16 目覚め


          *


 果たして二月ふたつきの後、文月ふみづきの頭のとある日。保食うけもちくぐいに後の事を託し、仙山せんざん大本営である氷珀ひょうはくへ帰還すべく馬を走らせていた。麻硝ましょうから指示された、寝棲ねすみ達の婚礼の式に同席するためである。


 寝棲がえいしゅうへ侵入し、さんぽう合祀ごうしの確認を果たしたのが昨年の葉月はづきの事だ。あれから丁度一年がめぐった事になる。

 馬を走らせながら、保食はちらりと自身の右隣に視線を向けた。同じく馬を走らせているすいどろが視線に気付いて、にこりと微笑みを返す。

 何故か今回の帰投に限り、水泥も共につけるようにとの但し書きがあった。故にこうして彼も同行している。

 これに関しては、文を読んだ水泥本人が最も困惑していた。同行の指示はあったが、肝心の理由が記されていなかったからである。

 半年に七日は蓬莱ほうらいへ戻らなくてはならない保食は、与えられた役務次第では、大本営に帰投できるのが年に二月ふたつきに満たない事もざらにある。


 黄師こうしを捕らえ、露涯ろがいに繋ぎ、これから情報を聞き出す事。

 年に二度、必須となっている蓬莱ほうらいでの滞在。

 この双方は、保食の他に代えが利かない役務だった。


 実のところ、保食は長く戦場から離されていた。更には、識字者ではないため、伝達の為に文を書くにも一々水泥に頼らねばならない。そう、保食は文字を習い得ない立場だったのだ。


 有体に言えば、役に立っている実感が長く得られていない。


 活かされたい、具体的に実力を発揮したい、役に立っている実感が欲しい。そんな、極めて人間らしい渇望が叶わない。

 自然、自分自身に対する信は損なわれていった。

 一兵卒である以上、力の誇示などつつしむべきであり、本来望むべきではない。そんな事は百も承知だったが、承認を求める感情は理屈で制御できるものではない。


 ――氷珀から物理的に離れていればいる程に、保食の執着ばかりがいびつつのる。


「保食?」

 馬で並走する水泥が、名を呼びながらうかがうような視線を向ける。沈んだ表情でも浮かべていただろうか。保食は気付いて少し微笑むと「何でもない」と、頸を横に振った。常の風防付の青い肩掛けで襟元をおおいなおした。

 水泥は、蓬莱先々代邑長の外孫にあたる。姓は長と同じくさいだが、それを知る者は少ない。保食の五つ上の彼は生来の顔の痣を気にしてか、酷く対人を避ける傾向にあった。が、それが却って生来急峻きゅうしゅんな性状の保食とぶつからず、相性良く働いた。保食が一番懐いたのが彼だった。保食が赤子の時分から世話をしていたのだから、当然と言えば当然の事ではある。『色変わり』なき娘として生まれた彼女の扱いは蓬莱にとって最優先事項と言っても過言ではない。保食に関わる全ての面において、彼女を支えるのに彼以上の適任者はなかった。

 保食が仙山せんざんに加わりたいと我を通した時も、彼は何の迷いもなく保食についてきた。彼の人生をわたくししている認識は保食にもあったが、彼女にとって彼は掛け替えのない心の拠り所であり、生まれた時から欠かす事のできない自由の為の翼なのだった。


 だからこうして、ずっと共に走っている。

 恐らくは、これからもずっと。

 そう、名状しがたい確信が保食にはあった。

 

 露涯ろがいを出立して間もなく、保食は進路を南に変えた。事前に伝えておいたのは水泥一人だけ。完全なる独断の行動であった。

 露涯は州の北にのぞむ。馬で一日駆けた頃には旧たい輿を有した虹江こうこう県に近付いた。

 先年の旧たい輿邑長邸地下の書物回収作戦はばいらんの指揮により実行された。これと同時に決行された水源汚染作戦は、不死石しなずのいしの収奪と黄師こうしの分散が目的だったが、最優先は梅蘭の作戦の成功である。故に、決してその場に姮娥こうがを近付けてはならなかった。この時だけは、保食も梅蘭の指揮下に入り、陽動作戦の陣頭指揮を執る事を許された。

 華州の州城は玲雨れいう城。その位置は華州というよりも、寧ろその更に下――赤玉のいただきと呼ばれた信仰と黄師の本拠地、瓊高臼にこううす山の裾野に程近い。

 その地理的特徴により、山に留まる黄師本隊の玲雨城に対する護りは鉄壁に等しかった。瓊高臼にこううすの頂から幾分か下がった中腹に水源があり、保食の麾下数名もその場で一月ひとつきの間は潜伏していた。それらは玲雨に襲撃をかけた保食の本隊とは別動させていた。

 

 結論から言えば、水源近くに潜伏させていた麾下は保食の下へ帰投できなかった。

 

 その事を知ったのは、落ち合う手筈となっていた地点に彼等が姿を見せなかったからである。そこでようやく保食は気付いた。

 南から、瓊高臼にこううす山、玲雨城、旧たい輿、露涯はほぼ直線状に連なる。その間際を人目に付かぬように保食隊は駆け抜けたのだが、虹江こうこう県の近くを通った折に、得も言われぬ焦燥と不快感を覚えた事があった。そして後からその正体に思い至ったのだが、時既に遅く、帰投を急ぎ本隊を逃がさねばならなかった。

 不快感を覚えたそこには、遠く古くに朽ちたと思しき集落があったのだ。

 屋根も壁も落ち、響くのは捨て置かれたおけが風に転がされる乾いた音のみ。ただそこに風穴を通るような、ひゅうひゅうとした音が紛れていたのである。


 あの特徴的な音には覚えがあった。


 保食は、それが確かにそうであったのかを確認したかったのだ。遅きに失しているだろう事は承知の上で、一縷の望みに賭けたかった。

 馬を走らせる事一刻半。囲いの内である為この辺りにも日没がある。薄暗くなりかけた中、目的の朽ちた集落に辿り着くと、二人は馬から降りた。崩れた壁の内に馬を繋ぎ辺りを見回す。しばらく歩いてから、水泥が保食の腕を掴んだ。無言のまま彼が指さす家を見ると、戸口に黒い汚れがあった。保食は眉間をしかめながら頷き、二人でその戸を潜った。


 果たして、その家内のくりやには五体の遺体が転がっていた。


 全身からからに乾き、骨と皮の例えに相応しく痩せ細っていた。そのいずれにも苦悶の表情が残っている。仙山せんざんの装備を纏っていたが、死屍しし散華さんげを練り込んだ散華さんげとうの持ち合わせはなかった。保食はちっと舌打ちする。刀だけ持ち去られたのだ。

 水泥が一体のかたわらに膝を突いて、その手首に巻かれた数珠を外した。

「保食」

 名を呼びながら水泥は保食に数珠を手渡した。透き通った緑。橄欖かんらん石の数珠だ。

「ああ。野火斗のびとだ」

 数珠の主である麾下の名を口にすると、保食は目を固く瞑って数珠を額につけた。他の者達も、まだ辛うじて顔の見分けがつく。水泥は黙って他の者の手首に巻かれた数珠を集めていった。家族に返してやるためだ。水泥自身の左手首にも、内に虹の煌めきを湛えた水晶の数珠が巻かれている。

「やはり――食血じきけつか」

 遺体の様子を見て保食はそう断じた。

 それは妣國ははのくにの一種族である。薜茘多へいれいたの民だ。食血はその名の通り血のみを食する。他は身体が受け付けぬ造りになっている。妣國ははのくにを脱したまつろわぬ民が境界を超えることはある。しかしここまで南下してくるなど、本来あり得ない。

 そして、保食の行方知れずとなった麾下は全員で六人。

「まさか、巣夫すふが……」

 保食が重い溜息と共に、その場にない顔を思い起こした。麻硝ましょうの里とは違う集落から仙山に参加した男だった。隊に加わり日は浅かったが、気の良い男だった。

「まだ、そうとは決まらない。周りを見てみる?」

「――いや、いい。あまりここにも長居はできない。麻硝に不審に思われる。ここにも黙ってきたから、早く戻らないと」

「じゃあ、数珠は内緒で家族に返すの?」

「うん」

 苦渋の決断である事は水泥にも承知の事だったので、彼はそれ以上言葉を重ねなかった。二人は皆の手を胸の上で重ね合わせ、合掌をすると戸口を潜った、


 ――時だった。


 保食も水泥も反射的に戸外へ飛び退すさった。二人がその間際までいた場所にざっと砂を蹴る音と共に着地した影がある。保食と水泥は靴底をすべらせながら、即座に身をかがめ見返った。そこに降りた影の主の顔を見止めるより早く二人は懐の散華さんげとうを抜いていた。

 眼から血の涙を流す男の姿は正しく幽鬼。その手に握るのは二人と同じく――仙山で打たれた散華刀であった。


「――大姉」


 男は巣夫すふだった。苦悶の表情を浮かべながら、此方こちらが誰かを視認した後も、巣夫すふは振り上げた散華刀を下ろす様子がない。

巣夫すふ。どうしてこんな」

「大姉こそ、どうして今更戻った」

「――お前達の身を案じたからに決まってるだろう!」

 巣夫すふは喉の奥を鳴らしながら、自身の頭を鋭い爪の伸びた手でむしる様に掴んだ。

「こんなっ、こんな姿、見せたくはなかったっ」

「一体、どうしてしまったんだ。仙山にいたころは、こんな事なかったじゃないか」

 水泥の問いかけに、藻巣夫は頭をふる。



「頭が、頭がきしんでいう事を聞かないんだっ……! 目覚めが、目覚めが始まったんだ、間違いない……っ」



「目覚め……?」

 巣夫すふは突如絶叫した。刀を振り上げ保食うけもちの前へその身をおどらせる。保食と巣夫すふの間にすいどろが割り入り刀を受けた。想定外の剛腕に、水泥の足が、ごぼり、と音を立てて土を割って沈む。

「うむっ……!」

 うめき声と共に、水泥の表情が歪み、額に青筋が浮く。これは――本気だ。

 妣國ははのくにの民は常人ならざる者共だ。月人つきびととも五邑ごゆうの民とも異なる。特にその膂力差は比較にならない。

水麒すいき!」

 名を呼んだ次の瞬間、水泥の身体が右後方に吹き飛ばされる。巣夫すふに胴を蹴り飛ばされたのだ。壁にその背を叩き付けられた水泥の身は、ずるりと地に崩れ落ちた。保食が柄を握りなおして向き合うや否や、左右から更に二人の男が姿を現した。

「なっ」

 容貌は巣夫すふに近い。よもや食血じきけつの仲間と行動をいつにしているとは想定していなかった。その二人も散華刀を手にしている。麾下から奪ったものだろう。食血と一対三の切り合いは、いかな保食と言えど流石さすがに分が悪過ぎる。代わる代わるに切りかかる物を弾き返しながら、何とか水泥から三人を離そうと必死に間合いを取り、壁門から表に飛び出た。

 左右から同時に切りかかられ、一方を刀の峰、一方を籠手で受けるが、どしりと重い衝撃で両の上肢がびりびりとしびれる。更には、前方から苦しい顔をした巣夫すふが刀を構えて歩み寄ってくる。

 ――ああ、これは駄目だ。

 保食が覚悟をした刹那だった。



「しゃがめ‼」



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