51 練香水 ー経緯ー



 子供が父親らしき者の手を引いて、林檎の乾物を強請ねだっている。父親は困った顔をして三つ買い求めた。ふと、そこに声を掛ける者達がいる。二人だ。見た所どちらも性別の判断が付けにくい。父親が彼等と子供に林檎を分けて渡した。ああ、三交だからか、と気付く。親が三に子が一。つまり、自身の分まで求める余裕はなかったのだろう。と、後から来た一人が気付いたのか、自身が手にしていた林檎を父親の口元にはこんだ。父親が苦笑しながら一口かじる。と、その様子を見た子供が、自分の手元と父親の顔を交互に見て、自分も同じように父親に林檎を差し出す。


 ――ああ、いいなぁ。


 素直にそんな感想が出た。自身の頬がゆるんでいるのが分かる。

 むらでもこういった親子を見た。自分にはえんのない景色だった。

 正直に言って、昔は只々ただただ腹立はらだたしかった。そういったものを目にするにつけ、梶火は「なんだあれは甘ったれてる」と、ゆう長鳴ながなき相手にののしり続けていた。

 本当はどうして腹が立つのか、許せないのか、考えたくなかったのだろう。温かい親子のやりとりという物がうらやましくてならなかったのだ。それを認められないくらいに切実な渇きで、また幼かったのだと、今なら素直に白状できる。

紫炎しえん

 名を呼ばれて「おう」と軽く騎久瑠の方へとけた。ふいに肉の焼ける匂いが鼻孔びこうをくすぐった。肉より新鮮な魚が食べたかった。熊掌が持たせてくれた若布わかめはとうに底をついていた。あれが心底ありがたかった。あれがあったから泣き言を言わずに済んだ。若布がもっている間に、こちらの食生活にも慣れる事ができた。

 梶火の髪は放置していたので伸びた。今では五分刈り程度になっている。無論色は黒い。しかし、市の者は誰もそれについて口にしなかったし、態度にも出さなかった。それぞれの者が事情を抱えて現在の状況にある。明らかに訳有の五邑ごゆうの小僧が、しゅうの長に連れられている。事情があるのは明白。しかし何も言われないうちは無理に聞き出そうとはしない。意図的にそうしているのが伝わった。


 月人つきびとだから。

 五邑ごゆうだから。

 妣國の血を引くから。


 人間というのは、そういうものではないのだ、という事を、梶火はこの滞在のお陰で強く理解する事ができた。そもそも彼等をせいせいと呼ぶ混血の女が取りまとめている集なのだ。頭も民も度量が違う。

 梶火個人がここで学び得ている物は、取引で得るだろうものより、すでにはるかに大きかった。

 と、すみの方に店を出している不愛想な男が目に入った。

「おう」

 と、騎久瑠が手を上げる。仏頂面のまま男は微かな会釈をした。紅炎こうえんの弟の青炎せいえんである。紅炎あにと同じ顔をしているが、こちらには不精髭はない。寧ろ几帳面な性格なのか、髭を強く当たり過ぎてあご剃刀かみそり負けしている。

「公主。紅炎こうえんは」

「そこで女口説くどいてるよ」

 親指を立てて示された方を見れば、木陰で装飾品をあきなっている、多少びた印象の着飾った女の前に立ち、談笑している紅炎がいる。

 ちっと青炎が舌打ちする。「あの糞野郎が」と口はよろしくない。

「まともに護衛をする気がないなら任を下りろとあの馬鹿野郎に公主から引導を渡して下さい」

「まあ、あれはあれでやってくれているから」

 騎久瑠は苦笑している。見た所、この几帳面に過ぎる似た者同士の二人が常に共にいるよりは、寧ろ紅炎のほうが騎久瑠とは相性がいいのだろうなと思われた。恐らくこの公主呼びも本来騎久瑠は厭がる類だろう。そしてこの青炎は融通が利かず頭が固いため訂正を求めたくとも聞き入れられないと見た。

 あの騎久瑠があきらめているのだ。

 梶火にはそれだけで十分おかしかった。

 何という気もなく青炎の広げていた荷の前にしゃがみ込む。しなぞろえには取り留めがない。聞けば不用品を広げているだけなのだという。青炎が店を出している目的は言わば市の監視である。故に商売っ気はまるでない。

 と、その中でもとりわけ異彩を放つ品が目に飛び込んできた。蓋付きの白磁の容器だ。ころんと丸い。全体に赤い花が絵付けしてある。明らかに女性向けなのだが、なぜか気になってじっと見てしまった。理由はすぐに分かった。中から薄くこうれている。

「これ」

「お、なんでこんな高級品がこんなとこにまぎれ込んでんだ?」

 横から顔と口を差し挟んできたのは紅炎である。

「口説くのはしまいか?」

 梶火が問うと紅炎はにやりと笑ってから「まあな」と悪びれない。

「貴様に売ってやるものはないぞ糞野郎」

 眉間に青筋を立てた青炎に紅炎は「はいはい」とにべもない。

「――そんなもん、あいつが送り付けてきたに決まってるだろ」

 ぼそりと不快を隠さない声が上からした。見上げれば腕組みをした騎久瑠がそっぽを向いている。

「あいつって――ああ、親父さんか?」

 騎久瑠はまた顔全体で嫌悪を表現して見せた。

「ああ。物は確認できたし、使わないから片付けておいてくれって青炎に預けたんだよ。――でも私は売り物にしろとは言ってないぞ」

処分しろかたづけろ、という意味に受け取りました」

 こちらもこちらで悪びれない青炎に、騎久瑠は盛大な溜息を吐いた。

「だからって店には出すなよ」

「実際には売りませんから問題はないかと。ただのにぎやかしです」

 しれっと続ける青炎に、「お前ら兄弟は本当に」と、騎久瑠は目を伏せ額に手を当てた。そんな横から梶火はついと手を上げた。

「なあ騎久瑠」

「ん?」

 まぶたは開いたが、騎久瑠の眉間の皺は刻まれたままだ。

「ちょっと見てもいいか? それ」

「ああ――まあ、構わないけれど」

 礼を言ってから、手に取り蓋を開ける。とたん、ふわりと懐かしく甘い香りが鼻孔をくすぐった。

「これ……」

 紅炎が梶火の手元に鼻を近づけてにおいをぐ。すると、にやついていた顔が険しくなった。じわりと眉間に皺を寄せる。

「おいおい、こりゃ黒木苺くろきいちご薔薇ばらねり香水こうすいじゃねぇか。マジの高級品じゃん。こんな市でこんなもん買える奴いねぇだろ」

「ほらみろ、こいつ程度でもヘタに目利めききだったりするんだよ。ややこしい事になる前に下げておけ」

「御意」

「え、じゃあ俺が代わりに片付けておいて――」

「貴様には断固として預けんぞ紅炎」

「んだよケチー」

「貴様! 横流しする気満々じゃないか‼」

「もういいお前等五月蠅うるさ過ぎだ‼」

 三人の会話が頭上で飛び交う中、梶火はじっとその練香水を見つめ続けていた。気付いた騎久瑠が「紫炎しえん? どうした?」と問う。

「ああ――あれ黒木苺っていうんだな。知らなかった」

えいしゅうにもあったのか?」

「うん。大兄がよくそれの乾物を食べてたんだ。姿が見えないと思って探したら、大抵一人で隠れて食ってた。したら、しいって人差し指口の前で立てながら、こっちの口ん中に放り込んでくるのな。黙ってろって」

 思い出した。それはとても懐かしい記憶だ。思えば、ふと行き会う時のゆうは大抵何かをぼんやり食べていた気がする。あれだけ四六時中口に物を運んでいて身にならないのだから、なんと効率が悪い体質なのか。思わずふふっと笑ってしまった。それから、ふいと真顔になる。

 ――ああいった時、熊掌は何を見ていたのだろう。何を考えていたのだろうか。今思い出して、ようやく少しだけ、その茫洋ぼうようとして見えた中に隠されていた、刺すような葛藤と孤独の手触りに指先が届いた気がする。


「……これ欲しいな」


 無意識の内に、ぼそりとそう口からこぼれ出ていた。聞きらさなかった騎久瑠が横から蓋をして、上からぽんと叩く。

「持っていきなよ」

「え、いや俺金ないから」

「やる」

「……いいのか?」

「ああ。私は使わないからな。使う奴が持てばいい」

 騎久瑠が浮かべた微笑は、珍しくやわらかなものだった。



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