5 地獄

27 白央邸



 朝、目が覚めるたびに、今自分が横たわっている場所がどこなのかを確認する癖がついた。


 熊掌ゆうひは、ゆっくりと瞼を開いた。

 見えた天井は、見慣れた古い板張りではなく、豪奢な天蓋だった。



 ――ああ、今日はここだったか。



 瞼を閉じて、小さく吐息を零す。


 ここは、方丈ほうじょうの宮だ。


 帝壼宮ていこんきゅうの最奥に、城郭の内側に更に城郭を設けて囲い挙げた区画がある。それがここだ。邑一つ分の人間が暮らす事が十分すぎる程可能な殿舎が幾つも建ち並ぶ。その全てが正殿に追随を許すほどに豪奢なのは、そもそもここが後宮として機能していた場だからだ。

 現在ここに居住している方丈の民は、今は三十前後と少ない。それでもそのほぼ全てが『色変わり』なき民なのであるから、飼い主である如艶じょえんとしては至極効率がよかったろう。そしてそんな殿舎の中でも、ここは最も豪奢な作りをしている。方丈の長が居住する、邑長邸――通称、はくおう邸である。

 つるつると冷たい絹の薄布を、素肌の上に直接感じる。ゆっくりと体を起こして、自身の左隣に横たわる男の背中に、凍傷やけるほど冷たい視線を向けた。腹の奥に残る疼痛と、全身に残る倦怠感。――それにもすっかり慣れてしまった己が無様でわらえた。

 男の背中には長い黒髪が零れている。肩に掛かった一条を認めて、ついとすくい上げると、指先を掴まれた。

 寝返りをうちながら、男は寝起きの気だるさで自身の髪を掻き揚げる。熊掌の顔を見ると、その体を引き寄せて自身の胸の上に置いた。

 ふわりと微かな柑橘の香が熊掌の鼻孔に届く。

 呼び起こされる懐かしい記憶に、熊掌はそっと瞼を閉じて蓋をした。

「もう朝か」

「ええ」

「一月などまたたく間だな。またお前をえいしゅうに送り出さなくてはならない」

「――はい」

 胸から直接響く男の声は――いや、声もまた、と言うべきか――悟堂ごどうのそれと酷似していた。

 男は五尺九寸はあろうかという上背を誇るが、その顔立ちと骨格、立ち居振る舞いは、寧ろ嫋やかかつ流麗。それは正しく悟堂そのものの容色だった。

 違うのは髭鬚ひげがあるかないかぐらいか。

 結局あれは何度言ってもその髭鬚を当たることがなかった。何度言ってもはぐらかした。あれが、変わらぬ容姿を隠すためだったと気付いたのは、悟堂をうしなってから間もなくの事だった。

 そんなつまらない思い出の一々が、熊掌の心をゆるませては、即座に切り裂く。

 男の腕が、熊掌の肩を抱いた。掌が熱いのは、自分の身が冷えているからだろう。

「しばらくまた離れる事になるな」

「ええ。名残惜しくてなりません」

 間髪入れずに答えた熊掌に、男はふわりと柔らかくまなじりを下げた。

「言葉の使い方が身についたな」

「――そう仰っていただけると……」

「宮中作法も、最早俺から教える事はない。これなら五邑の長としてどこに出しても恥じる事はないだろう」

 男の言葉に、熊掌はゆっくりと上体を起こし、絹を胸元に巻きなおしながら嫋やかに――可能な限り最大限に嫋やかに――小首をかしげて微笑んだ。

「すべて先生から教わった事です。この御恩と御尽力に僅かなりとも報いる事ができましたなら、わたくしも安堵できるのですが」

 男の手が伸びる。熊掌の胸元を隠していた薄布を剥ぎ取る。今は如月の末。晒された胸が寒い。熊掌の手首を掴むと、男は自身の下に改めて組み敷いた。

藍龍らんりょう。二人の時には? そう呼べと教えた記憶はないぞ」

 熊掌は、自身を見下ろす男の顔をじっと見つめた。これは悟堂ではない。香りも声も姿形も、何もかもが生き写しのようであっても、これは悟堂ではない。

 悟堂ではないのだ。

 男の頸に両腕を巻き付けながら、骨の髄にまで叩き込まれた、命じられた通りの仕草で要求に応える。

 背筋が凍る程の憎悪と止まない殺意を覚えながら、花のような微笑を浮かべて、熊掌は男の唇をねだった。



芙人ふひと。愛してるわ。お願い、離れている間も貴方とのよすがが信じられるようにしてほしいの。抱いて、今すぐに」



 徹底して覚えさせられた陳腐な台詞。これを言い続ければこの男を殺せると誰か保障してくれるのであれば、何億回でも唱えてやるというのに。


 ――心の底からそうどくきながら、熊掌は、四方津よもつ芙人ふひとの脚に自身の脚を深く絡めた。


 七年前のぬくもりと、切り捨てた思いの裂傷を、必死で瞼の外に追い出しながら。

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