19 「月」と異地


 がたん、と音がした。見れば、ついに、と言ったてい寝棲ねすみが立ち上がっている。その頬に浮かんだ笑みは、複雑なものだった。

八咫やあた。その石板、何が書かれてた」

異地いちの国の神話だ」

 麻硝ましょうは、ふわりと笑うと「やはり、八咫の予想は正しかったんだね」とつぶやいた。

「ああ。信じてくれた分は裏切らずに済んだと思うぜ。えいしゅうで参拝に使われていた布に書いてあったのと同じだ。あれもこれも全て、ひらがなとカタカナで書かれていた。ただ、それぞれ同じ内容のものはない。つまり、全部を合わせないと最終的な理解はできない」

「何?」

「つまり、この図面を決めた奴は、姮娥こうが国に悟られないよう細心の注意を払いつつ、俺達に伝承できるようにこの図面を用意したんだ。そんで、やっぱりこれだけじゃ足りなかった」

「五つの邑に五つの分割された神話の伝承。という事だね」

「そう」

 八咫は頷く。

えいしゅうにあった図版はおよそ四百種。多分、親父が員嶠いんきょうから『御髪みぐし』を運んだ時に一緒に図版も移したんだと思う。たい輿から持ち出せたこの図版が五枚。割れてて持ち帰れなかったのが三十五。えいしゅうの割合が多いのは、恐らく四百年前にたい輿からも一部持ち出されたからだろう。三邑分をまとめて一か所に集めたと考えれば納得がいく。今回俺が見付けたのは、敢えて持参せずに隠したものだったんだろうな」

「敢えて隠した?」

 保食うけもちが眉間に皺を寄せながら問うと、八咫はわずかに目を細めて、保食に視線を向けた。

「対抗できるだけの武力もないのに、情報だけ集約されている状態程危険なもんはないだろ。なんのために五邑に分割したと思ってんだ? 姮娥こうがに知られないようにするためだろうが」

 中達が動いた。卓子の隅に積み上げられていた書籍の中から二冊を手に取ると、保食に手渡した。

「師傅、すみません、あたしは字は」

「うむ。わかっておる。ただ、お主にもこの重みを知っておいてほしいんじゃ」

 中達に手招きされ、水泥も立ち上がり保食の傍に来た。うながされ本を開く。その内には、神経質な程にびっしりと角ばった小さな文字が書き連ねられていた。


「右に白文。左にひらがなとカタカナで同じ事が書いてある。これは、八咫が記憶していたえいしゅうの図版を書き起こしたものじゃ」


「――こんなに」

「白文に直すには、ここにある書を全部頭に叩き込んでようやせる技じゃ。そしてこれ、このもう一冊が、瀛洲の合祀ごうしほこらにあった「かぐや姫の物語」という書籍を、やはり八咫が丸暗記してきた物を書き写したものとなる」

 水泥があんぐりと口を開ける。

「これだけの量を、丸ごと頭に叩き込んでいたの?」

「そうだ。一言一句間違えてない」

「絶対に?」

「俺は、一度目にしたものは決して忘れない。元の布を見た頃は、それが文字だとすら思ってなかった」

 八咫は底知れぬ黒に沈んだ双眸そうぼうの内に、静かな笑みを浮かべた。



方丈ほうじょう蓬莱ほうらいの分が抜けているから情報はまだ完全じゃねぇが、現時点で分かった事は、やっぱり俺達がいるここは「つき」という星で、今まで異地いちと呼んでいた白玉と五邑の祖国が、あの大き星だって事だな」



「――は?」

 口をあけて呆気に取られていたのは、保食と水泥だけだった。他の皆は、事前に八咫からその話を聞かされていたらしい。涼しい顔をしている。

「詳しい場所の検討はつかねぇんだけど、恐らくは島国だな。海中を矛でかき回して国土を産んだって書いてたからな。この時、天から降りた二柱の神の名が伊弉諾いざなぎ伊弉冉いざなみだ」

「イザナミ、なのか」

「ああ、妣國ははのくにの女王と同名だ。異地の神話には大きく三つの国がある。天の国である高天原たかまがはら。中間にある葦原中国あしはらのなかつくに。そして最後の死者の国には何故か名が複数ある。一つが黄泉よみの国。そしてもう一つが堅州国かたすくに――別名妣國ははのくにだ。高天原から来た二柱の夫妻が葦原中国で国を産んだが、伊弉冉は火の神を産み焼け死んで、根の堅州国へ渡る事になった。夫の伊弉諾は妻を取り戻しに葦原中国から黄泉比良坂よもつひらさかを通り根の堅州国へ行ったが、腐敗が進み、肉の崩れた妻を見て逃げ出したんだ。伊弉冉が追いかけて来られないように、伊弉諾は黄泉比良坂の途中に大岩を置いて二国を隔てた。夫婦はそこでたもとを分かつ事になった。その後、きたない物を見たみそぎのために、伊弉諾が両眼と鼻を洗って産んだのが天照之あまてらすのみこと月夜見尊つくよみのみこと素戔嗚すさのおのみことだ」

「素戔嗚って、伊弉冉いざなみの息子の?」

「そうだ」

「――そんな事が、その図版に書いてあったのか?」

「そうだ」

「それが、異地の神話だと?」

「そうだ」

「なぜそう言い切れる」



「俺達がいるこの場所からは、「月」が観測できないからだ」



 八咫の指が、窓の外を差した。

「よく見ればわかる。大き星は、常にそれ自身が回転しているのか、こちらから見える模様が変わって見えるんだよ。それはつまりあちらからこちらを観測すれば、天球を動いているように見えるって事だ。「月」は天球を東から西へ動き、満ち欠けする。だが、こちらから見る大き星は動かない。満ち欠けはするが、その時ですら模様は動き続ける。だから、ここが「月」だと仮定して考えれば全ての辻褄があう」

 保食と水泥は、そろって窓に視線を向けた。銀粉の粉を散らした留紺とまりこんの空に、ぽっかりと一つだけ大きな見慣れた星が浮かんでいる。

「あれが、異地……」

「ああそうだ。わかるか? 大き星が玉の形をしているなら、恐らくこちらの「月」も玉形なんだ。そして、姮娥こうがの国土全体から大き星が必ず見えるなら、その裏側に当たる妣國ははのくにからは大き星は見えないって事になる。――葦原中国と根の堅州国の間に置かれた大岩があるとしたら、それこそこの「月」に他ならないんだ。同じ黄泉比良坂を渡って辿り着く死者の国だが、別の場所だと言われる根の堅州国と黄泉の国の理屈も、これで説明がつく」

 水泥が驚愕の表情で振り返る。

「ねぇ、じゃあ、ぼく達の祖は、一体どうやってこのそらを越えてきたの?」



「――そんなもん、黄泉比良坂よもつひらさかを開いて渡ってきたに決まってるだろ」



 ぞっとする程低く暗い八咫の声に、保食は全身の血の気が引いた思いがした。暗い黒い、底の見えない眼差し。

「――それって、異地の神話からしたら、ここは死者の国って事になるの?」

「そうだな。それも、黄泉の国のほうな」

 麻硝がふっと笑う。

「皮肉な話だよね。先朝の国名は夜見だ。すでに文字に書かれて答えは目の前に用意されていたというのに、識字の力がないから、こんなに簡単な事がこの五百年繋がらなかった」

 八咫はそれを受けて小さく頷く。

「ねぇ、八咫」

 水泥がそっと手を上げた。

「そこまではなんとなくわかった。けど、妣國ははのくにの民の「目覚め」っていう異変とえいしゅうがどう関係してくるの? なんでそう思ったの?」

 八咫は、ゆっくりと瞬きをしてから、するりと立ち上がった。



「――俺の中から、死屍しし散華さんげが消えはじめたのが、丁度一年前の事だからだ」



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