41 生きる理由 ー経緯ー
*
往路に
熊掌が出立する時に合わせて梶火は例の抜け道を使い、
文月の夜。梶火は最後の身支度をしていた。当然翌日には熊掌自身の出立も控えている。
二人の荷造りは邑長邸で行われた。
「大兄の荷物は?」
「熊掌の物はもう済んでいる。宮中に運び込まないといけないものが多いからな」
南辰の声は硬い。許した、といっても諸手を挙げて賛成をした訳ではない。南辰の危惧は当然の事であるので、二人とも何も言わなかった。
梶火が用意した荷は水筒と着替え一式。数種類の雑穀を混ぜたものを入れた
そのついでにつるりとした頭に手を置かれた。
「うん。やっぱり、いい形だ」
「……そりゃどうも」
髪がない分、温もりが直接伝わるのがこそばゆい。照れ隠しに、頭部を
「本当にこれだけでいいのか?」
「ああ。余計なものが多いといざ何かあった時に、下手に身元が割れて証拠になっても
梶火の言葉に、熊掌は一瞬表情を硬くしたが、すぐにそれを隠した。
皆が寝静まった頃に、二人して
まだ暑さもはじまったばかりの季節だが、夜の水辺は冷える。ほんのりとした冷気がたまに混じる中、二人肩を並べて歩くと、少しだけ温もりが恋しいような気がした。何かの拍子に、ふと指先が触れた。互いに気付いていたそれは、相互に黙殺された。視線を向け合う事もしなかった。
「じゃあ、行ってくる」
例の川沿いの隧道の前で梶火が振り返ると、思いがけず真剣な表情の熊掌がそこにいた。硬く口元を結んでいる。
「どうした? 大兄」
「いい」
「――何が」
「いいって言ったんだ」
「だから何がいいんだよ」
「大兄って、呼ばなくていいって言ったんだ。二人の時まで、まだそう呼ぶのか」
一瞬言葉に詰まり、梶火は拳を握った。ややあってからふっと笑うと、荷をその場に下ろして熊掌の前へと戻った。
「
「――うん」
「正直、離れ
「分かってる」
「本当に意味分かってるか? 一旦許されたらもう手放さないぞ? 俺、本当にしつこいぞ?」
「それも十分分かってる。一体何年お前に追い回されてると思ってるんだ」
「そりゃそうか」
けらけらと笑ってから、ゆっくりと、
「――そういえば、俺達、こんな事一回もした事なかったな」
梶火の言葉に、熊掌は小声で「そうだな」と返す。
「やる事の順番がおかしいよな」
「それ、どれを数に入れてるんだ?」
「――そういう追い詰め方は人が悪いぞ大兄」
「梶火」
じっと、
「……そんな事言ったって口が
「慣れるように呼べばいい。何度でも」
「蘇青」
「うん」
「青」
「ああ」
「青。あんたは俺の――」
俺の全て。俺の命。俺の――
苦し気な表情で、梶火は両手を持ち上げる。そっと、壊れ物を扱うように、熊掌の両頬を包み込む。
「生きる理由だ」
くしゃり、と表情を歪めて、熊掌は梶火の手の上に自身のそれを重ねる。
「――必ず無事に戻ってくれ、梶火」
「ああ。約束する。青も――」
幾つもあった言いたい言葉を飲み込み、口にしていい言葉を探して、ようやく一つだけ見つけたそれを声に出した。
「――必ず、俺の腕の中に帰ってきてくれ」
「ああ」
「最後に一つ」
「なんだ」
こつ、と額と額をぶつける。――いつかとは違い、思いの全てを込めるようにして。
「俺も名前呼んで。呼んでほしい。――今からは、行きたくてもすぐ傍には行けない、一緒にいたくても全部のものから守ってやりたくてもそうはできない。だから、せめて俺の名前だけは、命の代わりにあんたの
熊掌は、思いもしなかった言葉に胸を締め付けられた。
深く、ゆっくりと息を吸い込む。
彼がずっと希求していたのは、渇望していたのは、彼自身の本当の名前を呼んでくれる、それを預けられる、そういう存在だったのだ。
「
「うん」
「
熊掌の手が、反対に梶火の頬に触れる。少年の両頬をそっと包み込みながら、万感の思いを込めて熊掌は言葉を紡いだ。
「僕に、命を、人生を預けてくれてありがとう。この生が
梶火もまた、熊掌の両手をその上から包み返す。
「俺の全部があんたのもんだ。歩みは止めねぇ。必ず、誰よりも大きく強くなる。あんたに必要なものは必ず俺が用意する。裏切らず、
早口でそれだけ言うと、叩きつけるような接吻をして梶火は駆け出した。勢いそのまま荷を拾って隧道へ向かう。
中へ飛び込む直前に、一度ぐるりと半身で振り返った。
「青!」
「ん?」
「早く体直せよ! 帰ったら今度こそ本当に抱くからな!」
にっと笑ってそのまま飛び込んでいった背中に、熊掌は届いたのかどうかも分からない声で叫んだ。
「――早く行け馬鹿野郎‼」
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