54 挟撃 ー経緯ー



「――――え?」

「いやだから、その大兄というのはおすだろう? 雌性しせい雄性ゆうせいが一ずつだから。ほら、色だってそうだし」

 騎久瑠きくるが立ち上がり、すん、とかじの首筋の匂いをいだ。

「ほら、やっぱり間違いない。それに匂いだって――いや、ん?」

 騎久瑠が眉間に皺を寄せながら、更に梶火に近付き匂いを嗅ぐ。ほとんど首筋に鼻を押し付けているような状態だ。流石さすがの梶火も鳥肌を立てて騎久瑠を押しやった。今度は紅炎こうえんも止めなかった。

「ちょ、おい騎久瑠やめろ! お前いくらなんでも寄り過ぎだ!」

「いや、それどころじゃないわよ。――なんか、変だ」

「は⁉」

「だから変なんだよ、お前のその大兄っての」

 梶火の腹の内にざわりとしたものがく。

 ごぼり、と何かが音を立てる。

「――変って、何がだよ」

「見れば種は明らかに雌性一種雄性一種だと分かるのに、匂いがおかしい」

「匂いだ?」

「ほんとうに分からないんだ。匂いではじれが起きている」

 捻じれ、というその言葉に、梶火は全身がざわつくのを感じた。背中に火照りと悪寒が同時に走っているような厭な感触だ。騎久瑠は更に顔を歪めた。

「ちょっと……これは、本当にどっちだ?」

「どうした?」

 騎久瑠の様子に紅炎こうえんも立ち上がる。

「おかしいんだ。見た感じは単純に雄だと思ったんだが、匂いを嗅ぐと捻じれがあるんだ。だから雌にもとれる匂いがする」

 聞くなり紅炎も梶火の頸筋に鼻を擦り付けてくる。

「いやちょ! マジでやめろ!」

 気持ちの悪さに梶火は全身に粟を立てて紅炎を引き剥がしたが、あにはからんや、その表情は険しかった。

「これは……」

「分かるな?」

「ああ。――これでは、姮娥こうがでは判別がつかんだろうな」

「判別がつかないって……」

「姮娥の民は匂いで雌性しせい雄性ゆうせい配分が分かる。一方、妣國ははのくにの民は視覚でそれを見分ける。これは俺達が「神域しんいきがん」を持つからだ。前に説明したろ。「神域眼」は『神域しんいき』に入った者や、『神域』に関わりがある者を見分ける事ができるんだって。――一度でも『神域』に関わった者は、人とは隔てられるんだ」

「な、なに」

「人でなくなるんだよ、『神域』入りすれば。それは神の領域の者に転化すると言う事だ。人でなくなれば繁殖の為の種は意味を為さなくなるから、その種はじれて見えるようになる」

 梶火の眼を見る騎久瑠の眉間に、深い皺が刻まれる。



「――そいつ、本当にただの五邑ごゆうか?」



 ざわり、ざわりと焦燥がさわぐ。ぷ、と何かが芽吹く音が梶火の身の内でした。これはなんだ。この取り返しのつかない何かに気付いたような不安はなんだ。一体何が――。


 その瞬間、近くでばん! と激しく何かが破裂するような音がした。


 音に反応したのは三人同時だったが、駆けだした騎久瑠と紅炎が目にしたのは、目標に向かって天高く跳躍ちょうやくした梶火の背中だった。

 それは、常人の為せるものでは明らかになかった。

 

 紅炎の片頬が笑みに引きる。矢張やはり、と。

 

 先、騎久瑠の口元を梶火の手が覆った時。紅炎は護衛としての働きを為すべくその手首を掴んで止めようとした。そしてもう一方の手で梶火の首根っこを掴んだ。

 しかし紅炎は、梶火を力尽くで止める事が出来なかった。

 この未だ年若い少年の膂力に、力自慢の自分が太刀打ち出来なかったのである。


          *


 かじの跳躍は、本人すら知らぬ事だが、悟堂ごどう熊掌ゆうひのそれをはるかに上回る。この咄嗟とっさの瞬間のものですら五十けんを超えていた。

 谷のはるか上空の風は強かった。舞う砂埃から眼をすがめてかばいながら下の状況を視認する。

 騎久瑠きくる紅炎こうえんがこちらを見上げているのには気付いていた。構わない。いずれ明らかにするつもりだった事だ。

 二人は矢張やはり破裂音がした方向へけている。――だからそれ以外を見落とすだろうと判断した。


 この肌がひり付く感覚には覚えがある。

 二年前のあの時だ。


 全身を騒騒ざわざわめたこれは、熊掌の事の指摘だけではなかった。見れば梶火の前方におよそ百。後方に二百の集団がある。大市は挟まれていた。

 人差し指と親指で小さなあなを作りのぞいた。即席の遠眼鏡とおめがねである。見たところ兵の数はいるが、武器は棍棒や粗雑な剣、半弓などだ。禁軍でも黄師こうしでも、ましてや廂軍しょうぐんでもない。

「!」

 微かな金切声かなきりごえが聞こえた気がして、はっと更に中空で身をひるがえした。

 幼い子供を抱え、後方へ向けて走る女がいる。あの、花月ホアユエとかいう余所の集の女だ。よくよく見れば小脇に抱えているのは――あの林檎の乾物の子供だ。更に手前を見れば親三人が木陰で締め上げられている。

 人攫ひとさらいか大市を狙ったか、もしくはしゅうそのものに対する襲撃か、こうして見ただけでは目的は明瞭はっきりしないし挟み撃ちにしている連中が何に属しているのかも推察できない。が、明らかに危機的状況だ。

 自身の体が落下の態勢に入ったのを機に梶火は叫んだ。



「騎久瑠! 南東に百! 北西に二百! 人質成人三人! 子供のかどわかし一人‼」



 気付いた騎久瑠が血相を変えて紅炎に何事かを告げた瞬間だった。

 紅炎が咆哮ほうこうを上げて両手を振り被り後方二百の方角へ向けてその手を振り切った。そこから深紅の豪炎ごうえんが二匹の蛇のようにおどり出る。我が眼を疑う光景に梶火は度肝を抜かれたがそれどころではない。落下近くの大木に目標を定めて枝の一つに飛び移った。即時近くを見定めて手頃な枝を二本むしり取る。己のした事であるが、みしみしと生木の裂かれる音が生々しい。両手に掴み枝から飛び降りた。目指す先は騎久瑠のそばである。

 周囲は既に状況を理解したのか、それまであきないをしていた連中が店を投げ出し戦闘に備えている。さすが騎久瑠の集だ。決断と行動が早い。

紫炎しえん! 退路はどこが望ましい⁉」

「上だ! せきぎょくびょうに進ませろ。襲撃の数が多い」

「分かった」

 騎久瑠が指笛を鳴らした。変わった音階が響く。途端、市の両端にごうっと青い炎が上がった。まるで大市の前後が、二枚の幅が広い滝に挟まれたようになる。

「なんっだ⁉ あれ」

青炎せいえんの炎だ。あれでしばらく襲撃は食い止められる」

「山燃えねぇのか⁉」

「大丈夫だ。二人とも熾燃しねんだからな。目的の物以外は燃やさない」

 ちらと振り返れば確かに延焼はしていない。これは一先ひとまず言葉を信じて次の行動へ移るのが先決だろう。二人は非戦闘員とおぼしき店の者達に赤玉廟への避難を呼びかけ走った。戦闘員は二分させて前後に分け走らせる。騎久瑠の采配は迅速且つ明瞭だった。恐らく事前に事が起きた場合の隊の動かし方は定まっているのだろう。梶火に退路を聞いたのは上空から見た状況の確認を加えられればなお最善さいぜんさくが選べるからだ。小気味よい程に手抜かりがない。

「あの装飾品売りの女が子供をさらってた」

「分かってる! だから紅炎が目を付けてたんだよ!」

「おっ前! そう言う事なら教えとけよ!」

「お前だってその跳躍と膂力りょりょくの事隠してただろ!」

 ぐうの音も出ない。

「上から兵の様子は見えたか?」

「ああ、ありゃ軍じゃねぇな。散華さんげとうも持ってなかった」

「ならば土地を追われた連中が徒党を組んだものだろうな」

 すと、と軽い音がした。

 見れば足元に矢が刺さっている。次いで二本、三本と。騎久瑠がちっと舌打ちをした。

「くっそ! さすがに飛び道具は青炎の滝炎ろうえんじゃ防ぎきれんわ‼」

 矢の一本を蹴り飛ばしてから騎久瑠は声を張り上げた。

「総員退避‼ 荷をてて廟へ走れ! 人質奪還に三の隊北西へ向かえ!」

「御意!」

 五人程の男達が騎久瑠の横を走り抜けて行く。

「騎久瑠。さっきの破裂音の正体は?」

「それこそ花月の店のものだよ。襲撃開始の合図だろ」

「成程な」

 梶火と騎久瑠目掛けて再び矢が飛来する。梶火は毟り取ってきた枝で薙ぎ払った。

 その場にいた数名が矢でたれるが、大抵は姮娥こうがの民である。この程度で命は失わない。

 つまりこれは根気次第の消耗戦なのだ。

 死屍しし散華さんげが用いられない限り姮娥は命を落とさない。しかし傷付かない訳でも肉体を損傷しない訳でもない。手足も千切れ飛ぶし内臓もつぶれる。回復には体力次第という側面がある。故に、圧倒的な戦力で身動きが取れない状態にまで相手を追い込んだ方が戦では勝ちとなる。

 自然、その戦闘は残虐なものにならざるを得ない。

 騎久瑠の指示で負傷を負った者も順次赤玉廟に運び終わり、状況は籠城戦ろうじょうせん様相ようそうていし始めた。

「紅炎は?」

 ふと、その帰投きとうがまだである事に気付き梶火が問いかけると、騎久瑠は難しい顔をした。

「まだだ。二百の方に行かせたからな……流石さすがに数が多いか」

「行くか」

 騎久瑠が苦しい顔で歯を食いしばった。

「――行ける訳ないだろう。私の首をられるわけにはいかん。大将が麾下きかを助けに敵陣に切り込むなんざ御伽おとぎばなしじゃないんだから」

「馬鹿ちげぇよ! 俺が行くかって聞いてんだろうが」

 はっと顔を上げる。

「紫炎――」

 梶火は「はっ」と笑った。恐らく騎久瑠は今自分がどんな顔をしているのか気付いてすらいない。

「一蓮に乗るんだろうが」

「――頼む!」

 騎久瑠が言うが早いか、再び天高く梶火は飛んだ。



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