41 生きる理由 ー経緯ー


          *


 かじの出立は熊掌ゆうひの次の参内と時を同じくする事になった。この頃から正式に、如月と葉月が帝壼宮ていこんきゅうの滞在期間と定められるようになった。

 往路に一月ひとつき、復路に一月ひとつきかかるため、邑の不在は睦月から弥生の末までと、文月から長月の末までの、およそ半年となる。

 熊掌が出立する時に合わせて梶火は例の抜け道を使い、儀傅ぎふが用意した荷馬車に乗り込む事に決まった。それが一番確実に安全に邑から出る算段であり、儀傅の仲間達と合流しやすかったのだ。

 文月の夜。梶火は最後の身支度をしていた。当然翌日には熊掌自身の出立も控えている。

 二人の荷造りは邑長邸で行われた。南辰なんしんは最後まで梶火の出奔を危惧していたが、数日前、儀傅本人が人目を忍んで邑長邸まで頭を下げに来た事でようやく呑んだのである。

「大兄の荷物は?」

「熊掌の物はもう済んでいる。宮中に運び込まないといけないものが多いからな」

 南辰の声は硬い。許した、といっても諸手を挙げて賛成をした訳ではない。南辰の危惧は当然の事であるので、二人とも何も言わなかった。

 梶火が用意した荷は水筒と着替え一式。数種類の雑穀を混ぜたものを入れたふくろと、塩漬けにした若布わかめだ。若布は梶火の好物で、荷造りをしている時に熊掌が横から突っ込んできた。

 そのついでにつるりとした頭に手を置かれた。

「うん。やっぱり、いい形だ」

「……そりゃどうも」

 髪がない分、温もりが直接伝わるのがこそばゆい。照れ隠しに、頭部をおおえるようにと用意した風防付の襟巻を被った。

「本当にこれだけでいいのか?」

「ああ。余計なものが多いといざ何かあった時に、下手に身元が割れて証拠になってもまずいからな」

 梶火の言葉に、熊掌は一瞬表情を硬くしたが、すぐにそれを隠した。


 皆が寝静まった頃に、二人して悟堂ごどう邸を出た。梶火の見送りは、はじめから熊掌一人だけですると決めていた。

 まだ暑さもはじまったばかりの季節だが、夜の水辺は冷える。ほんのりとした冷気がたまに混じる中、二人肩を並べて歩くと、少しだけ温もりが恋しいような気がした。何かの拍子に、ふと指先が触れた。互いに気付いていたそれは、相互に黙殺された。視線を向け合う事もしなかった。

「じゃあ、行ってくる」

 例の川沿いの隧道の前で梶火が振り返ると、思いがけず真剣な表情の熊掌がそこにいた。硬く口元を結んでいる。

「どうした? 大兄」

「いい」

「――何が」

「いいって言ったんだ」

「だから何がいいんだよ」



「大兄って、呼ばなくていいって言ったんだ。二人の時まで、まだそう呼ぶのか」



 一瞬言葉に詰まり、梶火は拳を握った。ややあってからふっと笑うと、荷をその場に下ろして熊掌の前へと戻った。

せい

「――うん」

「正直、離れがたくなるから呼ぶのをけてた」

「分かってる」

「本当に意味分かってるか? 一旦許されたらもう手放さないぞ? 俺、本当にしつこいぞ?」

「それも十分分かってる。一体何年お前に追い回されてると思ってるんだ」

「そりゃそうか」

 けらけらと笑ってから、ゆっくりと、躊躇ためらいがちに梶火は熊掌の体を抱き寄せた。梶火の背にも熊掌の手が回される。

「――そういえば、俺達、こんな事一回もした事なかったな」

 梶火の言葉に、熊掌は小声で「そうだな」と返す。

「やる事の順番がおかしいよな」

「それ、どれを数に入れてるんだ?」

「――そういう追い詰め方は人が悪いぞ大兄」

「梶火」

 じっと、とがめるような目で見る熊掌に、梶火は苦笑いを浮かべる。

「……そんな事言ったって口がくせになってる」

「慣れるように呼べばいい。何度でも」

「蘇青」

「うん」

「青」

「ああ」

「青。あんたは俺の――」

 俺の全て。俺の命。俺の――

 苦し気な表情で、梶火は両手を持ち上げる。そっと、壊れ物を扱うように、熊掌の両頬を包み込む。



「生きる理由だ」



 くしゃり、と表情を歪めて、熊掌は梶火の手の上に自身のそれを重ねる。

「――必ず無事に戻ってくれ、梶火」

「ああ。約束する。青も――」

 幾つもあった言いたい言葉を飲み込み、口にしていい言葉を探して、ようやく一つだけ見つけたそれを声に出した。

「――必ず、俺の腕の中に帰ってきてくれ」

「ああ」

 わずかに体を離すと、梶火は静かに熊掌の眼を見た。

「最後に一つ」

「なんだ」

 こつ、と額と額をぶつける。――いつかとは違い、思いの全てを込めるようにして。



「俺も名前呼んで。呼んでほしい。――今からは、行きたくてもすぐ傍には行けない、一緒にいたくても全部のものから守ってやりたくてもそうはできない。だから、せめて俺の名前だけは、命の代わりにあんたのそばにおいてくれ」



 熊掌は、思いもしなかった言葉に胸を締め付けられた。

 深く、ゆっくりと息を吸い込む。ようやく――ようやく、ずっと自分の後を追い続けていた少年の、胸の内、奥深くに手が届いたような、その心の底の泉で生じていた波紋に触れたような、そんな気がした。

 彼がずっと希求していたのは、渇望していたのは、彼自身の本当の名前を呼んでくれる、それを預けられる、そういう存在だったのだ。

紫炎しえん

「うん」

紫炎しえん

 熊掌の手が、反対に梶火の頬に触れる。少年の両頬をそっと包み込みながら、万感の思いを込めて熊掌は言葉を紡いだ。

「僕に、命を、人生を預けてくれてありがとう。この生がついえる瞬間まで、一蓮托生を誓う」

 梶火もまた、熊掌の両手をその上から包み返す。

「俺の全部があんたのもんだ。歩みは止めねぇ。必ず、誰よりも大きく強くなる。あんたに必要なものは必ず俺が用意する。裏切らず、たゆまず、見ると決めた景色を見せてやる。約束する」

 早口でそれだけ言うと、叩きつけるような接吻をして梶火は駆け出した。勢いそのまま荷を拾って隧道へ向かう。

 中へ飛び込む直前に、一度ぐるりと半身で振り返った。

「青!」

「ん?」

「早く体直せよ! 帰ったら今度こそ本当に抱くからな!」

 にっと笑ってそのまま飛び込んでいった背中に、熊掌は届いたのかどうかも分からない声で叫んだ。

「――早く行け馬鹿野郎‼」



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