10 夜見国と妣國
移動手段は
寝棲が
国家転覆を企むには、仙山の有する兵はあまりに少な過ぎた。
緩やかな傾斜を登りきった所で、寝棲が隊列に断り団から離れた。馬は速足から駆足になる。八咫は寝棲の背中に彼の内心の
「八咫、見ろ」
寝棲の声に、彼が顔を向ける左前方へ八咫も視線を送った。「ああ」と感嘆の声が漏れる。
大量の星を散らした紺の天球が、地平の果てで一部色を変えている。恐らく、方角からして北だろう。鮮やかな朱の所々に、黄金の雲が棚引いている。寝棲はそれを指さしながら、白い吐息を吐きつつ語る。
「あの、紺と朱に色別れしている部分があるだろう?」
「うん」
「あの
「女王?」
「ああ。――
溜息なのか、寝棲から発せられた白い吐息は、中空に霧散してさらさらと光って見えた。
「妣國は、
「つまり、姮娥の裏側全土に位置するから、裏国だと?」
「そういう事だ。ここは両国の境に当たる最果ての地。かつて
次に寝棲が指したのは、崖下の眼下に広がる平野であった。そこには想像を絶する規模の集落があった。
否、集落などと生温いものではない。最早、城郭都市と呼んで差し障りないだろう。断崖を背に負い、扇状に広げ囲んだ二重の石造りの城壁に砦を守らせた、
「かつての激戦の折に
目を細めて寝棲はその景色を見詰める。彼自身、本来は
「なあ寝棲、お前、ここにきて何年ぐらいになるんだ?
何の気なしに八咫が問うと、しばらく口を噤んでいた寝棲が、口籠りながら「ああ」と唸る様に肯定した後、急に背筋を正した。
「八咫」
「ん?」
「隠し立てにしておきたくないから先に伝えておく」
「なんだよ、んな改まって」
「帰投し次第、俺は女を迎えに行く」
「お、おう?」
「
「うん。めでたい話じゃねぇのか?」
「女の名は
「――隠し、……なに?」
「隠しの子だ。蓬莱は昔から『色変わり』の娘を出した事がない。そして民の増加も極端に少ないと言われてきた。しかし実際はそうじゃない。昔から多数の子を別の場に移り住まわせてきたんだ。生まれても煙を焚かずに、存在を
八咫は、表情を固くしてゆく。
「――邑長の娘、なんだな」
「生まれてすぐに、白玉に髪を触れさせた。梨雪の髪は『色変わり』しなかった。それで生まれてすぐに仙山に隠された」
「つまり、そういうことか」
「――済まない。本当に申し訳ない。俺は、梨雪を仙山の……麻硝の切り札から解放する為に、
「寝棲」
「梨雪の価値が大きい分、それに見合うだけの働きをする必要があった。生きて帰れるかは賭けだったが――俺は幸運にもそれを成しえた」
「そいつの歳は」
「――二十五になる」
八咫は、寝棲の背後で沈黙してから、小さく溜息を零した。
「寝棲、やめよう。結局、犠牲になるのは女達だ。どちらが
「八咫……」
「――ああ、でもなあ……」
「……ああ」
八咫は寝棲の外套を力いっぱい両手で握りしめた。瞼をぎゅっと閉じ、その背に額を打ち付けた。
「本音ってすげぇよな、信じられるか? 憎悪も殺意も、こんなに簡単に全身を支配するんだな。――誰かに、何かに叩きつけたいぶちまけたいとしか考えられねぇわ」
八咫はくつくつと笑った。
「――ほんっと、上手く行かねぇな。悪い。忘れてくれ」
「いや……本音を言ってくれてありがとう。――お前は、俺の事を赦さないでくれていい」
「――そう言ってくれると、助かる」
「その代わり、
「ああ。期待してる」
寝棲は背中に八咫の怒りを受け止めながら、手綱を引くと馬を速足で進めた。隊からやや距離を置きながら、二人を乗せた騎影は崖沿いを進んでゆく。
「
八咫は無言のまま寝棲の言葉に耳を傾ける。
「そも、夜見と
「こちら側から仕掛けた事だったのか」
「ああ」
「そりゃ迷惑な話だな」
「そうだな。――白の統治が起こってから、凡そ百万近い時が流れた頃だそうだ。戦は長引き、民は疲弊し、国境に程近い自国領から徐々に荒廃は進んだ。夜見の民の中にも、白皇に対する怒りが相当に降り積もっていたようだ。そこへきて、
八咫には不思議だった。これは食国の父親の話なのだ。食国自身が全く知らないと言っていた彼の父親は、死してなおその評価が大きく二分されて定まらないものらしい。彼を憎む者もあれば、彼の正統を今なお求める声もある。しかし、そのどちらも正しくはないのかも知れない。そしてそのどれもが彼を映し出す真実の側面なのだろう。
「――俺の怒りがどこへ流れるかも、いつか、天が決めるのか」
「ああ。その行き着く先が俺だったとしても、俺は不思議には思わないさ。――ただな、それで後悔だけはないようにしてくれ。怒りを力に変える事は出来るが、怒りに囚われて発露した願望は人間を修羅に変える。感情に振り回された時に、人は人ではなく
「――そうだな」
馬はやがて本隊の半ばあたりに合流を果たした。
「なあ、寝棲」
「なんだ?」
「月皇は、感情に振り回されて赤玉を異地に追い出したんかな」
寝棲は思いも寄らぬ言葉を聞いた気がした。顔だけは前を向いたまま「何故そう思った?」と問う。
「なんとなくな。だって赤玉も夜見の民なんだろ? 夜見なのか姮娥なのか、どう呼べば正しいのかはわからんが、奴等の祖先みたいなもんなんだろ?」
「あ、ああ」
「て事は、俺達にとっての白玉とは、関係性自体が全然違うんじゃねぇかなって」
「――確かに」
「最長命の祖先が神とされて、その力を最も強く受け継いだ月皇が白皇によって信仰の象徴から引き剥がされた。――でも、それは本当に可能なのか? 月皇は、白皇に従わなきゃならない程弱かったんか? あんな囲いみたいなとんでもないもんを作れるやつが?」
寝棲の背に、ざわざわとした恐怖が這い上がる。
自分の背に、ひたりと張り付いたこの少年が、かつて目にした事のないものの蓋を開けようとしているような、そんな予感があった。
――否、そうではないのかも知れない。本当は、そんな他人事ではないのかも知れない。もしかしたら、他でもない自分自身が、八咫という未知の化物を揺り起こしたのではなかろうか。
自分は何か、とんでもない事に手を貸したのやも知れない。
寝棲の思いに気付いてか否か、八咫は言葉を続けた。
「本当は、赤玉をこの国から異地へと放逐する事こそが月皇の目的であって、白皇や黄師はその目的に巻き込まれたんじゃねぇかな。もしかしたら、白玉との交換はあくまで
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