84 形振り構わぬ


          *


 会合の後、首脳部全員が退席しても、食国おすくにはその場から立ち上がろうとしなかった。最後までその背後に残っていた野犴やかんが、重い口を開く。

「――公。私は矢張り、あれを公の御傍おそばける事は承服しかねます」

「お前ならば、そうだろうな」

「あれがこれまでに行ったことごとくを、公は御存じない」

「お前も、あれがえいしゅうでどう生きたかを知らない」

「ええ知りません。知りたいとも思わない!」

 野犴は一刀両断に吐き捨てる。

「あれが如何いか員嶠いんきょう仙鸞せんらんに骨身をけずって尽くしていたか、邑人達からどれ程信頼を得ていたか……その様を私はつぶさに見ました。八俣やまたの助命嘆願に己の命を差し出したと言われても、誰も疑いはしない。――だからこそ、あれの中に信というものは存在しないと言いきれる」

「あれは、簡単に僕達を裏切る。そう言いたいんだな」

「ええ」

「――うん。僕もそう思うよ」

 野犴は両掌をぎりぎりと握りしめた。食国は、振り返りながら、その様を見る。これがらいであったなら、既にくびを締め上げられているところだと、ふと思った。

「お分かりなのでしたら、なぜそんな決断を下された⁉」



「あれは、熊掌ゆうひという人間に対してだけは、決して背信しないからだ」



 ふ、と予想外の言葉に野犴は力を抜いた。

「――えいしゅうの、現邑長、ですか」

 「うん」と食国は小首を傾げてうなずく。

四方津よもつ悟堂ごどうというのは、恐ろしく狡猾こうかつで用心深い人間なんだな。それはわかる。人当たりは明朗快活だし、その人徳に疑いを抱かせないだけの揺らぎのなさもある。それはつまり、何者をも信頼せず、何者にも重きを置いていないという事だ。自身の感情の好悪ですら、状況の合理性に合わせて変えてしまえる。つまり情に左右されず、自己の決めた事、それ一点のみに従う、そんな人物なんだ」

 椅子のもたれにその身をゆっくりと食国は預ける。わずらわし気に髪を掻き揚げ、一瞬うなじがあらわになるも、それもすぐに髪に隠されてしまう。そして、す、と視線を野犴に向けた。


「――そんな人間が、たった一つ、懐に入れて放そうとしないもの、それが蘇熊掌だ」


 野犴は答えあぐねた。食国もそれを見て取り、構わず自身の言葉を重ねる。

「周りに流される事も見返る事もなく、己の意志のみを堅持けんじし生きてきたような奴だ。そんな人間の脚を止めたんだよ、蘇熊掌は。わかるか? 熊掌が立ち止まる度に、あれは振り返らざるを得ない」

「公、状況が見えないのですが、一体何をおっしゃりたいのですか?」

 食国は、やおら立ちあがると、革帯を解いて上衣を脱ぎ捨てた。

「公?」

 怪訝な表情を隠さない野犴に向けて食国が浮かべた表情は、極めて冷たかった。

「――今、方丈ほうじょうで、熊掌がどう動いているのか、それを知ったらお前も考えを変えるだろうな」

「方丈で、ですか?」

「お前達には内密に、現在の方丈とえいしゅうの状況を確認、報告させてきていた」

「どう、やって……誰に」

「お前達は、宮廷で大膳を務めるという事の重さを理解していない」

ぎょぼう、ですか」

 食国は首肯する。野犴は驚愕きょうがくした。

 これまで、首脳部での会合においても、ぎょぼうが積極的に声を発する事はなく、また食国から彼に語り掛ける事もなかった。それは、ぎょぼうの役務が主に兵站へいたんに関わる事であるが故に、策を練る場面に多く対話を割く事もなかったからだ。総じて、九人の内ではもっとも食国と遠いと思われた臣だった。

 しかし、実際はそうではなかったのである。何故としばし逡巡しゅんじゅんした後、ふと思い至った。食国を白浪に引き入れた直後、最も彼と接触していたのは、その食事を作り、運んだぎょぼうであったのだと。

 野犴が思い至った事を表情から見て取った食国は、椅子の上で脚と腕を組んで、かすかに笑った。

「飲食という行為は、まかなう者にも賄われる者にとっても、生死に直結する重大事だ。の頃から彼は生死をかけて尽くしてくれていた。そして、彼等下士官の結束は、お前達上位に属した軍属が思うより硬いんだよ。かつてのお前達が手足の様に使ってかえりみる事のなかった下男下女ですら彼等にとっては心安い身内なんだ。陣営をにしたからといって、そう易々やすやすつながりが切れる、そんなものじゃないんだよ、人間同士のきずなというものは。彼等は密かに繋がり続けている。食物や家畜を育てる民を介してだ。――これを聞かせた以上、お前もこれからは僕の形だけの側近ではなくなったのだという事を理解してほしい」

 食国は立ち上がると、野犴の前に立ち、その胸に、ばさり、と数束の文を叩き付けた。

「本当は、これをもって悟堂をこちらに引き入れられまいかと手にしていたんだがな、そんな必要もなかった」

「公、これは」

「――この七年をかけて、蘇熊掌は、方丈の瓦解がかいを進めてきている」

 食国が手渡したふみに野犴は眼を通しはじめ、そしてその表情を徐々に険しくしてゆく。

形振なりふり構わぬにも程がありましょう……! まさか、これを本当に?」

「それだけ、身命しんめいしているという事だ。母上を帝壼宮ていこんきゅうへ向かわせる際に、もう一点、如艶じょえんには悟堂をこちらで保護している事も伝える。熊掌の策が成就じょうじゅしたあかつきには、方丈を統べる事ができる者は、悟堂をおいて他になくなる。全てを終焉しゅうえんみちびくためには、四方津の血を引く者を絶やす訳にはいかない。――そして恐らく、蘇熊掌が身を投じたこの策を描いたのは、他でもない四方津悟堂だ」

「まさか」

「結果から判断すればそうとしか思えんだろうよ。――奴は、こちらが持つ最後の切り札だ。白玉を守り切らねば赤玉の奪還は絶対に成し得ない。かつ赤玉の奪還には四方津が必須。月朝は、こちらに従わざるを得なくなる」

「――公」

「なんだ」

「これを、あれに伝えるおつもりですか」

 食国は――ひどく苦しく険しい顔をした。

「悟堂自身、こんな形で成される事を望んだわけではないだろう。僕だって出来る事ならこんな酷な事を言いたくない。しかしそうもいかんだろう。――必要が迫れば、伝えざるをえまい」

 そこまで口にしてから、食国はふ、と動きを止め、小さく笑った。

「立ち聞きはその辺りでよしたらどうだ?」

 野犴が顔を上げると、果たして、大扉がゆっくりと開いた。その先で苦笑していたのは――らいである。

「そんなつもりじゃなかったんだがな。正しく偶々たまたま、というやつだ」

「どの道お前には一切の隠し立てなんてできないんだから、堂々と入ってくればいいのに。構わないから、来てくれ。お前とも話さなきゃいけない事がある」

 食国は苦笑して野犴に横目をちらと向ける。

「すまない野犴。どうやらこちらと先に話を済ませないといけないらしい。文には目を通した後、念のためこちらへ戻してくれ」

 言外に退出を求める言葉に、野犴は従った。大扉ですれ違う間際に、野犴は臥雷の顔を見たが、そこには取り立てて語るべきものは何もなかった。


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