11 羽化
*
隊は半刻の後に、終に大本営――かつての
外壁に接した
――が、そこに麻硝の姿が見えるや否や、一気に場が静まる。
麻硝の表情は、常の如く淡い笑みを
怯えている、と言っても過言ではないかも知れない。
これが、国家転覆を企む衆の頭領たるゆえんか。
これまでの己の人生では見知る事のなかった統率の本質に、八咫は思わず胴震いした。
「八咫」
背後から呼ばわれ振り向けば、麻硝がこちらをじっと見ている。「こちらに」と声を掛けられ、八咫は砦の内郭の更に先へと
徒歩で麻硝が向かったのは、仙山大本営の正に中枢――氷珀城だった。
目の前に
が、そんな八咫を気に留める事もなく、麻硝はどんどんと先へ進んだ。気付いた八咫が慌ててその後を追う。麻硝は速度を変える事なく階段を上りきり、上階の一室に入った。
麻硝に続いて八咫が室内に踏み込むと、そこには大広間と思しきだだっ広い一室が広がっていた。そして八咫は――今度こそ本当に、口をぽかんと開けて完全に固まった。
八咫を硬直させたのは部屋の広さそのものではない。その広さに見合わぬ程の物質が、室内の床の上に、または卓子の上に、みっしりびっちりと積み上げられていた為である。
山だった。
文字通りの書籍の山が、部屋全体を埋め尽くしていたのである。
「うっ、うおおおおお⁉」
あまりの光景に思わず八咫が絶叫すると、その声が天井に反響して
「
八咫の声量に負けじとばかりに怒声が響き渡る。八咫が慌てて声の主を求めると、書籍の山の一つと、部屋の中央におかれた巨大な卓子の隙間を縫うようにして、背の曲がった爺が姿を現した。麻硝達と同じく、矢張り左手首に数珠を巻いている。こちらは
「――え、だ、だれ?」
「八咫、
「お、おう――わかったって、え、――ここの?」
「そう。ここの」
「え、これ、全部?」
唖然とした八咫に、麻硝はその比べる者のない美貌ににっこりと微笑みを浮かべて「うん」と言ってのける。
「そうだよ。全部だ。余す事なくね」
「おい麻硝、こんなちんちくりん連れてきて一体どういうつもりだ?」
ぎろりとするどい眼光を麻硝に向けた
「今度こそご期待に添いたいのは山々なのですが、師傅のお眼鏡に適うかどうかは、実際にやってみていただかない事には。僕のように浅学な者では判断が付きかねますので」
「そいつが例の、見た物全部を丸のまま暗記できるとかいう
「はい」
達は「ふん!」と鼻を鳴らしながら
「本当にそんなマネができるなら結構な事じゃがな。――しかしな、知識ちゅうもんは丸呑みしたところで意味はないんじゃ。理解して消化せねばそんなもんは丸ごと糞になって
極めて口の悪いその爺は、山の一角にあった本を一冊手に取り、手の上でぽん、と音を立てる。
「この七日の内に逃げ出したのが既に三人じゃ。この童もそうならねばよいがな」
「という事は、全員逃げましたか」
「ああ。あんなもん二度と儂の前に出すな。思い出すだけで腹が立つわい」
麻硝は苦笑しつつ八咫の背をぽんと押した。
本当に、女でも滅多に見ないような美貌だと八咫ですら思う。その面相に極上の微笑を
「まあ、そういう事らしいので、君には本当に期待しているよ。頼むね」
最初の三日は午前の内に逃げ出した。座っているだけでこんなに頭痛を感じたのは初めてだと、後に八咫はげっそりとしながら語った。逃走の
次の三日で、かなとカナを習得した。無論筆記のほうもである。その後が早かった。中達がひっくり返した山の中に
白と黒の間隙の奥には、世界の、人間の、思考と思想と感情が大海と天球の如く広がっていた。
文字を覚えると同時に、八咫はその場にある書を片っ端から眼に焼き付けていった。まだ意味を解していない文字も丸ごと飲み込んで暗記した。脳内に書を表象として叩き込むと同時に、文字の意味の理解を急いだ。意味を理解した
それは、凄まじい現象だった。
化けて行くのだ、見える世界が。
がらがらと音を立てるようにして、理解が、認識が、記憶が、全てが引っくり返って行く。新たな知見を得る
八咫の中の世界が、色も匂いも形も空間も変わってゆく。それは八咫自身を塗り変えてゆくという事だ。
それが己自身だと自覚していたものが次々に破壊されて、遥かに高い視座を獲得してゆく。
その愉悦は――
八咫の集中は他の追随を許さず、
それまでの彼ならば、彼の周囲に移り行く有りとあらゆる事象は、そのまま彼の眼底に映して視認して
そう、彼の心は、未だ耕されていなかったのだ。
理解とはそういう物だと思っていた。それが、書に触れる事でその認識自体を塗り替えざるを得なくなった。
初日に
八咫の眼から無邪気で無作為な光は失われた。その代わりに、深海の黒の如く、光の全てを余さず吞み込む、底知れぬ強欲がそこには芽吹いていた。常に心ここに有らずといった風体ではあったが、その心は穏やかだった。
邑を出奔したころ、彼は
八咫は、彼等残虐の者の考えている事が少し推察できるようになって、恐怖しなくなったのだ。
彼等には
「――つまり、絶対的な悪としか儂等には表現のしようがない
広間の書物の山の狭間で、幾度となく繰り返されてきた中達との問答の中で返された確認に、八咫は「うん」と頷いた。
二人は床の上に直に胡坐をかいて座り込んでいる。広げたままの書の隙間で、問答は日々唐突にはじまるのが通例となっていた。
「うん。行動原理はあるんだ。人であり「識」があるが故に、それからは逃れられない。もしそこに思考がないとしたら、それは
「
「――いや、それはちょっと違うな」
「なんじゃ、違うのか」
「俺は
「ほう」
「少なくとも、あの時俺が出会った白玉には明確な「識」があった。話に聞く限り、白玉に身体を明け渡した時点で、そこに器の「識」は発現されなくなるんだろ? ならあれは白玉本人の「識」だったって事だ。彼女は、すごくまともに会話してたよ。ただ、親父と八重みたいな喋り方だったけどな」
「喋り方か?」
「うん。邑の連中のとは違う」
「例えば?」
「そんなん急にやれ
「……成程、理解した」
「俺も家で喋る時はそれが移ってた。あの喋り方をしなかったのは、うちではお袋だけだったな。――話戻すけど、その「識」を人間の本質だと考えるなら、あれはもう、器だった人とは違うものなんだよ。肉体が生きてるから死んでるとはちょっと言い難いけど、あれはやっぱり死なんだろうな……。で、白玉本人の意識がそこにあるんだったら、五百年前に何があったのか知ってるって事じゃねぇかと」
「白玉に語らせるのが一番早いという事か」
「そういうことになる」
「そうか――じゃが、聞き出そうにも、その白玉の「識」は常時保たれているわけではないんじゃろうが?」
「そう、そこだ。白玉の「識」が常に明瞭だったなら、皆が参拝の時に言葉を聞いているはずだろ? でもそう言った話は聞かないよな?」
「そうだな。儂も生来の隠し故、実際の白玉に接触した事がないから何とも言えんが」
「――それについては、仮説が二つあるんだ」
「なんじゃ、言うてみい」
「まず、器の精度」
「器の?」
「一昨日、器に関する文献を見た。器になれるのは女だけで『色変わり』をしない者とされているが、それは
「成程な、一理ある。もう一つは?」
「白玉の本体がどれか、という話だ」
中達は「ほう」と両の眼を見開き、自身の
「あれか。
「そう。現状白玉は
「白玉の「識」は三寶の間を自由に行き来できるという事か」
八咫はこっくりと頷いた。
「あっちこっちに「識」が分散されて同時に存在してるって考えるよりは、その方がしっくりくるだろ?」
「確かにな」
遠く暗く深い眼の奥に、静かに
「ここから導き出されるのは、白玉の「識」は、『環』を通って移動可能なんじゃないかって事だ」
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