25 水滴


          *


八咫やあた、少しいいかい?」


 その早朝に、八咫の部屋を一人訪れたのは麻硝ましょうだった。意外な顔の訪れに思わず八咫は手にしていた水筒を取り落とした。幸いにもかがんで荷造りをしていたので筒を割ることもなく、また中身の水も左程ぶちまけずに拾い上げる事ができた。

「急にどうした? ばいらんは? 大将が一人でうろついてていいんか?」

「少し君と話がしたくてね。支度はもう整っているかい?」

「ああ、それならもう済んでるが……」

 八咫の言葉に嘘はなく、半刻前に身支度も済ませていた。身の回りのものの整理も処分も全て済んでいる。

 今日、八咫は仙山を離れる。極秘の任務になるため、道中の見送りと付き添いは梅蘭一人に任された。それも一度馬を駅舎で変えるまでと決めている。そこから先は本当に一人きりでの道行みちゆきになる。


 仙山にとっても、これは大いなる賭けだった。


 支度が済んでいるならば、と、麻硝は八咫を外出に誘った。いぶかしむ八咫に、麻硝はただ笑って見せた。

 麻硝に伴われて向かった先は、近くの小高い丘だった。名もなき高台に立てば、仙山の全てが見渡せる。そしてその遠景には大き星を背負っていた。

「いつ見てもいいな、ここは」

 八咫が言うと、麻硝は意外そうな顔をした。

「そんな風に思っていたのかい?」

「そりゃあな。こんな極寒の地でも人間の暮らしは成り立つんだって仙山が俺に教えてくれたんだぜ。ほら、また一つ煙が上がった」

 八咫が差す方を麻硝も見る。外郭の内で、朝餉の支度がそこかしこで始まっているのだ。

「ここから人間生活があるのが見て取れる。きっとこれから先も、ここは守られる。そう思えるんだ。――俺は、仙山に来れて良かった」

「ねぇ、八咫」

「ん?」

「――にえの役に、後悔や不満はないかい」

 常になく直截ちょくさいな麻硝の問いかけに、八咫は噴き出した。

「今更それは言いっこなしだぜ、麻硝。何もこのんで死に急ごうとする奴なんざいねぇだろうが。――でもなぁ、それは器になった女達だって同じ事だし、それ以外の戦や病で死んだ奴もみんな同じだ。どんな役があろうが、意味があろうがなかろうが、死は死だ。で、俺はそこに意味を待たせてもらえて、選ぶことが許された。ただそれだけだよ」

「そうか。いや。そうだな。お前の言う通りだ。愚問だったね」

 八咫はにやりと笑って麻硝の顔を覗き込んだ。

「そういうお前こそ、俺に言っときたい事があったんじゃねぇか? だから、こんな朝っぱらからこんなとこに連れて来たんだろ?」

 八咫の返しが考えの埒外らちがいだったのか、麻硝は一瞬逡巡したようだった。ややあってから、麻硝は風に嬲られて少しほつれた自身の髪を後ろに撫で付けながら口を開いた。

「うん。君とはこの事について、少し話しておきたかったんだ。――ねえ八咫。僕はね、為政者というものは、風を読まなければならないものだと考えているんだ」

「風?」

「為政を志す者が抱く大志という物は、実は民意の賛同の有無とは関係がないんだ。今ここに見えている通り、民には日々の暮らしがあり、天下国家について常に思想している訳ではない。それは分かるね?」

「ああ」

 かつてえいしゅうにいた頃の自身もそうであったから、それは十二分に分かった。あの頃の自分は何も考えず、何にも期待せず、ただ鬱屈として日々を流していただけだった。

 麻硝の眼に仙山が映る。

「為政者がどんなに優れた国家像を描いて示そうが、それは飽くまで景色に過ぎない。また、その像には必ず、その施政外――つまり統治の外にある異国や、そこに生きる民衆が、少しずつ水滴を垂らすようにして波紋を及ぼしてくる。国家はその影響をまぬかない。目指した国の像を如何いかに結ぼうとしても、必ず揺らぎが生まれる。為政者の目指した大志は、形を成すまでに要する十分な時間を与えられないのが常なんだ。民意とはそれ程容易たやすく移り変わる。そうした時に、かつて民意を得たはずの大志は、排除すべき旧時代の弊害として駆逐くちくされてしまうんだ」

「――民衆が良しとする価値観は常に移り変わるから、ってことだよな」

「そうだ。しかし排除を恐れて民意におもねれば、それはすでに為政を委ねられた者としての資格を失しているだろう。しかし権力というのは面白いもので、転落し始めた為政者程守ろうとする民意が現れる。これこそが己の国家であるという刹那の虚像から逃れられない思考硬直者が、揺らぐ国家の不安から逃れるために為政者を守ろうとするのだよ。ここから風を読み損ねた為政者と、変容排除の保守思想層による癒着がはじまるのだね」

 二人は眼下に広がる仙山から上空へと視線を向けた。星々は群れて惑い、天球を薄明るく染める。八咫と麻硝、二人の影が伸びる。

 八咫が、仙山が一の参謀と呼ばれるようになるまでに要した時間は、僅か一年半。そしてこの短い期間の間に、彼の身体も大いに成長した。

 五尺ほどしかなかった上背は、既に六尺に近い。まもなく十五の年を数えるが、つまりまだまだ成長の途上にある。ここで別れた後も大きく様変わりするだろう。

 その成長を間近で見られない事は、僅かばかりに惜しいと麻硝に感じさせた。それ程、健やかに豊かに強く育つ青年というのは生命力に満ち溢れ、生きるという事の尊さを周囲に知らしめてくれた。

 その彼を、贄という死の宿命に向かわせるという皮肉を為す己に、麻硝はそっと嗤った。

「保守が変わらぬ権力を求め拘泥し、自国外から垂らされる水滴を拒絶した瞬間から、国家の腐敗は始まる。為政者はその事を理解した上で国政にのぞまなくてはならない。己は只の使い捨ての駒に過ぎないのだと」

 麻硝は自身の左掌を上向けて目の前に掲げた。

「ねえ、八咫。僕はね、大志は成らないものだと考える。成れどすぐに瓦解するものだと。そうして国家も代謝の果てに生死を繰り返してゆくのだと。永遠に残るものなど存在しない。それでも微かに残る何かがある。それは為政者が為すのではなく、国家外全ての民をも含んだ、全ての人間の心が為すんだよ。その留まる事を知らない、大地に吹き荒ぶ風をこそ民意と呼び――」

 麻硝の眼は、掲げた左掌の先に、天空に浮かぶ青き大き星を見据えていた。そして、掌を握りしめる。


「その民意の表出をこそ、人は天意と呼ぶのかも知れないね」


 八咫は、丸く満ちた大き星を見た。一月に一度天空から姿を消す青い大き星は、しかし常に天の一点に留まり動く事がない。目には見えずとも恐らくそこに常にあるのだろう。その姿は、正に麻硝が語る国の姿そのものだ。青く輝く時期と闇に包まれる時期。それが交互に表出して見えるが、国そのものは常に動かない。

 麻硝の左拳を見詰めながら、八咫は彼が言う、国家に反旗を翻し、体制に挑むという事の意味を考えた。

 挑むからには国に対して異議を申し立てるのが先であり正統な順序だろう。仙山の場合はそれが白玉維持の為の支配構造の撤回だった。そしてそれを聞き入れる事が出来ないというのが月朝の都合だった。故に交渉は決裂した。その前提がある。

 結果、月朝国家体制自体の瓦解を求める事に指針は定まった。

 しかしそれは、決して五邑の総意ではない。

 五邑全体で見た場合に、方丈ほうじょうという存在がその意義の前提を覆しているという事実があった。この構造を受け入れた層が邑内にあるという事実は、取りも直さず月朝の選択を邑が肯定している事になる。

 また、強大過ぎる支配体制に対して反旗を翻す事の損益を検討した結果、その支配構造自体を邑人に伏せ、反逆の為の種子を五百年守り続けたえいしゅうという形もあった。

 真っ向から挑み焼き尽くされた員嶠いんきょうも、他勢力と結びついて生き永らえたたい輿も、半従半逆を貫く蓬莱ほうらいもある。その全ての考えは全くの同質ではなかった。が、少なくとも方丈ほうじょう以外では白玉維持を撤回するという指針においては概ね同意が取れた状態だ。

 規模の大小はあれど、総意を取りまとめる事の難は、月朝であれ五邑であれ同質なのだ。

 八咫が仙山に加わって以降も、それ以前においても、麻硝が最も腐心したのはその点だろう。

 これから挑む白玉奪還も大義ありきの決起ではあるが、仙山にとっては正義であろうが他においては決してそうではない。よしんばこの策が成功しようが失敗に終わろうが、それで正義と悪を線引く事はできないのだ。

 正しい方が残るというものでもない。間違っていても許容される事がある。それは、それを受け入れる民があるからだ。しかし同時にそれを赦さない民もある。外部からそこに風を吹き込む事によって動かされる物もあるだろう。


 白玉は正に、月朝に滴り落ちた水滴なのだ。


 外部から如艶じょえんが引き入れたはずのその水滴は、いま大いなる毒となって国中に広がり、その波紋はやがて停戦を為したはずの妣國ははのくににも及ぶだろう。如艶じょえんえがいたであろう国家像は、既に大いに歪んでいるのだ。

 そう。為政を為す者には大なり小なり目指すべき国の像がある。それは時と共に劣化してゆく事を前提としたものだとしても実現可能な部分から時をかけて形にしてゆかねばならない。それが如何にいびつであろうと、少しずつ積み上げない限り目指した国には近付けない。一歩進むごとに、形を成した部分から過去の遺物となり果てていようと。時の流れに旧弊とそしられようが、はじめにその国の像を見た為政者だけは、その幻の国を裏切ってはならないのだ。

 如艶じょえんも為せる部分から形成を進めたのだろう。そして進んでいるのだろう。根から水滴によって腐食が進められていようとも。

 彼は、為政者であるが故に、歩みを止められないのだ。

 八咫は、風に煽られた髪を抑えてから、紐で荒く一本に結わえた。

「なあ麻硝。なら何故為政者は風を読まなきゃならない? 描いた国家像は捨てられない。歩みを止める事は出来ない。しかし腐敗も止められない。ならば風を読んだ所で行動も変えられないじゃないか。保身の為に大志を棄てて民衆の声に日和った時点で、それはすでに為政者の任ではなく、天意から見放されているとお前は考えるんだろう? じゃあどうしてだ」

 八咫の問いかけに、麻硝は寂し気に笑った。



「自身の退しりぞく時を見極める為に、だよ」


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