42 赤玉に臨む ー経緯ー


 帝壼宮ていこんきゅうへ向かう黄師こうし一行が鬼射きいる県を出てから、既に数日が経過していた。

 復路となる今回は熊掌ゆうひも騎乗しているので、単騎が七ある。儀傅ぎふ馭者ぎょしゃを務めるのは二頭立ての馬車だ。往路はそれに熊掌を乗せていた。そしてそれとは別にもう一つ、一頭立ての荷馬車がある。

 そちらには熊掌の荷とえいしゅうが用意した荷が積まれている。なけなしの下がりの品などが収められている為、これを駆る黄師の表情は硬い。

 そして、儀傅の駆る荷台から、ちらりとのぞく影がある。影はそれらの様子を密かにじっと眺めていた。その気配に気付き、儀傅ぎふが軽く咳払いをする。影は、静かにわずかばかり後方へと下がる。

 影の正体は梶火だ。

 出立してからはある程度他の馬との間に距離があるため、馭者台に座る儀傅とも話をする事ができた。目深に風防を被り直しながら欠伸をするかじに、儀傅は笑った。

「ところで梶火、本当にいきなりこんな長期間えいしゅうを不在にして良かったのか? こちらとしては願ったり叶ったりだが」

 ちら、と儀傅に視線を送ってから、梶火は再び前方にいる熊掌の背中を見た。伸びた背筋からは、体に負担が残っているようには見受けられない。ただし熊掌も馬に乗り慣れている訳ではないので、道中の半分以降は馬車に乗り換える。今は騎乗に慣れるため馬に乗っているというのが正しいだろう。

 すぐ目の前に見えているのに、その背は遠い。小さく吐息を零すと、視線を手元に戻す。

「大兄がいない間は邑でやる事ねぇからな。専属の衛士なんてみじめなもんでな、主不在じゃいる意味ねぇんだわ。自警団の仕込みも何とか仕上がったし、持ち回りも決めて指示出してきたから、あとは南辰が何とかするだろ」

「自警団を置く許可が取れたくらいなんだから、衛士として宮城に付いて行く事もできたんじゃないのか?」

「――拒否できねぇものを間近で黙って見てろと?」

 低い声に儀傅は息を呑んだ。

「愚問だったな。すまん」

 がたがたっと車体が揺れる。車輪が石に乗り上げたらしい。

 やや気まずい空気が流れてから、梶火は溜息交じりに「仕方ねぇよ」と零した。

「俺を連れてったら方丈ほうじょうを殺しちまうから駄目だって言われたんだ」

「ああ――まあ、そう判断するか」

「それに」

「うん?」

「大兄は、俺が手を出したら死んでも許してくれねぇと思う」

「そうか。弟の手を汚させたくないんだな。懐の深い人物だ」

「何言ってんだ、ちげぇよ」

「え」

「そんなもん、自分の手でなぶり殺しにしたいからに決まってるだろうが」

「おお……そうか」

「受けた不利益は決して忘れない。やられた事は自分の手で万倍にして返す。そういう男だ、昔から」

「――それは、方丈のを、という意味だよな?」

「敢えて回答は控えるぜ」

 儀傅の腹が冷える。やられた事という言葉の内に、五邑ごゆうに対して行われた積年に渡る姮娥こうがの行いも含み置かれていた場合、こうして彼等の肩を持つのも諸刃の剣となろう。降り積もった怒りは重く根深いものだ。梶火を仲間に引き入れようとしている己の選択で、臨赤りんしゃくが寝首を掻かれる可能性もなくはない。

 儀傅は小さく溜息を吐いた。この少年達の様子はよく見てきたつもりだ。自身の眼が曇っていない事を祈った。

 そんな儀傅の内心を知ってか知らずか、梶火は肩を竦めて見せる。

「――まあ単純に、大兄があっちにいる間、邑で黙って待ってるのがきついんだよ」

「そうだな、ただ待つ身も辛いよな」

 一行はすでに紺色の夜空の下を進んでいる。えいしゅうから帝壼宮ていこんきゅうへ向かうにはほう州とてい州の間を抜けるのが最短だが、その地域は現在、情勢的にかなり危険な状態にあるらしい。このため、一行は弟州の北側、つまりげん州との境を抜けている。このまま西に直進すればやがてじょう州に至れるが、その前に南へ向けて進路を取る事になる。今は、丁度じょえんの統治が行き届いている事を示す囲いから出た地区だ。

「梶火」

「ん?」

「俺はこの往復が済んだら、一旦黄師こうしを退役する事になる」

 儀傅が言うので梶火は眼を丸くした。

「そんな事して大丈夫なのか?」

「ああ。幸い不死石しなずのいしも金も溜まったし、二年は二人が食うに困らん。退役後は俺もしばらく臨赤の拠点に留まる予定だが、その拠点に信頼がおける人物がいるから、お前をそこに預ける。この三月みつきの間にそいつの所で臨赤について知ってくれ。帝壼宮からの帰りにお前をひろい、瀛洲に返す」

「うん」

「今回の滞在で、今後どうするかを決めてくれればいい。もし肌が合わなければ無理に加われとは言わん。まあその代わり、俺が何かで助けが必要になったら、少しだけ協力してくれるとありがたい」

「それは勿論、大兄の害にならない限りだがな」

「ああ、それで構わん」

 梶火は荷を漁り中から水筒を取り出した。栓を抜いて口中を湿らせる。

「そういや、俺が邑を不在にする間、黄師ではどう話をつけてくれるんだった?」

「お前、南辰なんしん殿にも説明したろうが」

「わり、ちゃんと聞いてなかった」

「まったく……待機している黄師の中に俺の兄弟子がいる。彼に監視業務を請け負ってもらってあるから、お前はこれからの三か月間、病のために邑長邸で臥せっている事になっている。玉がれて身動きとれないってな」

「ぶっ‼」

 盛大に水を噴き出しせた梶火を見て、儀傅は笑った。

「だいじょうぶかー」

巫山戯ふざけんなよお前、大丈夫かじゃねぇわ。――なあ儀傅、それ南辰に話聞いたんか?」

「大病患って片方玉がないっていうんだろ? いいじゃないか。時期は違うかも知れんが嘘ではないんだから」

 つまり話してはいないという事だ。それは理解できたので、不死石しなずのいしと膂力の関係に関しては黙っておくことにした。

 このからりを黄師が知っているのかどうか梶火は知らない。ならば余計な事をぺらぺらと喋り散らすのは得策ではないだろう。何が命取りになるものか知れないからな、と、内心独り言ちた。

「全くよぉ……それ以外になんかなかったか? 玉が腫れて動けねぇって、衛士としての信用問題に関わるだろうが」

「それは実力に物を言わせればいいんじゃないのか?」

「まあそうなんだがさぁ……」

 ぶつぶつと文句を言う梶火に、儀傅は目元を笑ませた。その口元は襟巻で覆い隠されている。今この瞬間の梶火との会話を見咎められないためだ。

 満天の星空の下ではあったが、やはり用心するに越したことはない。今一度、儀傅は手綱を握りしめ直した。


 沢でのあの夜の後、儀傅は梶火に臨赤について軽く説明をつけた。

 せきぎょく白玉はくぎょく二柱の入れ替わりという五百年前の事変により、被害を被った者は決して少なくない。

 はくの統治する国から、げつの統治する姮娥こうが国へと変わり、五邑ごゆうの民が国家の中に突如として現れた。国家維持の要として無視できない存在としてそこに君臨する、死屍しし散華さんげという致死の猛毒を生み出す短命の人型をした生物――これに対する月の民の戸惑いや不安は計り知れない。

 確かに長きに渡った妣國ははのくにとの戦は停戦を迎えたが、その代償に残されたものは計り知れず、万事善しとできるものでは到底なかった。五百年という月日は、月人にとっても決して短くはない。

 不安と日々いや増してゆく困窮は、戦が起こる更に前、平穏であった白の統治下におけるせきぎょく信仰の満ちていた時代に希望を求めさせた。

 かつて宮中に仕えた、ある著名な詩家がある。これが赤玉のかたわらに侍る栄誉と幸福を一遍詠んだ。これは、赤玉の側近であったげつじょえんを、その来歴からして皇帝に相応しいとその栄耀栄華を讃えたように見せかけ、その実際は、赤玉無き昨今の不遇と慟哭を織り交ぜて弾劾したものだったのである。


 臨赤りんしゃく――赤玉に臨む――と題されたその詩歌こそが臨赤の起源である。


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