10 夜見国と妣國


 麻硝ましょう率いる二百の隊は、荒野を更に北西へ向けて走った。乾燥地帯に入ったのか、残雪量はわずかだった。しかし冬には降り積もった雪が凍て付いて根雪となるのだと寝棲ねすみは語った。

 移動手段はそりが必須となる。目ぼしい湖畔や海も見当たらず、水源の確保は専ら雪解け水に限られる。いつか魚に不慣れな内陸の人間だと寝棲ねすみが語っていたのはこういう事かと八咫やあたは身を以って理解した。

 踏破とうはに要したのは三日であった。その間に合流した隊が五つ。その大半が二十から五十の人員で構成されていたが、その合流の度に隊全体の空気が重く冷えてゆくのが八咫にも感じられた。出立の時にはそれらの全てが百人単位で各地に散っていったのだと寝棲はほぞを噛んだように吐き捨てた。即ち、失われた人命の数が、それそのまま騎影に反映されていた。


 寝棲がえいしゅうへ派遣された時の人員四名というのは、本当に少数精鋭での切り込みだった。正確には、それ以上の兵を割り当てられなかったのである。

 国家転覆を企むには、仙山の有する兵はあまりに少な過ぎた。


 緩やかな傾斜を登りきった所で、寝棲が隊列に断り団から離れた。馬は速足から駆足になる。八咫は寝棲の背中に彼の内心のはやりを見て取る。馬が脚を止め、馬体はその場で二の足を踏んだかに思えた。


「八咫、見ろ」


 寝棲の声に、彼が顔を向ける左前方へ八咫も視線を送った。「ああ」と感嘆の声が漏れる。

 大量の星を散らした紺の天球が、地平の果てで一部色を変えている。恐らく、方角からして北だろう。鮮やかな朱の所々に、黄金の雲が棚引いている。寝棲はそれを指さしながら、白い吐息を吐きつつ語る。

「あの、紺と朱に色別れしている部分があるだろう?」

「うん」

「あのしゅ天下てんげを治めるのが妣國ははのくにの女王だ」

「女王?」



「ああ。――伊弉冉いざなみという。あの悪名高き荒ぶる神、素戔嗚すさのおの母親だ」



 溜息なのか、寝棲から発せられた白い吐息は、中空に霧散してさらさらと光って見えた。

「妣國は、こくとも呼ばれている。ここ姮娥こうが側からはあの青い大き星が見えるが、妣國側からは見えないのだそうだ」

「つまり、姮娥の裏側全土に位置するから、裏国だと?」

「そういう事だ。ここは両国の境に当たる最果ての地。かつてと妣國との間で激戦が繰り広げられた、血と氷の染み付いた悪夢の大地だ。――見ろ」

 次に寝棲が指したのは、崖下の眼下に広がる平野であった。そこには想像を絶する規模の集落があった。

 否、集落などと生温いものではない。最早、城郭都市と呼んで差し障りないだろう。断崖を背に負い、扇状に広げ囲んだ二重の石造りの城壁に砦を守らせた、まごう方なき要塞であった。外の枠内には十二分に巨大な城下街を有し、内枠の中、扇のかなめの部分に守られた砦は、窓と呼ぶには小さな口が等間隔で空けられている。矢番やつが狭間はざまだろう。

「かつての激戦の折にの最北端の拠点となったのが、ここ、氷珀ひょうはくの砦だ。白朝に変わり停戦となってから、この氷の大地は両国より捨て置かれる事になった。名高い名工が設計した砦らしく、雪に潰される事なく残った。今は、我々仙山せんざんの大本営だ」

 目を細めて寝棲はその景色を見詰める。彼自身、本来は員嶠いんきょうの出身であり、話に聞く限りここに血縁もないはずだ。しかし、今彼から感じるのは確かな郷愁だった。

「なあ寝棲、お前、ここにきて何年ぐらいになるんだ? 員嶠いんきょう出てからすぐに入ったんか?」

 何の気なしに八咫が問うと、しばらく口を噤んでいた寝棲が、口籠りながら「ああ」と唸る様に肯定した後、急に背筋を正した。

「八咫」

「ん?」

「隠し立てにしておきたくないから先に伝えておく」

「なんだよ、んな改まって」

「帰投し次第、俺は女を迎えに行く」

「お、おう?」

麻硝ましょうから許可が出た。その女を、正式に嫁に迎える事になる」

「うん。めでたい話じゃねぇのか?」

「女の名はさい梨雪りせつ蓬莱ほうらいの先代長の隠しの娘だ」

「――隠し、……なに?」

「隠しの子だ。蓬莱は昔から『色変わり』の娘を出した事がない。そして民の増加も極端に少ないと言われてきた。しかし実際はそうじゃない。昔から多数の子を別の場に移り住まわせてきたんだ。生まれても煙を焚かずに、存在を黄師こうしから隠してきた。――梨雪も、そんな隠しの子の一人だ。生まれた事を隠された」

 八咫は、表情を固くしてゆく。

「――邑長の娘、なんだな」

「生まれてすぐに、白玉に髪を触れさせた。梨雪の髪は『色変わり』しなかった。それで生まれてすぐに仙山に隠された」

「つまり、そういうことか」

「――済まない。本当に申し訳ない。俺は、梨雪を仙山の……麻硝の切り札から解放する為に、えいしゅうへ行く分隊に志願したんだ」

「寝棲」

「梨雪の価値が大きい分、それに見合うだけの働きをする必要があった。生きて帰れるかは賭けだったが――俺は幸運にもそれを成しえた」

「そいつの歳は」

「――二十五になる」

 八咫は、寝棲の背後で沈黙してから、小さく溜息を零した。

「寝棲、やめよう。結局、犠牲になるのは女達だ。どちらがまぬがれたとか、どちらが押し付けられたとか言う話じゃない。そこで俺達が憎み合う事になるのは、おかしいだろう? それに、命を支配されているのは、どの道五邑の俺達丸ごとなんだ。怒りを向けるべきはげっちょうに対して、黄師こうしに対してだ。――ここでこんな話をするのは……不毛だ」

「八咫……」

「――ああ、でもなあ……」

「……ああ」

 八咫は寝棲の外套を力いっぱい両手で握りしめた。瞼をぎゅっと閉じ、その背に額を打ち付けた。


「本音ってすげぇよな、信じられるか? 憎悪も殺意も、こんなに簡単に全身を支配するんだな。――誰かに、何かに叩きつけたいぶちまけたいとしか考えられねぇわ」


 八咫はくつくつと笑った。

「――ほんっと、上手く行かねぇな。悪い。忘れてくれ」

「いや……本音を言ってくれてありがとう。――お前は、俺の事を赦さないでくれていい」

「――そう言ってくれると、助かる」

「その代わり、えいしゅうでの借りも含めて、何らかの形で必ず報いさせてもらうからな」

「ああ。期待してる」

 寝棲は背中に八咫の怒りを受け止めながら、手綱を引くと馬を速足で進めた。隊からやや距離を置きながら、二人を乗せた騎影は崖沿いを進んでゆく。

如艶じょえん白皇はくこう誅罰ちゅうばつを下したのだと言う考えが、黄師の間では未だ主流だ。だからその簒奪を肯定されているという側面がある」

 八咫は無言のまま寝棲の言葉に耳を傾ける。

「そも、夜見と妣國ははのくにの両国間に戦が起こったのは、白皇が妣國ははのくにの領土へと侵攻したのが契機だったと言う。そんな事をした理由は、正確には伝わっていない。色々説はあるがな」

「こちら側から仕掛けた事だったのか」

「ああ」

「そりゃ迷惑な話だな」

「そうだな。――白の統治が起こってから、凡そ百万近い時が流れた頃だそうだ。戦は長引き、民は疲弊し、国境に程近い自国領から徐々に荒廃は進んだ。夜見の民の中にも、白皇に対する怒りが相当に降り積もっていたようだ。そこへきて、如艶じょえんという、神の化身とまで崇められた民の信仰の拠り所を俗世に引きずり降ろして、白皇は我が物とした。あの瞬間に白皇は、赤玉の信徒の全てを敵に回したのだろうよ。民の不信と怒りの一部は、敵国である妣國ははのくにではなく、白皇自身に向いた。白皇は、その統治の前半に善政を敷き、残りの半分で民に負の種を撒いた。種が芽吹けばもう取り返しがつかない。怒りは何かの拍子に吹き溜まりに溜まる。それがどこへ向かって流れるかは――正しく天の配剤次第だ。この時は、素直に白皇に向かって流れた事になるな」

 八咫には不思議だった。これは食国の父親の話なのだ。食国自身が全く知らないと言っていた彼の父親は、死してなおその評価が大きく二分されて定まらないものらしい。彼を憎む者もあれば、彼の正統を今なお求める声もある。しかし、そのどちらも正しくはないのかも知れない。そしてそのどれもが彼を映し出す真実の側面なのだろう。

「――俺の怒りがどこへ流れるかも、いつか、天が決めるのか」

「ああ。その行き着く先が俺だったとしても、俺は不思議には思わないさ。――ただな、それで後悔だけはないようにしてくれ。怒りを力に変える事は出来るが、怒りに囚われて発露した願望は人間を修羅に変える。感情に振り回された時に、人は人ではなくけだものに堕ちるんだ。いいか、こころざしは感情ではなく理性で組まねばならん」

「――そうだな」

 馬はやがて本隊の半ばあたりに合流を果たした。

「なあ、寝棲」

「なんだ?」



「月皇は、感情に振り回されて赤玉を異地に追い出したんかな」



 寝棲は思いも寄らぬ言葉を聞いた気がした。顔だけは前を向いたまま「何故そう思った?」と問う。

「なんとなくな。だって赤玉も夜見の民なんだろ? 夜見なのか姮娥なのか、どう呼べば正しいのかはわからんが、奴等の祖先みたいなもんなんだろ?」

「あ、ああ」

「て事は、俺達にとっての白玉とは、関係性自体が全然違うんじゃねぇかなって」

「――確かに」


「最長命の祖先が神とされて、その力を最も強く受け継いだ月皇が白皇によって信仰の象徴から引き剥がされた。――でも、それは本当に可能なのか? 月皇は、白皇に従わなきゃならない程弱かったんか? あんな囲いみたいなとんでもないもんを作れるやつが?」


 寝棲の背に、ざわざわとした恐怖が這い上がる。

 自分の背に、ひたりと張り付いたこの少年が、かつて目にした事のないものの蓋を開けようとしているような、そんな予感があった。

 ――否、そうではないのかも知れない。本当は、そんな他人事ではないのかも知れない。もしかしたら、他でもない自分自身が、八咫という未知の化物を揺り起こしたのではなかろうか。


 自分は何か、とんでもない事に手を貸したのやも知れない。

 

 寝棲の思いに気付いてか否か、八咫は言葉を続けた。

「本当は、赤玉をこの国から異地へと放逐する事こそが月皇の目的であって、白皇や黄師はその目的に巻き込まれたんじゃねぇかな。もしかしたら、白玉との交換はあくまでついでだったのかも知れない。感情に振り回された行動だったから、今奴等は生命線の不死石しなずのいしの不足で瀕死の危機に向かっている。これは――そういう話なんじゃないかな」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る