11 羽化


          *


 隊は半刻の後に、終に大本営――かつての氷珀ひょうはくとりでへと帰投を果たした。

 外壁に接した楼門ろうもんを抜けて、一団は続々と砦の内に進み行く。八咫は麻硝の隊に同行していたからか、先頭集団の一人として入城が叶った。歓声と悲鳴、嗚咽と怒声が其処彼処で混じりつつ八咫の鼓膜と心を揺さぶる。帰還の叶った兵と、そうでない兵の家族。その断絶がそこにあからさまに現れていた。


 ――が、そこに麻硝の姿が見えるや否や、一気に場が静まる。


 麻硝の表情は、常の如く淡い笑みをたたえている。殊更に威圧を与えようなどという意図は全く見て取れない。だのに、民衆は明らかに畏敬の念を以て馬上の彼を仰ぎ見ている。

 怯えている、と言っても過言ではないかも知れない。

 これが、国家転覆を企む衆の頭領たるゆえんか。

 これまでの己の人生では見知る事のなかった統率の本質に、八咫は思わず胴震いした。

 外郭がいかくは主に非戦闘員とおぼしき民の生活の場となっているように見受けられた。小規模ながら市らしきものもある。次いで、内側の城壁を抜けた。内郭ないかくには兵舎、厩舎きゅうしゃ、武器庫、鍛冶場と思しき工房などがのきつらねており、生活の場とは明確に区切られているのが一目で理解できた。

 寝棲ねすみは宣言の通り馬を厩舎へ入れると途端に駆け出して行った。八咫やあたは複雑な思いでその背中を見送る。理解はしたが、納得は出来ない。もっと言うならば、理解しようと努めている最中さなかであるだけで、受け入れる事など到底できるものではないのだ。しかし――邪魔をしたいわけではない。寝棲の気持ちが痛いほどわかるからこそ、八咫は苦しかった。


「八咫」


 背後から呼ばわれ振り向けば、麻硝がこちらをじっと見ている。「こちらに」と声を掛けられ、八咫は砦の内郭の更に先へといざなわれた。


 徒歩で麻硝が向かったのは、仙山大本営の正に中枢――氷珀城だった。


 目の前にそびえたつ巨大な石造りの城に向かって、一歩一歩近付いてゆくだけで凄まじいまでの威圧感に襲われる。特に尖塔を見ていると、ふとした瞬間に天から落ちて来るのではないかと得も言われぬ不安にさいなまれる。その不安から目が離せずに、八咫は城を見上げたまま、思わずぽかんと口を開けて固まった。

 が、そんな八咫を気に留める事もなく、麻硝はどんどんと先へ進んだ。気付いた八咫が慌ててその後を追う。麻硝は速度を変える事なく階段を上りきり、上階の一室に入った。

 麻硝に続いて八咫が室内に踏み込むと、そこには大広間と思しきだだっ広い一室が広がっていた。そして八咫は――今度こそ本当に、口をぽかんと開けて完全に固まった。

 八咫を硬直させたのは部屋の広さそのものではない。その広さに見合わぬ程の物質が、室内の床の上に、または卓子の上に、みっしりびっちりと積み上げられていた為である。


 山だった。

 文字通りの書籍の山が、部屋全体を埋め尽くしていたのである。


「うっ、うおおおおお⁉」


 あまりの光景に思わず八咫が絶叫すると、その声が天井に反響してうなりを上げた。と、


五月蠅うるさいわ‼ このわっぱがァ‼」


 八咫の声量に負けじとばかりに怒声が響き渡る。八咫が慌てて声の主を求めると、書籍の山の一つと、部屋の中央におかれた巨大な卓子の隙間を縫うようにして、背の曲がった爺が姿を現した。麻硝達と同じく、矢張り左手首に数珠を巻いている。こちらは虎目とらめ石だ。

「――え、だ、だれ?」

「八咫、中達ちゅうたつ師傅しふだ。白文はくぶん、ひらがな、カタカナ、全ての文字に精通しておられる。今日から師傅について学びながら、ここの書の解読と理解につとめてほしい」

「お、おう――わかったって、え、――ここの?」

「そう。ここの」

「え、これ、全部?」

 唖然とした八咫に、麻硝はその比べる者のない美貌ににっこりと微笑みを浮かべて「うん」と言ってのける。

「そうだよ。全部だ。余す事なくね」

「おい麻硝、こんなちんちくりん連れてきて一体どういうつもりだ?」

 ぎろりとするどい眼光を麻硝に向けたたつに、仙山の主はただ静かに微笑んだ。

「今度こそご期待に添いたいのは山々なのですが、師傅のお眼鏡に適うかどうかは、実際にやってみていただかない事には。僕のように浅学な者では判断が付きかねますので」

「そいつが例の、見た物全部を丸のまま暗記できるとかいう砂利じゃりか?」

「はい」

 達は「ふん!」と鼻を鳴らしながらきびすを返した。

「本当にそんなマネができるなら結構な事じゃがな。――しかしな、知識ちゅうもんは丸呑みしたところで意味はないんじゃ。理解して消化せねばそんなもんは丸ごと糞になってり出してしまいじゃ」

 極めて口の悪いその爺は、山の一角にあった本を一冊手に取り、手の上でぽん、と音を立てる。

「この七日の内に逃げ出したのが既に三人じゃ。この童もそうならねばよいがな」

「という事は、全員逃げましたか」

「ああ。あんなもん二度と儂の前に出すな。思い出すだけで腹が立つわい」

 麻硝は苦笑しつつ八咫の背をぽんと押した。

 本当に、女でも滅多に見ないような美貌だと八咫ですら思う。その面相に極上の微笑をたたえたまま、麻硝は八咫に首肯して見せた。

「まあ、そういう事らしいので、君には本当に期待しているよ。頼むね」



 八咫やあたちゅうたつについて文字を学び始めてから三月が過ぎるのはまたたく間の事だった。

 最初の三日は午前の内に逃げ出した。座っているだけでこんなに頭痛を感じたのは初めてだと、後に八咫はげっそりとしながら語った。逃走のたびに首根っこを掴まれ引き戻された。初日はばいらん、二日目は寝棲ねすみ、三日目にはとうとう中達に捕まって、そこでようやく諦めたといった方が正しい。

 次の三日で、かなとカナを習得した。無論筆記のほうもである。その後が早かった。中達がひっくり返した山の中に白文はくぶんの字引があったのである。そこから八咫は、白文を文字通り飲み込むように暗記していった。理屈が分かり出した後の八咫は、文字通り寝食を忘れて書に耽溺たんできした。


 白と黒の間隙の奥には、世界の、人間の、思考と思想と感情が大海と天球の如く広がっていた。


 文字を覚えると同時に、八咫はその場にある書を片っ端から眼に焼き付けていった。まだ意味を解していない文字も丸ごと飲み込んで暗記した。脳内に書を表象として叩き込むと同時に、文字の意味の理解を急いだ。意味を理解したはしから、頭脳に貯め込んだ白と黒には色合いや空間や時間が付加されてゆく。


 それは、凄まじい現象だった。

 化けて行くのだ、見える世界が。

 がらがらと音を立てるようにして、理解が、認識が、記憶が、全てが引っくり返って行く。新たな知見を得るたびに、思っていたものが全く違った物へと変貌する。思い込みが瓦解する。そして、理解できたと思った物も、更に新たな智を学び取る事で再び瓦解して更に新たな姿を得て行く。

 八咫の中の世界が、色も匂いも形も空間も変わってゆく。それは八咫自身を塗り変えてゆくという事だ。

 それが己自身だと自覚していたものが次々に破壊されて、遥かに高い視座を獲得してゆく。

 その愉悦は――たまらなかった。


 八咫の集中は他の追随を許さず、仙山せんざんに至って一月ひとつきを越える頃には、中達は彼を見守る事以外にする事が無くなっていた。何かしら問われれば答えたが、それ以上の事を語るのはよした。この少年には情報を丸のみにして仕舞い込める頭脳がある。字義を理解する能がある。それを嚙み砕いて解釈する才能がある。それを見抜いたのである。

 二月ふたつき目に差し掛かる頃には、その目付きが変わった。姿勢が変わった。動作速度がゆったりと緩慢かんまんになった。すれ違う者全てが、あれは本当に八咫であったかと我が眼を疑う程、周囲に与える心象は変わっていった。それは成長と一言で片付けられるものとは少し違った。手触りで表現するならば、羽化に近い変容であった。

 それまでの彼ならば、彼の周囲に移り行く有りとあらゆる事象は、そのまま彼の眼底に映して視認してしまいだった。見た丸のままを飲み込んでしまえるという特性が彼をそうさせてしまっていた。理解を深めるという意味に到達する事がないまま大量の記憶が蓄積されてゆくだけに留まっていた。

 そう、彼の心は、未だ耕されていなかったのだ。

 理解とはそういう物だと思っていた。それが、書に触れる事でその認識自体を塗り替えざるを得なくなった。


 初日にたつの言った通り、知り得た全ては咀嚼そしゃくしなければ自身の血肉にはならないのだと肌身で理解したのである。


 三月みつきを過ぎる頃には、彼は世を俯瞰ふかんで観測するようになっていた。

 八咫の眼から無邪気で無作為な光は失われた。その代わりに、深海の黒の如く、光の全てを余さず吞み込む、底知れぬ強欲がそこには芽吹いていた。常に心ここに有らずといった風体ではあったが、その心は穏やかだった。

 邑を出奔したころ、彼は月皇げっこうが理解出来ず、黄師こうしには恐怖を抱いていた。絶対的な支配被支配構造を動かせぬ無力に絶望し、或いは殺意を含めた憎悪を持て余した。しかし今彼の眼前に開かれた知見は、「分からない事による恐怖」は「分かる事により恐怖ではなくなる」という実感を与えていた。

 八咫は、彼等残虐の者の考えている事が少し推察できるようになって、恐怖しなくなったのだ。

 彼等には夫々それぞれに目的があり、求める物があり、回避を余儀なくされる弱点があり、守りたいものがある。それを理解できれば、それは恐ろしい物でも絶対的な物でもなくなるのだ。


「――つまり、絶対的な悪としか儂等には表現のしようがない如艶じょえんも、「識」と「論」があるが故に、人智を超越する事はあたわない。故に恐れる必要はないと、そういう事か」

 

 広間の書物の山の狭間で、幾度となく繰り返されてきた中達との問答の中で返された確認に、八咫は「うん」と頷いた。

 二人は床の上に直に胡坐をかいて座り込んでいる。広げたままの書の隙間で、問答は日々唐突にはじまるのが通例となっていた。

「うん。行動原理はあるんだ。人であり「識」があるが故に、それからは逃れられない。もしそこに思考がないとしたら、それはけだものの本能と同じようなものに突き動かされているだけって事になるから、それに大きな暴力が伴わない限り、回避できない脅威とはなり得ないんだよ。俺達にとってあいつらは強大だけれど脅威ではないんだ。人間だから。だけど月人にとって白玉は脅威なんだな。死屍しし散華さんげは問答無用で不死だった奴等の命を奪うんだから。そんで、俺達はその手先みたいなもんだから、まとめて脅威になる。結果、異常事態が発生した時に、えいしゅうは邑人ごとまとめて脅威になっちまった。だから黄師は俺達に襲い掛かったし、多分員嶠いんきょうの時もそうだったんだろうなって」

なるほどなぁ――では、白玉は知性無き脅威に類するというか?」

「――いや、それはちょっと違うな」

「なんじゃ、違うのか」

「俺はさんぽう合祀ごうし白玉はくぎょくと一度きりしか会ってないけど、彼女とは会話ができたんだよ」

「ほう」

「少なくとも、あの時俺が出会った白玉には明確な「識」があった。話に聞く限り、白玉に身体を明け渡した時点で、そこに器の「識」は発現されなくなるんだろ? ならあれは白玉本人の「識」だったって事だ。彼女は、すごくまともに会話してたよ。ただ、親父と八重みたいな喋り方だったけどな」

「喋り方か?」

「うん。邑の連中のとは違う」

「例えば?」

「そんなん急にやれわれたかてようせんわ」

「……成程、理解した」

「俺も家で喋る時はそれが移ってた。あの喋り方をしなかったのは、うちではお袋だけだったな。――話戻すけど、その「識」を人間の本質だと考えるなら、あれはもう、器だった人とは違うものなんだよ。肉体が生きてるから死んでるとはちょっと言い難いけど、あれはやっぱり死なんだろうな……。で、白玉本人の意識がそこにあるんだったら、五百年前に何があったのか知ってるって事じゃねぇかと」

「白玉に語らせるのが一番早いという事か」

「そういうことになる」

「そうか――じゃが、聞き出そうにも、その白玉の「識」は常時保たれているわけではないんじゃろうが?」

「そう、そこだ。白玉の「識」が常に明瞭だったなら、皆が参拝の時に言葉を聞いているはずだろ? でもそう言った話は聞かないよな?」

「そうだな。儂も生来の隠し故、実際の白玉に接触した事がないから何とも言えんが」

「――それについては、仮説が二つあるんだ」

「なんじゃ、言うてみい」

「まず、器の精度」

「器の?」

「一昨日、器に関する文献を見た。器になれるのは女だけで『色変わり』をしない者とされているが、それは異地いちの帝からそう伝えられたからだとしか書かれてなくて、男では本当に駄目なのかは明言がないんだが、まあそれは置いておいて――その歴代でも、完全に『色変わり』しない奴なんかほぼいなかった。半分から若干の白色化は許容範囲だったんだ。つまり、死屍しし散華さんげをより強力に体内に取り込めた者かどうかで白玉の「識」の顕現けんげんが変わる――という見方」

「成程な、一理ある。もう一つは?」

「白玉の本体がどれか、という話だ」

 中達は「ほう」と両の眼を見開き、自身のあごひげを撫でた。

「あれか。ほうの分割のいずれにその主を置いているか、という話じゃな?」

「そう。現状白玉はさんぽうに分かれている。そのどれにも白玉の「識」は顕現しうる。えいしゅうで俺の前にも表れたんだからな。で、麻硝から蓬莱の蔡に確認してもらったが、蓬莱の『顔』にも「識」の現れは発生したことがあるそうだ。――だったら、方丈の『真名』にも顕現しうるって事になる」

「白玉の「識」は三寶の間を自由に行き来できるという事か」

 八咫はこっくりと頷いた。

「あっちこっちに「識」が分散されて同時に存在してるって考えるよりは、その方がしっくりくるだろ?」

「確かにな」

 遠く暗く深い眼の奥に、静かに揺蕩たゆたう淀みがあった。



「ここから導き出されるのは、白玉の「識」は、『環』を通って移動可能なんじゃないかって事だ」


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