87 桜桃


          *


 かたん、と背後で物音がした。

 乾かし終えたばかりの布をたたんでいた八重やえが顔を上げると、どうの戸口に長鳴ながなきが腰をかがめて立っていた。手には握り飯と水筒を下げている。ふわりと目元を柔らかくして笑む長鳴に、八重も知らず目元をゆるませる。


「お疲れ様八重。そろそろ一休みしない?」

「せやな、もらうわ」

 

 長鳴は八重の答えに微笑みながらうなずき、頭を深く下げながら堂の戸口を慎重にくぐった。どれだけ気を付けていても、鴨居に頭頂が擦れ擦れになっている。

 これ以上はないと言わんばかりに伸びに伸びた上背うわぜい所為せいで、長鳴は頭を深く下げなければ大抵の戸口をくぐれない。見慣れた彼のその動作に、八重は小さくき出した。

「なぁに? どうした?」

「あんたそれ、上背あるんは見栄えうなるからからええんやけどさ、これ以上大きなったらどないすんの」

「いや、さすがに僕もこれ以上は育たないでしょ。と言うか、これ以上伸びたら着られるほうがなくなってしまう。怖い予言しないで」

「そんなん言うて、去年もおんなし事言うてなかった?」

「――言ったねぇ」

「ほんで伸びとるし」

「――伸びたねぇ」

 頭を掻きながら、長鳴は八重のかたわら胡坐あぐらをかいた。水筒と握り飯を手渡すと、八重は嬉しそうにそれを受け取った。

「ほやけど、ほんまにそうなったらどうする? あんたも熊掌ゆうひみたいに深衣しんいに変えるん?」

「――いや、どうかな、どうだろう。僕まで装束を朝廷風に改めてしまったら、朝廷に対して反感が強い人達の神経逆撫さかなでにしそうじゃない? ただでさえ兄上に対して朝廷におもねり過ぎだって声が上がってるくらいなんだしさ。これ以上余計なことはしたくないよ」

「せやな、穏便おんびんにしときたいな。あんた、ちょっとくらいゆきたけ合わんでえ悪くても気にせぇへんやろ」

「僕はしなくともかじ五月蠅うるさいんだよ」

「ああ……あいつみみっちいからな、そういうとこ」

 好き放題に言い合える気安い仲になるまでには、それ相応そうおうの月日を要した。

 八重は伏し目がちに、さらりと頬に掛かった黒髪を耳にかける。長らく腰に届くほど長く垂らしていた髪だが、それを切ったのはつい先日の事だ。肩口で真っ直ぐに切り揃え、前髪も作っていた。

 鈴を張ったような大きなまなこは少しうれいを帯び、視線一つで人をどきりとさせる。ふっくらとしていたほほはわずかにげ、細い首筋には青い静脈が浮く。かなり小柄ではあるが、ころもで覆い隠しても隠しきれない、なだらかで溌溂はつらつとした女性らしい体型は、その動作一つ一つに匂うように現れ、成長をまざまざと見せつける。

 長鳴は両目を細めながら、その様子を眼に焼き付けた。それに気付いたのか、八重は桜桃おうとうのようなぷっくりとした唇を尖らせた。

「そんなに見詰みつめてどないしたん。そんな熱心に見られたら顔に穴くやん、やめてよ」

「いや、なんだか、あの頃と同じような髪型になったと思ってさ」

「何ぃ。あんたもおかんみたく子供みたいやて言うん? あの人ひどない? これ切ったんあの人やで? ぶきっちょやてわかってんのやったら最初っからせんといてほしいわほんまにもう」

 言いながら前髪を指さす。ここまで切るつもりも切らせるつもりもなかったのだろう。

「うん、まあねぇ。かわいらしくなっちゃったねぇ」

「馬鹿にしとるやろ、ほんまに」

「馬鹿にはしてないよ」

「ほなやっぱり子供扱いやん。……もう好きなように言うといたらええわ。うちに懸想けそうしとる男なんか五万とおるんに」

「このむらのどこに五万の男がいるんだよ。こないだ生まれた子を入れても精々六百が関の山だよ」

 長鳴の返しに、八重はぶぅと頬をふくらませた。そんな辺りはまだまだ子供の様子のままだ。そんな事に、ほっと胸を撫で下ろす自分に長鳴は気付いている。気付いているからこそ、戸惑いを覚えていた。

 窓の外を一羽の小鳥が羽ばたいてゆく。二人はそちらに視線を送ってから、どちらともなく、微笑みを零した。


 えいしゅうにも満ちていた冬の気配が、徐々に緩みつつある。


「枝の新芽がふくらみだしてきたね。そろそろ誕生日じゃなかった?」

 差し出された水筒の中の白湯をふくみながら、八重は首肯した。

「――七年とか、ほんまあっという間に過ぎるんやな」

 八重の言葉に、長鳴もその歳月の重みを痛感する。

 八咫やあた達がむらを出てから既に七年半の月日が過ぎていた。あの夜からもうそれ程の光陰こういんが流れたのかと思うと、改めてこの邑の変化を振り返り、長鳴は肝が冷える思いがした。そんな思いを打ち消すべく、話題を元の流れに戻す。

「ねぇ八重。祝いには何がほしい?」

「何ぃな、なんかくれる気やったん?」

「先月僕も八重からもらったじゃない。あれ程度の返しはするよ」

「厭や! ちょっと、ごみはいらんで⁉」

「塵って! 君、塵のつもりであれ僕にくれたの⁉ 貝殻の腕飾り⁉」

「あんた、仮にもぼんやねんから、もうちょいエエもん検討してぇな」

「うわー坊て! 懐かしいなそれ! でもほんと好い加減、坊はやめて? 僕もう二十三だからね? 流石さすがにもう君だけだよ僕の事そう呼ぶの」

「ほな、長鳴様ぁ」

「――やめて、ほんとにやめて。鳥肌立つから」


 ぴーちるちるちる、と、間の抜けたさえずりが、ふたりの時間をやさしくでて行く。


 七年前、突如として年齢にはとても見合わぬ重責じゅうせきを背負う事になった二人は、その重さを相互に支え合う事で、ようやく崩れずに済んだという理解がある。どちらも、一人ではとても耐えきれなかったろう。今や長鳴にとっては、血縁であるとはいえ不在がちな異母兄と異父兄よりも、この年若い少女の方がより身近な存在だ。彼女と言葉を交わす一時が、唯一心安らがせてくれる。

 握り飯の包みをここに運ぶ事も、それを開いて口に運ぶ彼女の様子を見守る事も、いつしか長鳴の日課になってしまった。そしてそれは彼にとって、かけがえのない大切なものとなっていた。

「ところで、熊掌ゆうひ梶火かじほは? 今何しとんの。昨日帰ってきた時はなんかぴりついてたような気がするんやけど、ちょっとは落ち着いたん?」

 咀嚼そしゃくの合間に問うた八重に、長鳴は軽く肩をすくめて見せた。

「落ち着いたどころか、もう学堂を開けてるよ」

「えぇ……何時の間に」

「兄上は朝からずっと座学をやりっぱなしだし、梶火も梶火で、庭で自警団の特訓だ。二人とも、体を休める時間すら惜しいらしい」

 学堂というのは悟堂ごどう邸の事である。梶火以外の三人は基本的にあのままそこへ居を置いていたが、その邸を日中は開いているのだ。ゆうが邑に滞在している間は彼が、それ以外のときは南辰なんしんがそこで邑人に文字を教えている。

 庭もまた開かれている。自警団の特訓と言うならば、例の如く梶火が木刀を振り回して、日々の仕事を終えた男から容赦なくしごき上げているのだろう。

 呆れ果てたように八重は盛大な溜息を吐く。

「うそやん、昨日帰ってきたばっかりやん――あの二人もほんま大概やな」

「ほんとにねぇ」

「南辰は休めって言うとらんの?」

「それは南辰が気の毒だよ八重。言って大人しく聞く二人だと思う?」

「――まあ、聞かんわな。ほんま加減を知らんちゅうか、人の話を聞かんちゅうか、一息く事を知らんちゅうか――なんやろ、止まったら死ぬんかな」

「まあでもそこはねぇ、兄上の独断であんな大転換をしたんだもの。力尽くで捻じ伏せるだけのものがなきゃ、男衆は特に付いてこなかったろうしさ。それに見合うだけの働きを滞在中くらいは見せておかないとって思ってるんじゃない?」

「おかげさんで、女衆からの不平不満は全部こっちに流れてきとるんやで」

「わあ、それほんと?」

「ただでさえ参拝うち一人で回してんのに、これ以上仕事増やさんとってほしいわ。――まあ、言うてもその愚痴聞いてほしさにお参りのお手伝いしますー言うて来る子等もおるにはおるんやけどな」

 さすがの長鳴も、少し言葉を詰まらせた。

「――すまないね。負担ばかりかけてしまって」

 声色が変わった事に気付いた八重は、ごくりと握り飯を嚥下えんげしてから「いやぁ」と頓狂とんきょうな声を上げた。

「そんな真剣に受け取らんといてや。気まずいわ。あんなん大したことやあらへん。毎日歩いて手ぇ鳴らして中入って体拭いて帰ってくるだけやもん。ただの掃除と大差あらへん」

「掃除って……」

 あまりの物の言い様に長鳴が情けなく眉を下げる。八重は顔をくしゃくしゃにして笑った。やおら手を伸ばすと、長鳴の髪に指を突っ込み、ぐしゃぐしゃとかき混ぜた。身長差がありすぎるから、ただ伸ばすだけでは手は届かない。だから八重の腰はかすかに浮いている。ももの曲線が、そでの口からのぞく手首の白さが――なまめかしかった。

「うちは大丈夫や。無理はせん主義なん、あんたが一番よう知っとるやろ。めんどくさくてやりたなくなったら、あんたに愚痴ぐち言うて気晴らししてしまいや」

「――そうだね」

 髪を乱されながら、ようやく長鳴は困ったように笑った。



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