35 荒廃 ー経緯ー


          *


 かじの術後。彼の体が回復したのを見届けると、熊掌ゆうひは水無月の末から長月まで、再びえいしゅうを不在にした。

 往路の道中、改めて各地の荒廃を目の当たりにする事となった熊掌は言葉を失った。

 街道は、酷く寂れていた。

 道の隅にうずくまる老人。

 壊れかけた玩具を力なく握りしめた幼子。

 泣く力も既にないのか、静かな赤子を抱えた母親。

 行き場を失ったのであろう、月の民がそこかしこに散見される。

 水、水を下さい。その言葉を一体どれ程耳にしただろうか。不死石しなずのいしで清められた安全な水が手に入らない。そのかつえの如何いかに苦しい事か。熊掌はただ馬上でうつむいた。

 ここまでの貧困を、生きる苦しさを、えいしゅうが経験した事は恐らくない。これがこの世の現実なのだ。

 熊掌は居たたまれなかった。



 ――この頃からだろう。己に目をすがめる癖がついたのは。



 閉鎖されたむらの息苦しさ。受ける支配に有無を言わせぬ暴虐。圧倒的な不自由と女達の犠牲。そして真実を知らされないまま飼われ続けるという屈辱。それを承服しかねると、自分達は反旗をひるがえす事を決意した。

 しかしどうだ。それは、この実際の苦役と比べて如何に生温く映る事だろうか。思わずそう考えずにはいられない。眼の前に広がる飢餓と無気力。衣食住の満たされぬ不穏で保証と救いのない日々。何も見えない、良いように変わるとは思えない明日。にごりゆくばかりのまなこ。それはあまりにひどく、あまりに無力だった。

 五邑ごゆうは守られている。

 恐るべき白玉はくぎょくの力の為に守られ続けてきたのだ。

 白玉の維持と支配は、それ程までに姮娥こうがにとって、げつ如艶じょえんにとって、置き換えの利かない重大事項なのだ。

 父は、果たしてこの光景を目にしたのだろうか。

 いや、この惨状は先の仙山せんざんの作戦にたんを発したものなのかも知れない。父の時は違ったのかも知れない。かつては五邑ももっと酷い状態だった時期があるかも知れない。

 かも知れない。

 何もかも、「かも知れない」なのだ。

 自分には真実に触れられる場所がない。機会が存在しない。

 熊掌は静かに、自身の心に暗雲が垂れ込めるのを感じていた。今から再び帝壼宮ていこんきゅうに向かうが、これで何かをつかめるのだろうか? どう進めばいいのかを探れるのだろうか。

 そして、父はまだ生きているのだろうか。

 そうだ。自分はじょえんに刃向かう事はできない。父の命をほふられないために。邑を潰されない為に。その為には雌伏の時を耐えるより他ない。いてはならない。焦ってもならない。

 静かに、ただ静かに心折る事なく、戦うための刃をぐのだ。

 今はそれしかない。

 真っ直ぐに行き方へと眼を向ける。

 どこからか泣く子供の声が聞こえる。

 耳を塞ぎたくとも、手綱を握る両の手がそれを許してはくれなかった。

 だから、目を眇めて、見えない物を見る。見たくない物を視界から遮る。

 はらりと、視界の端で幾枚かの花弁が散り落ちた。



 宮中に到着した熊掌を待ち受けていたのは、この場における作法について自身が全く明るくないという残酷な現実だった。

 到着して真っ先に直面したのは、くぐって善い門が分からないという事だった。それ以前に門の使用に許可不許可があるという事を知らなかった。

 潜る際の礼の取り方が分からない。

 回廊で踏んでよい場所が分からない。立って良い場所が分からない。どうやって道を譲ればいいか、譲るべきかが分からない。そこに身分差というものが関わっている事や、その種類や階級差がどれだけあって、どんな名がつけられているのか、またどんな由来があるのかが分からない。

 角を曲がる時もどの姿勢でどの箇所で曲がれば良いのかが分からない。

 まともに歩く事すらできない。

 あらゆる局面において、決められた約束事や暗黙の了解が多過ぎる。あまりに微に入り細に穿うがったその在り様に、熊掌は頭の中が白くなった。あれ程七面倒臭しちめんどうくさいと思っていた白玉の参拝さえかわいらしく思えてくる。あんなものは物の数ではなかったのだ。

 絶句。これ以上にこの言葉が相応しい状況もない。

 この時滞在に用意されたのは、沙璋璞さしょうはくの官舎の内の一部屋であった。以前に通された部屋でもある。最初に彼の預かりとなった事から引き続いたものだったらしいが、璋璞はこの時期本来じょう州に滞在する役務を負っている。故に熊掌の受け入れを確認し次第出立するはずだった。

 しかし、初回や前回のような例外的な参内ではなく、正式なものとなった今回に、この有様ではまずいという事になった。

 急遽最低限の教育を行うために教師がつけられる事になった。差配をしたのもまた璋璞である。本来禁軍右将軍がやらされるような仕事ではない。麾下にやらせればよいはずの事を、しかしなぜか本人が動く。どうにもこうにも、五邑の世話を焼くという習慣が染み付いているらしいと、熊掌も見ていて悟った。

 恐らくは、他の者に対処をやらせた時に、熊掌の命の保証が出来ないからだろう。五邑ごゆうに対する悪感情が少ない者の方が少数である事は以前璋璞に語られた通りだ。そしてそれは事実だろう。逆に、熊掌に手を出した者の命の保証もできないと思われていたに違いない。

 瀛洲の死屍しし散華さんげさんぽう合祀ごうしの劇毒。下手に手を出した者がそれで死なぬとも限らないからだ。

 月人共の様子を見ていて、熊掌は理解した。

 五邑が月人から如何に白眼視され憎まれているかという事を。手出しは如艶の手前できない。しかしその振る舞いや対応に全ての本音は滲み出る。


 ――それは、憎悪と恐怖と嫌悪だった。


 今の国家の状況をかんがみれば、けだし当然の事だろうと思われた。すでに帝壼宮にて長き時を暮らす方丈ほうじょうとは話が違うのだ。それ以外の五邑は全て月人にとっては自分達に害をなす、死屍散華と言う名の毒を身中に飼う毒虫なのだ。

 差配が滞りなく整った事を確認して、璋璞は漸く帝壼宮を出立した。



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