85 舵を預ける


 野犴が扉を閉めると、途端に臥雷は眉間に皺を寄せて頭を掻いた。

「本当に、立ち聞きなんかするつもりはなかった。俺がお前と話したかっただけだ」

「何故謝る? 配下に相談もしないで勝手な真似をしていたのは僕のほうだというのに?」

ぎょぼうが動いているというならば、それは隠し立てとは言わんよ。それを知るべき任に俺や他の者がなかったというだけの事だ。それはつまり、俺達には知らせるべきではないとお前が判断したという事だ」

 常になく歯切れが悪いのは、それだけ本音だという事だろう。

「確かに『かん』で繋いだ以上聞こえてはいるが、聞かなかった事にするくらいの分別ふんべつは俺にもある。お前が議場で皆に語らない限り、俺も余計に語る事は控えてきたつもりだ」

 歩み寄ってきた臥雷は、ふいと、食国の足元に散らばった衣服を目に留める。そして、しどけない有様に難しい顔をして見せた。

「お前そりゃあ……男の前でする格好じゃねぇよ。七年前までならまあよかったろうが、王を差し引いても駄目だ。襲われてぇのか?」

「そんな事をしたら八つ裂きにされるのはやった奴のほうだろうさ。なんせ敵に回すのは白浪はくろうだけじゃない」

「まあ、たちま素戔嗚すさのおなぶり殺しにされるわな」

「僕にも返り討ちにするだけの力はあるさ」

「――お前、ほんと足癖だけはどうにもならねぇもんな」

 苦々しい臥雷の言い草に、食国はけらけらと笑った。

「まあ、そういう理由わけで、四方津悟堂は僕の側近に置いておきたい。正しくは、僕込みで彼も守ってもらわねば我々はみだということだな」

「俺は最初から反対しちゃいねぇよ。ただ、親父達が良い顔してなかったのはお前もわかってるだろう?」

「うん。仙山の所在が明らかになったら、それと、えいしゅうの動きが完全につかめたら、お前達全員にも事を知らせる。それ程先の事にはならないだろうよ」

 足元の上衣を蹴散らしながら、食国は窓辺に歩み寄った。

 窓の外の空は鮮やかな朱に染まる。星々が散り、黄金の雲が棚引く。

 そして――青い大き星が存在しない。

 これまで常に見てきたあの巨星が目に届かぬ。そんな場所に今自分達はいるのだと、天をあおぐたびに痛感する。そっと瑠璃るりの窓に手指をわせた。ひやりと冷泉に浸したように肌がこごえた。視線は外へ向けたまま、臥雷に問う。

「で? 話があったんだろう? なんだ」

 臥雷は、そこで――何故か口籠くちごもった。食国は眉根をひそめると、顔だけで振り返った。

「なんだよ、黙るなよ気持ち悪いな」

「――なあ、おひいさん」

「お前、それはいい加減に止めろ。次言ったら治る予定がない最悪の足癖で、そのどたまを踏み抜くぞ」

「ああ。そうだな。――じゃあ、こう。あんた、あれでよかったのか」

「あれでって?」

仙山せんざん八咫やあたってのは、あの時、あんたが一緒にいた奴じゃねぇのか?」

「そうだよ」

「それを危険にさらすのは、公の本意なのか?」

 臥雷は、真から食国に問うていた。食国は理解し、瞼を閉じると「ああ、そうだ」と答えた。

「八咫とは、白玉はくぎょくという存在が引き起こした全てを終結させる、八重やえを――八咫の妹を器にさせないという、その一点からを一にして邑からの出奔しゅっぽんを決めたんだ。僕達と違って、彼等の寿命は短い。彼が生きている間に、僕には決着を付ける責任があるんだ。彼等だけじゃない。いま方丈ほうじょうにいるはずのりょ家の千鶴ちづるだって、もとはと言えば僕が言い出した事によって今の状況に身を置かせる事になった。その上、員嶠いんきょうの壊滅も僕が引き起こしたようなものだ。僕は、僕が知らずにやった事の責任を取らなきゃいけない」

 伏せた瞼を、静かに開く。

「八咫が『かん』のためのにえになるのは、最初から覚悟していた事だ。僕は、白玉を『環』から解放し、赤玉と白玉を元に戻す方法さえ分かればいいんだ」

 臥雷は苛立いらだたし気に息を吐き出し、自身の座に身を沈めた。

「だから、本当にそれでいいのか?」

「何故そうまでして僕がどう思うかにこだわる? 白浪はくろうの主ならば、誰だろうとこの一手を選ぶだろうが。何も間違っていないだろう」

 つい、と臥雷の目が食国の瞳を射抜いた。


「――お前の本心がそうじゃなかった場合、土壇場どたんばでそれを撤回する可能性が残るからだ」


 低く重い言葉に、食国は窓に沿わせていた手をゆっくりと下ろした。臥雷は、ちっと舌を打ち、視線を床石に向けた。その先には、赤と金の衣が広がったままになっている。

「俺は今まで、そうやって踏んではならんてつを踏んできた馬鹿を山ほど見てきてる。あんたは、そうだ、俺達のあるじだ。それはもう、俺は認めてもいいと思ってる。だからこそ、あんたが道を踏み誤ったら、失われるのはあんた一人の命じゃ済まないって事を本当にわかってくれてんのか、俺はどうしても確かめずにはいられないんだ。俺達にくみした全てが巻き込まれるからこそ、俺は軽率にあんたを認める事はできなかった。主とは認められても、かじあずけられるかは別問題なんだ。こんな俺でも二百年白浪を背負ってきた。だからこそ、この重みをあんたに預けていいのか、俺はそれが知りたい。誓ってくれるのか? 俺達の信頼を裏切らないと」



おう



 突然、いみなを呼ばれて臥雷はびくりとした。更に食国は、ゆっくりと彼の前へ進み出る。そして、臥雷の足元にひざまずくと、その手を取り、見上げた。

「おい、ちょっと」



「例え、八咫やあたが目の前で贄になる様を見届ける羽目はめになろうと、僕は決して意を変えない。絶対だ」



 その言葉に、臥雷はその表情をゆがめた。食いしばった歯をそのままに、無理に笑みを浮かべる。

「王になろうなんて者が、たかが側近相手に軽々と膝なんか突いてんじゃねぇよ」

「たかがじゃないよ。お前も僕の民だ。その思いは天から下されるもの。それを、地に足を付けて確かに受け取る事こそが統治者の仕事だろう。違うか?」

 二人の視線が噛み合う。かつてない事だった。二人が真から互いに向き合い、真の言葉を相手に向け、それを相互に受け止めたのは、正しくこれが初めての事だったのである。

 七年前の経緯以来、二人の間に生じた軋轢あつれきは、それも、特に食国が引いた拒絶の谷は、それ程に重く深かったのである。

「王希よ。長い間、済まなかった。確かに僕の中で重きを置いてきたのは八咫であり五邑ごゆうだった。でも、助けが必要な民は決して彼等だけじゃない。君達もそこに含まれるのは当然なのに、僕は見て見ぬふりをしてきた。まあ聞いてくれ。五邑に肩入れがあったと言えど、君達がたい輿の血を引くから勘定かんじょうに入れたというわけじゃない。も、姮娥こうがも、妣國ははのくにの民も、まつろわぬ者達も、このそらの下にある以上は同じただの民だ。それを今更にして痛感したんだ。本当に、気付きが遅くて申し訳ない。――君達が僕を捕らえて、僕の上からそれを下ろした。それに潰されるようなら、そもそも僕には王位を受け取るだけの器がなかったという事だよ。ならば、何があろうと、僕はそれをやり遂げなくちゃならないんだ。――そうだろう?」

 食国が添えた手を、臥雷は強く握り返した。胸の芯が潰されるように痛んだ。

 己はきっと、この言葉をくれる王の出現を待ち続けていたのだ。天の高みから踏みにじるのではなく、大地の如く、このままならぬ世のなげきをかいなに抱き、取りこぼす事のない王を。可能か不可能かではなく、その大志がある王を。

「きっと八咫だって、同じように考えてる」

 静かに澄んだ白い双眸そうぼうが、柔らかい微笑みを浮かべた。

「僕の命よりも、彼の命よりも、守られるべきなのは、民が蹂躙じゅうりんされてはいけないという、そんな当たり前が当たり前である世にする事なんだ。僕がこれから行く道の先に現れた彼が、この思いとは相違する人物になっていたなら、訪れるのは決別だろう。でも決してそうはならないはずだから」

 臥雷の手をとったまま、食国はゆっくりと立ち上がり、遠く天を見上げる。青い大き星の姿を見る事がないそらを。



「――信じるって、そういう事なんだよ、きっと」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る