28 海岸にて、三者 ー経緯ー
*
長期間の療養を経てようやく一人で歩けるようになったある日、熊掌は一人白玉の祠に昇った。
早朝に昇ったはずの熊掌が下山したのは、昼近くになっての事だった。
悟堂の邸に戻った熊掌の表情は、紙のように白かったと、後に八重が語っている。蒼白な顔で微笑んだあと、熊掌はそのまま土間に崩れ落ちた。
その日の夜、熊掌は
熊掌の言葉に南辰は大いに狼狽し、何日かに渡って話し合いの場が持たれたが、熊掌は意を変えなかった。
これは相談ではなく、最初の命令であり号令だったのである。
それは偶然であるのか必然であるのか、年の変わりを明日に控えた大晦日であった。
残った邑人全員が邑長邸に集められたのである。
若き邑長となった熊掌が先に立ち、老人や赤子の世話から離れられない者などを除いた全邑人に着いてくるように指示する。
その様子は、既に
熊掌の隣には
最後尾には
向かったのは、
熊掌が邑人を前にして
全員で白玉に参拝させ、これまでの慣習と決まりのからくりを明らかにした。
邑人の衝撃と
この時、実際に参拝をして見せたのは長鳴だった。
熊掌自身は祠の外に留まり、全てが済んでから祠の外で説明をしたのだが、その理由について熊掌が語る事はなかった。長鳴ですら、その説明を受けていない。
まだ風の冷える
熊掌と長鳴は連れ立って海岸に出た。
海の水は
かつて父達が密談の為に使用していた地下牢は、危険過ぎるので誰も立ち入らせる事がないように封鎖されている。黄師のみならず、邑人にも聞かせたくない話をする時には、こうして自然と海へ足が伸びるようになっていた。
白玉の実態と真実が邑に知れ渡って後、殆どの邑人が参拝を拒絶するようになった。誰でもあんなからくりを知れば反動としてそう作用するに決まっている。心情的には無理からぬ事だった。
結果的に、下がりの品が増やせなくなった。対朝廷には申し開きが立たない状態である。
そこで黄師に対し直談判をしたのが
自身は『色変わり』をしない娘である。聞けば現代、
談判を受け、判断に困った当時の黄師長は、熊掌を伴い
熊掌自ら参内した事を気に入った
無論無条件ではない。年に二度の熊掌の参内と、猶予の期限は八重の継承までとされた。
熊掌がこの奏上の為の参内から帰邑したのは昨日の事である。今回はすぐに
それでも十二分に寛大な沙汰であると分かると、長鳴は熊掌の前で胸を撫で下ろしていた。
「兄上からお伺いした月朝の実際の様子から
率直な弟の
月皇の思惑は兎も角、以上の流れの下、本当に八重は祠裏の堂にほぼ泊まり込みで詰める事になった。
保管小屋は焼けて後再建される事はなく、一時悟堂邸に移していた下がりの品や布も堂の中に移されていた。あらゆるものが、収まるべき場所に、
父を
これまで、次期邑長である熊掌と、次子の長鳴との間には、確執はなけれど隔絶はあった。立場の違いや個人の資質といったものは、冷酷な程明白に他者から断じられるものだ。彼等自身がそれを感じないはずがない。自ずと相互から距離は取られていた期間が長引いた。
その隙間を埋めてくれていたのが
二人に大きな隔ては作らず、各々に合わせた力量で剣術指南を行った。兄弟に
例えそれが、未だ明かされぬ父達の画策に覆われたものであろうと。
長鳴は、密かに兄の心模様を思い、その胸を痛めていた。
大悟堂は、長の衛士という肩書ではあったが、実質は兄専属の護衛であった。兄が生まれてからの養育を一手に引き受けた人物でもある。
それが先の災禍の折に黄師側の間諜であった事。宮城に拠点を構える
そんな、濃密過ぎる程に人生に関わってきた人物を、この兄は失ったのだ。それはどれ程大きな喪失であったろうか。
兄は、それについて何も言わない。言えないのかも知れない。
長鳴は、兄の横顔を見ながら密かに思う。
そう。自分達が邑の真相に行き着くよりはるか以前から、父達は事に備え動いていた。否、正しくは歴代の長達が、というべきだろうか。
それから
これらは全て、
自分達が
その目前に、
自分達は、彼等の希望を叶えるために動いたが、彼等が邑を出た後の消息は、この半年間、一切掴めていない。
白浪と繋がりがあった父は宮城にいる。
八俣は
悟堂は依然として消息不明である。
つまり、邑の中に残された自分達には、外部と繋がる為の糸口が全くないのだ。
その事について言及すると、兄は小さく首肯して見せた。
「僕もその事についてはずっと考えていた」
低く穏やかな声で呟く兄の声は、今にも海風に
邑人に全てを明かした大晦日。八重の談判を宮城に持ち込むため熊掌が邑から出たのは睦月。談判を認めさせ、帰邑したのが弥生近い如月。その間長鳴に出来た事はそう多くない。手を着けた物はあれど、未だ成し遂げたという物ではない。率直に言えば、後始末以外にまともに何かを為せたものがなく、焦れていた。
「長鳴」
「はい」
「次は
「――兄上」
「――あちらで耳に入れた」
「なにを、ですか」
「白浪が各地に文を飛ばしているらしい。無論、
「白浪が……戦線布告ですか? いやでも食国は
「見るか?」
つ、と熊掌が懐に手をやる。引き出したのは紙だった。手渡されたものを見た長鳴は、難しい顔をして熊掌を見た。
「あ、兄上、これは」
「あちらで見た物の写しだ」
此度の各州城県城に起きし一連の事は、先朝遺臣である白浪が月朝に与えし誅罰である。水源には
「これは」
「ああ。明らかに、あの時
熊掌に促されて文末に眼をやると、
「――おかしくないですか? 署名は兎も角、わざわざ自身の本拠地を明かすなど」
「ああ、おかしい。しかし実際にそこに本拠地があったそうだ」
「――内通か何かですか?」
「もしくは、仙山が仕掛けたか……」
「あの、白皇の遺児というのは食国の事ですよね? 彼は今白浪にいるということですか?」
「それも、書かれた文言が真実であればな、という話だ。疑わしい部分が多すぎるが、実際に事実と合致している。本拠地というのは
ざあ、と海が鳴る。
「――自分達で、邑の護りを固めねばならない」
「そう、ですね」
長鳴が同意すると、兄は小首を傾げながらふわりと微笑んだ。
「白浪に向けて、禁軍と黄師の進軍はすでに始まっている」
「な……」
「
気の強い
「――それに、僕には、もしかしたら……」
「兄上?」
思わず漏らした言葉だったのか、熊掌ははっとした顔を見せ、それから苦笑して頚を横に振った。
「いや。今はまだいい。またいずれ話す。それよりも、お前に頼みたい事があるんだ」
「――なんですか」
「お前にしか頼めない事だ。何年掛かっても構わないが、なるべく早くにやってほしい」
「ちょっと、時間がかかっていいのか駄目なのかどっちなんですか。言ってみてください。一応聞きますから」
熊掌は艶やかな笑顔を浮かべて、風に靡かせた黒髪を指先で掻き揚げた。
「――猛毒を作ってほしい。どんな人間でもたちどころに殺せる毒を」
刹那、長鳴は呼吸を忘れた。ややあって。深く息を吸い込むと、ふ、と眼を伏せた。兄の意図は理解したつもりだった。兄は知っていたのだ。自分達が既にそれに着手していた事を。
「――それが五邑の民であっても、ですか」
「そうだ」
「――時間はかかるかも知れませんよ」
「構わない。ある程度まではな。任せたぞ」
「委細承知」
長鳴は、敢えてそれを誰の為に、誰に、何のために使うのかについて言及するのはよした。その程度の想像は付く。一体何年
そして彼は、長鳴の事をもまた熟知している。つまりは、その使い方を。
海を見詰める兄の横顔はやはり静かだった。
「話は済んだか」
突然離れた場所から声がする。兄弟が顔を向けると、
熊掌がゆっくりと頷く。
「ああ。すまない待たせた。行こうか」
「兄上? 梶火と何か?」
熊掌は静かに笑うと、彼の隣に立った梶火の顔を見て、その笑みを消した。
「――本当に、いいんだな?」
「
「命に
「構わん。ここを越えられなきゃ、あんたの右腕は名乗れねぇからな」
「ちょ、何? 二人とも何の話してるの?」
梶火がにやりと笑って長鳴の胸をどんと拳で突いた。
「うまくいったら教えてやる。駄目だったら大兄の事頼んだぞ」
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