86 入れて



 じゃり、じゃり、と草履ぞうりの下で、黎明れいめいすみれ色がくすくすと笑う。

 山に掛けられた石段は長く急だ。その段をのぼるごとに、草履の下で砂利がれる。

 石段の両脇にてんてんと続く石塔が、なぜだかほんのりと明るい。

 八重やえは鼻歌を歌いながら、ほこらへと向かうその急な階段を上っていく。足取りは軽快だ。

 毎日の事なので慣れたものである。最早もはや息すら切れない。年を取った事もあるだろうが、要は体力が付いたのだろう。


 山は騒騒ざわざわと風に吹かれ、海は低い潮騒しおさいの音を送り込んでくる。


 かつてあれ程までに陰鬱いんうつ億劫おっくうな気持ちで石段をのぼっていたのはなんだったのだろうか。今や、まともに参拝を請け負っているのは八重一人だけだ。お陰で――完全に好き勝手している。

 現在は薄明はくみょうの刻限である。しかも季節は春も間際の冬。よって本来ならば一刻以上は早く参拝しなくてはならなかったものだが、誰の監視もないのだから、知ったこっちゃない。


 ――うちに全部丸投げしとるんやから、誰にも文句はわさへんわ。


 ふふん、と得意げに一人笑う。

 時刻を厳守させられる事もない。

 暗い中を心細く危なげに進む必要もない。

 視界は良好。

 丸きり、快適な散策だ。


 本来八重は深刻な事が嫌いだ。辛気臭しんきくさくて鬱々うつうつしくて面倒くさい事が大嫌いだ。更に押しつけがましい事はもっと嫌いだ。だから今のように自分の裁量さいりょうでできるのが実は嬉しくて仕方がない。

 だが、たまに飽きたり面倒になる事は勿論もちろんある。

 そんな時には道のりの半ばでふと足を止め、階段の途中で座り込んで山を背に潮騒をながめる。ほおづえをついてぼんやりと考える。

 この海の向こうに兄は行ったのだろうか。いや、聞いた話から考えれば方角は逆なのだろうか? 結局八重はこの年になるまでむらから出た事がないので、どちらの方を向けば何がある、などという事が全くぴんと来ないのだ。

 じゃり、じゃり、じゃり。――へっくし。

 思わずくしゃみが出て鼻先をこすった。人目がないのでそこそこ音をはばからなくても構わないのがまたい。

 それにしても、と思う。



「五百年は長すぎるわ……」



 下がりの品を用意したところで、参拝するのが自分では全ての死屍しし散華さんげは肉体に吸着されてしまう。無意味なのだ。だからもう持参していない。ただ体を綺麗にふいてやるためには布があったほうが善いかなと言う、どうと言う事はない気分のような理由で布だけは持参していた。

 階段を上がり切り、祠の前に立つとその手に無造作に掴んでいた布を小脇に挟み、すぅと息を吸い込んだ。



「はーくーぎょくー。いーれーてー」



 途端とたん――ばちり、と何かがはじける感触と共に、視界が引き延ばされる。もう気にもならない。身体の違和感が落ち着いた時に、かるく「ふぅ」と息をらす程度だ。

 寝殿造しんでんづくりの母屋に向かって、ずかずかときざはしを渡りながら「きたでー」と声をかけると、ひさしの奥の御簾みすがするすると上がった。


「おはようさん。今日も別嬪べっぴんやな」


 八重が声をかけて隣に座ると、白玉はくぎょくからさらさらと綺麗な音がこぼれた。これは笑っているのだ。

 顔面に黒い穴が穿うがたれた銀髪の女は、今日も豪奢ごうしゃな見慣れぬ装束をまとっている。素足が白い石で作られた鎖に囚われているのも変わらない。

 そっと白玉の両手が持ち上げられる。その、細く白い指先が八重の頬に触れる。

「ちめた」

 くすくすと笑いながら八重はその指先を自身の手で包んで温めた。


〈八重? きょうは、ちょっと来るの遅かったんとちゃう?〉


「いやや、ばれてるわ」

 落ち着いた優しい白玉の言葉に、八重は苦笑した。

「昨日な、熊掌ゆうひ梶火かじほが帰ってきたんよ。邑中むらじゅうその出迎えでばたばた。なんか知らんけど、えらいぴりついてるんよ」

〈仕方ないやろなぁ。いまは、国中が落ち着きあらへんから〉

「あ、やっぱりわかるんや?」

〈そらな、うちの桜が国中に散ってるから、まるで国全体に自分が広がってるような気ぃがするわ〉

「そら大変や。うちらはあんたの体の中で生きてるようなもんやん」

 八重は肩をすくめてから、ゆっくりと白玉の髪を布ででた。さらさらきらきらと光の粒子が舞い飛ぶ。

 白玉とは、家族や長鳴ながなき達以上に共に過ごしてきた仲だ。幼い頃からこうして言葉を交わしていたので、他の邑人達はそうではないという事に気付くのにとても時間がかかった。父に聞いたら唇に人差し指をたてて「黙っときや」と言っていた。

 恐らく、父も彼女とよくしゃべっていたのだろう。だから彼女の喋り方が移ったのだ。

 色々と根気強く話して聞き出したところによると、白玉と呼んではいるが、彼女の本当の名はやはりそうではないらしい。そして白玉そのものでもないらしい。また、器になった歴代の五邑ごゆうの女達でもないらしい。



 どうやら、一番はじめに白玉をその身に下ろした初代器がこの「しき」の持ち主らしいのだ。つまり、器の継承の起こりは、異地いちで既に発生していたという事になる。



 今日は意識がはっきりとしているが、常にそうという訳ではない。もっと詳しく知りたい事は山のようにあったが、上手く聞き出せずにいた。

 少なくとも確実なのは、八重も器になれば「識」は身体から失われるという事だった。

「なあ、もうここ数年うち一人でお参りしてるやん? あんたは厭やないの?」

〈うちはかまへんよ? 八重のことすきやから〉

「え、うれしい」

 白玉から、再びさらさらと音がこぼれる。

蓬莱ほうらいは、まあ数は限られとるけど、まだいろんな人がくるんよ。せやから、そんなさみしないよ〉

「『かんばせ』やんな? あんたの顔見てみたいんよ。めっちゃ別嬪べっぴんなんやろ?」

 白玉は――またさらさらと笑う。

〈うちのやなくて、この器の子の顔やな。えらい別嬪さんやったと思うよ〉

方丈ほうじょうの参拝も、うちみたいに、ずっと女の子一人なんよな?」

〈そうやで。もうずっとや〉

「その子とも、あんたこないしておしゃべりするん?」

〈ううん。あの子は喋らんわ。うちの体は方丈で寝たまんま。せやから、ここや蓬莱のほうでしかおしゃべりしたり動いたりでけへんのよ〉

「せやった、前にもそない言うてたなぁ。――『かん』で繋がれて不自由なん、やっぱりあんた、かわいそうやわ」

 白玉は小首をかしげた。さらりと髪が流れ落ちる。八重はいつものようにごろりと行儀悪く転がって、白玉の膝の上に頭をおいた。

「なあ白玉」

〈うん?〉

「うちはな、もうあんたの事わりかし好きやから、最悪あんたが自由に動く為にうちの体がいるって言うんやったら、くれてやってもええとおもとんのよ。あいつらには口が裂けてもよう言わんけどな。ああ、できたら厭やで? うち関係なしで、あんた本人が自由になる方がええからさ」

〈おおきになあ〉

 白玉は八重の髪をさらさらと撫でる。光の粒子が零れ落ちる。

〈なあ、八重。うちにことがおきたら、桜はぜんぶあんたにあげるわ。あの子も褒めて愛してくれた、この世で一番きれいなもんやから〉

死屍しし散華さんげ全部なんか、うちの体に収まり切るやろか。責任重大やなぁ」

 唇を尖らせる八重に、白玉はくすくすと笑った。

〈ほんまに、あんたはよう似とる〉

「それようゆうよなぁ? それ、どこの誰の事なん」

〈うちのことが大好きな子ぉや〉

 さらさらと髪を撫でる手が気持ちよくて、八重はついついうつらうつらと居眠りしかかる。

〈――どうしてもなぁ、一緒にはおられへんのや、あの子とは。一緒におりたかったけどな、強い力で叩き割られてしもうたから〉

「叩き割る……」

〈うん。そういう宿業しゅくごうなんかもしれん、うちらは。かなしいけどなぁ〉

 眠気に誘われて、ぎゅっと白玉の体を抱き寄せる。轟轟ごうごうと、身の内のしんに響くものがある。命の打ち寄せる海鳴りだ。



 ああ、まただ。

 また夢に落ちる。

 あの血腥ちなまぐさい、切なくて苦しい夢が。



 しばらくうとうとした後、八重は白玉と「また明日な」と言って別れた。その一言だけで八重の体はほこらの外へ押し出される。

 全く、あのひち面倒くさい参拝の決まり事とか言うあれやこれやは何やったんやと溜息を吐く。そしてそのまま祠裏の堂へと歩を進めだした。

「――ようこんな事続けてきたもんやわ」

 五百年もの長い間。



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