52 奇跡 ー経緯ー


 青炎せいえんを残し、三人は手近な店で茶を求めて斜面の影に腰を落ち着けた。椀の中身をすすりながら騎久瑠きくるかじに問う。

「なあ紫炎しえん。お前、他に欲しいものはないのか?」

「あ? 欲しいもん?」

「ついでだから何かあるなら言ってくれていいぞ」

 しばらくあごを撫でながら試案したあと、「まあ、いいかな」と梶火は笑った。

「本当に欲しかったもんはもう手に入ってるから。俺、取り立てて何か欲しいとかは基本的にないんだよな」

 紅炎こうえんがふっと笑った。

「お前さんが本当に欲しかったものは、兵や勢力ですらなかった、と」

 誘導された事に気付いて梶火は苦笑いした。自分も今日は相当浮かれていたらしい。随分と口が軽くなっている。また、返答しない事で肯定とした。隠す事でもなかったからだ。

「それがもう手の内にあるってのに、くにくずしが出来る程の力まで欲しいってんだもんなあ。普通欲が満たされると動きは鈍麻するもんだぜ? なかなか強欲な奴だよ、お前さんも」

 紅炎がけらけらと笑うと、梶火は不思議そうに耳をほじくりながら片眉を持ち上げた。

「あんた何言ってんだ」

「うん?」

「手に入れたら終わりじゃねぇだろ。そっから維持すんのが大変なんじゃねぇか」

「ほう!」

 感心したように紅炎は自身の顎を撫でさする。しょり、とひげがかすかな音を立てた。

「まあ、そりゃ道理だな」

「失うのは本当に一瞬なんだよ。常に抱え込んでおけねぇなら、他にられんように、でも望みを叶え続けてやるしかねぇ。そんな程度で俺をそばにおいてくれるんだったら、何だってやってやるさ」

「お、女か?」

 梶火は視線だけを向けて答えなかった。ゆうを指して「女」だ、とは言いたくなかった。それは、恐らく彼の本意じゃない。少なくとも梶火はそうとらえている。師の見解を聞いた事はないが、恐らく――同意してくれるはずだ。

 器と心の乖離かいり。その苦悩の中に彼が生きてきた事を知っている。しかし、梶火自身、己に衆道の気がない事も自覚しているから、どこに心を置けばよいのかずっと分からなかった。決められなかった。下手な事をして彼の心をないがしろにしたり、尊重できなくなる事が怖かった。だから――本格的にこの懸想けそうを自覚した後は、この誠意を示す為に、ただ身命しんめいして尽くすと決めた。報われなくてもいいなどと聖人ぶった事は口が裂けても言えないが、何よりも、これ以上彼が粗雑そざつに扱われないように、あらゆる事から守りたい、というのが梶火の中での最優先事項だった。

 だから、ただ一言。


「離れたら駄目なんだよ。どうしても」

 

 とだけ返すに留めた。

「で? この市はどうだった?」

 話を変えようとしてくれたのだろう。騎久瑠の問いに梶火は「うん」とうなずきながら茶をすする。

「活気があるし、客の顔色も良さそうだから、現時点ではここでは解毒薬の出番はなさそうだなって思う」

 梶火のその答えに、騎久瑠と紅炎は顔を見合わせてから笑った。

「ほんっとに、油断も隙もないんだよなぁ、お前さんは」

「そうか?」

「ああ。紅炎こいつに爪のあかを煎じて飲ませたいくらいだ。何も考えていないようで、常に自分の任を生きている」

「それはそうだろう。大兄の期待を裏切る訳にはいかねぇからな」

 と、騎久瑠がにやりと笑った。

「それ。練香水。その大兄ってやつへの土産にするんだろ」

「ん。ああ、そうするかも。あんまりそこまで考えとらんかったな。でも練香水よりも食えるもんを喜ぶだろうから、どうしようかな……」



「お前、その大兄ってのと関係があるだろ」



 梶火は盛大に茶を吹いた。気管支の奥どころか鼻にまで入ったらしい。咳き込みと涙が止まらない。

「なんっ、なんで……!」

「見りゃ分かる。というか、話の前後で察しが付く。寧ろお前、隠してるつもりだったのか?」

「――まあ別に隠してるわけじゃねぇが」

 ばつが悪い事に変わりはない。

「まあ、これ以上無粋ぶすいな事は言わないでおいてやるけど。手に入れたつもりで維持する努力をおこたるのは破滅のはじまりだって分かってるお前なら、まあ大丈夫なんじゃないか」

「――そりゃどうも」

 紅炎の手がぬっと伸びた。その掌で梶火の頭をざりざりと撫でる。

「人は突然死ぬし、突然変わるからな。眼を離した隙にもう手が届かないものになる。お前さんの言う通りだよ。離れちゃだめなんだよなぁ」

「やけに実感こもってるじゃねぇか」

「そりゃ、ずっと狙ってた奴が気付いたら『受け皿』埋まってるとか、泣いちゃうぞ?」

「なんだ。お前本気で花月ホアユエの事狙ってたのか?」

 意外そうな目を騎久瑠に向けられ、紅炎はよよと腕で眼の前を覆って泣き真似をした。騎久瑠が視線を梶火に寄越し茶をすすり「さっきの装飾品売り」とつぶやく。

「ああ」

余所よその集の女なんだが、大市にもたまに顔を出すんだ。こいつ、都度ああして言い寄ってたんだが、残念だったな」

 何の感慨もなく言う騎久瑠に、紅炎は「まあ仕方ねぇ」と笑った。

「ところで『受け皿』? ってなんだ?」

 騎久瑠がぱちくりとまばたく。

「ああ、そうか。お前には分からんか。さんこうってのは分かるか?」

「それは分かる」

「三交が決まったら、まず母体担当になるやつ決めるだろ? それから目合まぐわって母体の胎内に二種入れるだろ?」

「ぶっ」

 再びせ込んだ梶火の鼻に茶が入る。

「その種が貯蔵されるのが『受け皿』だ。で、当然これは二つあって――って、おい大丈夫か?」

 うなずきながら梶火は自らの鼻を拭いた。

 その構造自体についてなら、梶火は既に知っていた。熊掌が宇迦之うかのから聞かされた事についてはおよそ共有されている。知らなかったのは『受け皿』という言葉だけだ。騎久瑠の表現は単刀直入に過ぎる。如何いかに熊掌が腐心してまろやかに事を伝えてくれたのかがよく分かった。

「これで子が出来るまで何百何千何万年と待つ」

「まつ」

「待つんだよ。じゅくすまで待つしかない。でもどれだけ待っても熟さないかも知れない」

「――子が出来ない事もあるって事か」

「多くがそうだ。成就は二割に満たないだろうな」

 思わず辺りを見回してしまった。さっきの親子連れの影を探した。あの林檎の乾物を強請ねだった子供がどれ程奇跡的な存在なのかという事に今更思い至ったからだ。

 騎久瑠がことり、と土の上に茶碗を置いた。紅炎がそれを取り上げて自分の空になったものと重ねて引き取る。

「それぐらい難しいんだよ、姮娥が子を授かるというのは。だから相手の性とゆう性はものすごくよく見るし、その配分も見極める。やっぱり雌性を二種もってる奴の方が懐妊する可能性は高いからな。一度三交を定めれば、子がどうしても授からなくても三交は基本的に解消されない。勿論物理的に解消する事は可能だが、次に選んだ交が以前の交の種よりも雄性が弱いと『受け皿』の種は置き換わらないし、何よりそもそも倫理的な縛りがでかいんだ。解消を選択する奴なんてほぼ皆無といって障りがない。しかもどちらの種が置き換わるかは天の配剤次第ときた」

 聞き慣れぬ言葉と常識に梶火は暫時混乱したが、少しずつ騎久瑠に確認しようやくの思いでその意味を飲み込んだ。

 飲み込んで、疑問に思った。

「なあ、その雌性と雄性? の種類の数ってのは、雄の種が幾つで雌の種が幾つずつでそいつの体が構成されてるかって話なんだよな?」

「そうだ。ほぼ全ての民が両性だ。雌性ばかり三、雄性ばかり三、というのはまあない。例外として、先の白皇はくこうが雄性三種、俗にいう完全雄性だった」

「それは、自分の体の配分を自分で理解しているってことなんだな?」

「ああ。わかる」



「――じゃあ、三交を決めるっていうのは、お互いに自分の配分はこうだと説明し合うって事か? じゃあ、万一子を授かるかどうかよりも、相手を交にしたいからって自分は雌性を二種持っていますとかって嘘を吐いてたらどうするんだ?」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る