31 臨赤



 ゆうの口からその言葉が出たとたん、もうが半歩後退あとずさり腰に手をやる。無意識だったのだろう。自身のその動作に慌てたのは李毛のほうだった。しかし、剣を求めたその動作に、熊掌が動じる事はなかった。ただ只管ひたすらに、真剣な眼差しを李毛へと向ける。


 正しくここが正念場だと理解していたからだ。


「李毛。大丈夫だ。聞いてほしい」

「――らんりょう、なぜ貴殿がその名を知っている」

 熊掌の内に、黒い喜びがき上がる。

 これは何の僥倖ぎょうこうか。これが、この男が臨赤りんしゃくだとは。

「李毛。君に聞きたい事がある」

「――なんだろうか」

 我知らず、熊掌の口元に厭な笑みが浮かぶ。それを止められない。掌握の愉悦が虚飾に勝るとはこの事か。



「――君は、ビ・シエンという男の名を知っているね?」



 李毛が更に一歩後ずさる。

「何故――何故らんりょう、貴殿が、猊下の名を……」

 ふっ、と思わず吐息が漏れた。笑いが止められない。嗤いかも知れない。全身が狂気じみた歓喜で震える。

 一頻ひとしきり笑ってから、熊掌は久方ぶりに晴れやかな表情を浮かべる事ができた。心からの笑顔だった。それでか。予感があったのだろう。それで。


 あんなに懐かしい事を思い出したのか。


「安心してくれていい。彼とはこの生がついえる瞬間まで一蓮托生の仲だ」

「貴殿と猊下がか……?」

 いぶかしむ李毛の眼差しに、熊掌は真っ直ぐな目を向ける。

「ああ。そう盟約している。私は、君達月の民に危害は及ぼさない。これ以上の害とならぬ為に、この命を捧げる事を誓う」

 熊掌はあえて――臨赤の礼をとって見せた。



「必ずやせきぎょくを取り戻すための一助として働こう」



 それは真実の主幹ではない。しかし紛れもなくその枝ではある。自分達の本懐を達すれば、自ずとしてそれも必ずついてくる類の物だ。

 ふわりと柔らかく笑むと、熊掌は李毛の肩に手を置いた。

「残念だが、此度こたびは時間が足りない。次に参内したあかつきにはぜひ時間をとって話そう」

 李毛は――その眼に光を宿して、小さく頷いた。それから、再び小さな逡巡を見せてから口を開いた。

「その、蘇藍龍」

「どうした」

 李毛は口籠りながら、わずかにうつむいた。

「こんな時だから、という訳ではないが……本心から、済まなかったと、そう思っている」

「――何がだ?」



「――方丈ほうじょうのとの事を、知りながら看過してきた」



 思いがけない言葉に、後ろから背中を蹴られたような衝撃を覚える。

「何を……言う。あんたには関係がない事だ。それは、むし五邑ごゆうが勝手に問題を起こしている事であって、あんたには迷惑をかけたばかりだろうが」

 言葉が素に戻っている事に気付いてはいたが、止められなかった。わずかに手が震える事を止められない。左手を拳にすると右手でその手首を握りしめた。李毛は気付いてか気付かないでか、頸を横に振った。

「やろうと思えばいくらでも盾になってやれた。なのに、そうしなかった。あれは、護衛としても怠慢だったと、思う。――私達にはその違いが感覚的によく理解できていないのかも知れないが、五邑は、性の別が明白なのだろう?」

「――ああ。そうだな」

 李毛には与り知らぬ事とはいえ、えぐるようなその言葉に、熊掌はぎり、と歯噛みした。

「蘇藍龍。……我々は、臨赤りんしゃくは、もう白玉はくぎょくの器たりうる五邑ごゆうの女を増やし続ける事に主眼をおいていない。寧ろ白玉の終焉を望む以上、それはどうでも良い事なんだ。だから――だからこそ済まない」

 眉間に深い皺を刻み、李毛は頭を深く下げた。



「貴殿が女性である可能性も考慮しながら、見ないふりをした」



 どこかで、鳥がさえずっている。とても遠くでだ。

 恐らくは果ての果樹園でだろう。つまり、そこからの音が聞こえるほどに、今この場には刺さる程の沈黙が満ちているという事だ。

 李毛は、ぐっと拳を握りしめた。

 浴びせかけられる非難と憎悪を覚悟していた。

 だが、予想した罵倒は何時まで待っても李毛の元へ訪れる事はなかった。


「――李毛」


 代わりに李毛の鼓膜を揺らしたのは、そんな穏やかな熊掌の声だった。

「李毛、顔を上げてくれないか」

 しかし、沈黙は引き続き静かに満ちる。熊掌は待った。上がらない頭が上がるのを待った。ややあって、ようやく李毛が顔を上げた。おびえと断罪を待つような眼をしていたが、その眼が捕らえた熊掌の表情は、憎悪ではなかった。


 熊掌はゆっくりと微笑んでいた。


「蘇藍龍……」

「あんたは、馬鹿だな」

「え」

「馬鹿でお人好しだ」

 熊掌は切なそうに――笑った。

「余計な取り越し苦労だと言ったんだ。忘れたのか? それとも話が禁軍の間では行き渡っていないのか?」

「取り越し苦労、か」

「私が実は女であるのに男だとたばかっていないか。――そんなものは一番始めに疑われた事だ。何せこの容姿だからな。だが、その真偽に対する疑いは既に晴れているはずだ」

「というと」

えいしゅう帝壼ていこんきゅう間の往復と、その滞在期間。これに三月みつきに近い時間をかければ自ずと判断は付くものだろう? ――あれは、その期間の内に経血がこないかを確認していたのじゃないのか?」

 李毛は――知らずに力を込めていた拳を解いた。

「――そう、だな」

「だから取り越し苦労だと言ったんだ。心配せずとも僕は女ではないよ。だから――だからどれだけ甚振いたぶられようが懐妊の難もない。だから、あんなものは――もない暴力だ」

「蘇藍龍……」

「暴力には、それ相応のものでむくいるよ。ちゃんと僕自身の手でやる。だから君は――」

 空を、一羽の鳥が横切って行った。


「君は、臨赤として信念を全うしてくれ」


 熊掌はただ微笑む切りだ。

 涙などという贅沢なものは、遥か昔に、どこかへ置いてきてしまったから。



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