまうわ。もうずうっと小さい頃から兄様にお願いしているのに、全然聞いて下さらないんだもの」
あ、と何かに気付いたように瑠璃が熊掌の手元に目をやる。思わず左手の手首を隠した。
「やっぱり、そうなのかしら、兄様、衆道じゃないと駄目な方なのかしら。だからわたしでは見向きもして下さらないのかしら?」
瑠璃の言葉に何も返せずにいると、瑠璃は
そして熊掌を見上げてゆっくりと微笑む。
「藍龍様からも、兄様にお声がけ下さらない? 兄様も藍龍様を見習って早くお子を設けないといけませんって。そうそう、藍龍様のお子様は、今年お幾つでいらしたかしら? 確か、しのさんとおっしゃったわよね?」
「――はい。今年で七つになります」
「随分と大きくなられたのでしょうねぇ。奥様は産で
「――残念ながら、その予定はありませんね」
「そうなの。――ところで、しのさんは――」
声色が一気に変わる。低く重い声。ぎら、と、瑠璃の
「『色変わり』は?」
ざわりと、戦慄する。
熊掌は、目の前にいる少女を得体の知れぬ魔物のように感じた。今に限った話ではない。そして彼女一人に限った事でもない。この
熊掌は小さく息を吸い込み、にこりと笑んだ。
「まだ参拝をさせていないんですよ」
と、瑠璃がぱちくりと眼をしばたたいた。
「え、でも、
「はい。しかし
「あらあら、本当に
瑠璃の表情と声音が、それとなく元に戻る。
熊掌は心ひそかに溜息を
本当に、この娘といると心の臓がもたない。
と、急に瑠璃がその両掌をぱん、と合わせた。
「ああ、いけない。藍龍様、何か御用事があったのではなくて?」
「ああ、ええ。今日
「あらあら、そうでしたの。今日でいらしたのね。また淋しくなるわ」
瑠璃は立ち上がると、丁寧な礼をとった。
「わざわざありがとうございました。お気をつけて。次のお越しをお待ちいたしております」
「ありがとうございます」
拱手をとって礼をする。その
その引き出しの中には、瑠璃がその腕に抱えていた布がある。さっき仕舞い込んだのは他でもない熊掌自身だ。
わざわざ彼女に代わり布を畳んだのは、今一度その内容を目に焼き付けておきたかったからに相違ない。これこそ正に、方丈に伝わる文献なのだが、熊掌はこの恐るべき絡繰りに気付いた時、密かに愕然とした。
――これでは、誰にも読めぬはずだ。
方丈が
方丈に伝わる文献には、白文もひらがなもカタカナも使われていない。これは全く別の文字だ。誰にも読み方が伝わっていないものだ。誰にも読めなかったのだ。
そして、熊掌にだけはその内容が理解できる。
無論、熊掌自身この文字を習い得た経験はない。しかし分かるのだ。解読できるのだ。その理由を説明する事は出来ない。何故読めるのかは熊掌自身にも分からないのだ。
近く、これを紐解かねばならない。
長くそう思いながらも実行に移しきれぬまま手を
「姫」
「なんでしょう」
「私は、こちらにお世話になってもうずいぶん
「と
「
瑠璃は、「ふふ」、と声に出して笑った。
「藍龍様、ずいぶんと形に
「――ええ。お恥ずかしながら」
「形あるもの、形なきもの、何が神の本質であるのか、そこを少しだけご想像遊ばせ。あ、内緒にするなんて意地悪は致しませんわ。次にいらっしゃった時に教えて差し上げます。だからこれはわたしからの宿題。せいぜいお悩み遊ばして」
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