47 桜吹雪 ー経緯ー



 気付けば、馬車はその歩みを止めていた。馭者ぎょしゃだいから紅炎こうえんがこちらへ移ってくる。箱の中をがさごそと何かあさっていたかと思えば、中から小さな何かを見つけて放ってきた。急な事で取り落としかける。

「うおっと」

「馬を休ませる。半刻したら出るぞ。腹減ったろ。食え」

「なんだこれ」

非時香木実ときじくのかくのこのみだ。たちばなともいう」

 言いながら紅炎は一つを騎久瑠きくるへ手渡す。

「馬に餌と水は?」

「やったよ」

 どうやら梶火達が話をしている間に、紅炎は馬の世話まで済ませていたらしい。夢中になっていて全く気付かなかった。

 投げ渡された柑子こうじ色のその果実は、やや楕円に潰れていたが瑞々しかった。へその部分に爪を立てる。とたん、鼻孔に強い香りが届いた。がん、と後頭部を殴られたような気がした。思わず眼を見張る。


 とてつもなく似ていた。

 師の纏っていた香りに。

 いや、これこそがあの香の元なのだ。

 それ即ち、方丈が熊掌に残した香だという事だ。

 

 思わず口元を腕で覆う。急激に吐き気が梶火を襲った。

「どうした紫炎しえん

 問う紅炎に、無言で橘を返した。

「すまん、俺はこれは食えん」

「おお、そうか。わかった。別の物をやるから待ってろ」

 騎久瑠がじっと目を向ける。

「匂いが駄目なら我々も控えようか?」

「いや。そこまではいい。俺は食いもんはいいから。また後で」

 梶火は自分の荷の中から水筒を出して水を一口含んだ。幾分か吐き気が収まるが、ここまでただの匂いが神経に障るとは思わなかった。

 ――今更ながら、実際に害された熊掌が再びこの香りの中に自らの身を置きに行くというその残酷さに思い至り、身の内からどす黒いものがいた。それを抑える為に、敢えて別の事を口に出した。

「――なあ、その、天孫てんそんて奴には、名前はあるんか?」

 梶火の問いに、騎久瑠は真っ直ぐな眼を向けて、ゆっくりと首肯した。

瓊瓊杵ににぎという」

「ににぎ」

「……まあなあ、実際、あまてらすがどうやって命じて、どうすれば黄泉よもつ比良坂ひらさかが許諾した事になるのか、俺達にはとんと想像が付かないからな。なんせこちらには存在しない、神話上でしか聞かない神の話だ。それと民の目覚めとの間にどんな因果関係があるのかもさっぱり分からん。――が」

 ちら、と紅炎が騎久瑠を親指で刺した。


「俺達兄弟もだが、こいつも、母子共々なんの因果か目覚めをまぬがれた」


「あ」

 確かに、言われてみればその通りなのだ。

 目覚めという事象に対する話を聞いていたのが、やっとここで帰結した。

「俺達が目覚めを回避できた理由は、はっきりしていない。ただ、二年前の当時、予兆と身体異変は確かにあったんだ。不快だったぜ。肉の内側と脳髄から、じわじわと浸食されていくのが分かるんだ」

 生々しい紅炎の説明に、一度は収まりかけた吐き気が再び蘇りかける。梶火は口元を歪めた。

「だから、州長からの命令で、俺達兄弟で、奥方と騎久瑠を連れて一先ひとま氷珀ひょうはくの近くへ移動する事になった」

 という紅炎の言に、騎久瑠が首肯する。

「本来、国境を越えれば症状も出なくなるからな」

「そうなのか?」

「ああ。それ以外に打つ手がなかった」

 騎久瑠は苦々し気に続ける。

「東側の国境はまずいんだ。女王伊弉冉いざなみの直轄領は、東側の近くにある。だから北へ向かった。――あの抜け目ないしょう隋空ずいくうがうまく立ち回れなかったんだ。それだけ手のほどこしようがない問題だったんだろう。ただ、母は國を出奔した立場だからな、国境をはっきりと越えるのも正直まずいんだ。あちらの為政者は神だからな。察知されたら命に関わる事態になりかねない」

 さすがに姮娥ではそうまではならない。とことんまで感覚が違う国なのだと梶火は薄く戦慄した。

「道中を急いでいた中で、母と私に不調が出た。本性が強く出たんだな。氷珀までまだ三日は掛かる地点だった。もう間に合わないかと思った矢先に、偶然八咫と行き会った」

 騎久瑠は自身の口の中に橘の果肉を放り込む。ゆっくりと咀嚼そしゃくする。その眼が遠い何を映しているのか、梶火には見えなかった。

 やがて果肉が嚥下された。ことり、と残りの実と皮が騎久瑠の隣に置かれる。


「――それで、八咫の精気しょうきをもらった」


「精気、って」

「母も私も食人精気じきにんしょうきだからな、十年から二十年の周期で人間の精気を吸わないと死ぬ」

「それはどうやって」

「大体首噛んで吸い取る」

 うっと詰まる。思わず自身の首を抑えた。

「首かよ……」

「脳に近い方がいい精気が獲れるんだよ。まあ、そうは言っても精気だけだからな、じき小児しょうにとか羅刹らせつ達とは違って、私らはせいせいから命も肉も血も奪わないし、ちょっと気力体力を分けてもらうだけだから、比較的嫌われ難い。母が城にいても目溢めこぼしされたのは、まあ害が少なかったからだろうな。あの人基本的に父しか食わんから」

 つまりそのおっさんは女を飯で釣ったんだな、と思いはしたが、なけなしの品性を発揮して、敢えて口には出さなかった。

「――愚問だが、痛くねぇのか?」

「そりゃ噛まれる方は痛いだろうよ。だから催淫さいいん掛けてやれるぞって言ったんだ。催淫が掛かってれば痛みはないしな。……その代わり覿面てきめんに効く。こちらもそれ込みの覚悟で精気をもらう。まあ等価交換だな。一方的に貰おうという程ずうずうしくはないつもりだ」

 何が、とは言われなかったし聞かなかった。

「したらあいつ、なんて言ったと思う?」

「なんて言ったんだ」

「じゃあいらね、て」

「いら……」

「お前の事は好きでも何でもねぇから、そういう事をするのは厭だとさ」

「あいつ……」

「さすがにちょっとイラっとしたから、一丁前に操立てかよって揶揄からかったんだよ。したらあいつ、『そう言う訳じゃねぇが、少なくとも食国おすくに以外の奴は厭だ』って言いやがったわけよ」



「――――はい?」



 梶火は口を半開きにしたまま――固まった。

 我が耳を疑った。

 今何を言われたのかを理解するために、もう一巡聞いたばかりのその言葉を脳内に巡らせた。それでも理解が届かなかった。もう一度巡らせた。そこで字面だけはようやひろい終えた。そしてやはり、


「え?」


 という言葉しか出なかった。

 それを受ける騎久瑠は真顔だ。

「いやだから、八咫は、はく食国おすくに以外の人間とは目合まぐわいたくないって」

「ま、」

「ん?」

「え? ええ? 食国と? 八咫が?」

「ああ。だから白浪はくろうに奪われた自分の交を取り返しに行くっていう話なんだろうが。催淫はいらんから精気を分けてやる代わりに協力してくれって頼まれたんだよ。さっきうちの母親、父の精気しか食わないって言ったが、あの時は父がいなかったからな。母は大喰らいだから、あの人一人が精気を食うだけで瀕死に近くなるんだよ。そんな中で私も含めて二人分も世話になったんだから、そりゃそれに見合うだけのもんは返さないと」

 騎久瑠の説明を余所に、梶火は「あああああ」とうなりながら頭を抱えた。

「いや、いやいやいやいや。だったら最初から言えよあいつら! ……前提が違うじゃねぇか、うわ、そうか……」

 そこで、はたと唐突に思い至った。

「まて、ちょっと待て。――えいしゅうさんぽう合祀ごうしは月の民には猛毒って」

「ああ。そうだな。体液に触れたら多分即死だ」

「あ、ああいやでも、八咫は参拝してないからいいのか、そもそも『色変わり』するかどうかもわからんもんな」

「あいつはしなかったらしいぞ」

 梶火の顔色が変わった。

「『色変わり』……しなかったのか」

「瀛洲出奔間際に一度だけ参拝して分かったそうだ」

「それ、それはまずいんじゃ……」

 と、そこでようやく気付いた。

「俺、俺が行かせた。俺が白玉の祠に行けって――」

 梶火の顔色がさらに青くなる。

紫炎しえん、大丈夫か?」

「ああ、いや、あ、でも出てすぐにあの二人引き離されてるんだよな? じゃあ、再会しても、最悪――」

 思った所で梶火は口を抑えた。そんなもの、生殺しのようなものじゃないか? 自分だったらどうだ? そんな状況耐えられるのか?

 そこで紅炎が「ん?」と梶火の顔を覗き込んできた。

死屍しし散華さんげの影響の話か?」

「あ、ああ」

「それなら、八咫の中にはもう存在しないぞ?」

「――は?」

 騎久瑠も首肯する。

「紅炎の言う通りだ。私も。あいつの精気を直接吸った私が言うんだから間違いない。だからさっき言ったろうが。八咫は死屍散華が体から抜けていってる奴を探してたって。あいつ自身の中から死屍散華が霧散していたからだよ。同じような奴がいないかを虱潰しらみつぶしに当たってたんだ」

 騎久瑠がついと右手の人差し指を立てて自身の右眼を指した。

「私達妣國の民には「神域しんいきがん」が備わっている。『神域』に入った者や、『神域』に関わりがあるものを見分ける事ができるんだ。妣國の統治者は伊弉冉いざなみ素戔嗚すさのおだ。その影響下にある民が神を視認できないのはおかしいだろう?」

 梶火が紅炎に視線を送ると、こちらも深く頷いた。

「八咫には見えていなかったから感覚でしか分からなかったようだが、俺達には死屍しし散華さんげの形も見えるからな。確かに、奴の体からは完全に流出していた」

「そんなばかな」

 騎久瑠は紅炎とちらと目配せしあってから、どこかしらあわれむような眼で梶火を見た。

「想像も付かないんだろうな。わかるよ。でもな、私の眼から見れば、この姮娥こうがの国は、今薄い桃色に染まって見えるんだ」

「桃色に?」

「ああ」

 小さな溜息と共に、赤褐色の髪の主は微笑んだ。



「これがどれ程美しく見えるか、お前達にも見せてやりたいくらいだよ。――死屍散華ってのは、まるで桜吹雪みたいに見えるんだ」



 国中に満ちる薄桃色の桜吹雪。

 それは、死に至る桜花の乱舞なのだ。

 それはつまり、仙山がもたらしたあの作戦によって決定打を打たれた悪夢であり悲劇だ。五百年に渡り降り積もった死の花弁が、今正に高らかに舞い上がろうとしている。

 梶火の全身に粟が立った。そんな美しく恐ろしく禍々まがまがしい物を眼にして、正気でいられる自信はない。

「ただし……」

「なんだ」

 更に続く騎久瑠の言葉に、梶火は溜息を吐いた。もうこの後に何の話が出てきても驚く事はないだろうと思われた。

「八咫の中から死屍散華が散り落ちて行くのと同時に、あいつの中に湧き上がってくるものがあった。まるで死屍散華の代わりに、とでもいうような――あれは入れ代わりだったんだろうな。私も精気と一緒に吸い込んだから、あれの異常な強さは分かるんだが、それが何かと問われれば言葉では説明しにくい。母もそう言っていた」

「え」

「あれは――白、いや。赤なのか、黄なのかも分からんが、兎に角とてつもなく強い光だ。灼熱の光だ」

 騎久瑠は微かに俯きながら、自身の両肩をそっと抱いた。まるで震えを収めようとするかのように。


「あれは、日の光そのものだ。自分から吸い込んでおいてなんだが、正直焼き殺されるんじゃないかと思ったよ」


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