38 口付け ー経緯ー
ざ、と梶火は、背中が寒気に撫で上げられた気がした。心臓が縮むように胸がぎりと締まる。それを見て取ったのかどうか、熊掌は
「僕の道は長さがない」
「――は」
「二寸より先はなかったようだ。だから、大抵の男は収まらん。――だから、裂けた」
思わず梶火は自身の口元を手で覆った。喉がぐぅっと鳴る。自分の顔が青褪めているのが分かる。
「大兄……そいつは、この事を
「言わないだろうな。言ったら自分の好きに嬲れなくなる。――これから
熊掌の言葉の意味を理解し、梶火は熊掌の肩を思わず抱いた。これから熊掌がどんな環境にその身を置く事になるのか、何がその身の上に起こるのかを瞬時に悟り、頭の中が白くなった。しかし何も言葉に出来なかった。何もかもかなぐり捨てて逃げろとは言ってやれない。それだけの重責が熊掌の双肩にかかっている。この細い両肩に――梶火は身の内から震えた。
「梶火」
「――……。」
「なぁ、梶火」
「――なんだ」
「すまないが、本当にすまないんだが、頼みがある」
「なんだ」
熊掌はそっと体を離すと、梶火の手を取り、そこに熊掌の手を合わせた。そうしてはじめて、これ程までに大きさが違う事を知る。こんなに小さな手だとは思っていなかった。いや、昔はこうじゃなかった。つまり、自分がそれだけ育ったという事だ。
かくも、性差とは如実に表れるものかと愕然とする。
熊掌は「うん」と小さく頷くと、梶火の眼を見た。
「どうしても無理にとは言わない。厭なら断ってくれていい」
「――あんたの頼みを俺が今更断ると思うんか? 玉すら切って片方は失って
梶火の言葉に熊掌は笑った。ちらと傍らに視線を向ける。そこには絹地に金糸で刺繍が施された巾着が放り出されていた。その上には、木製と思しき棒のようなものと、陶製と思しき蓋付きの容器が転がされている。巾着もそうだが、容器もまた繊細な絵付けが
「これは?」
「張形と軟膏だ」
「は」
熊掌は静かに嗤う。もう嗤うしかないのだろう。
「深さも幅もない出来損ないの孔だ。無理矢理引き裂いて入れたところで傷が癒えればまた元に戻る。そうならないように、軟膏で傷を治しながら、張形を常時埋めて置いて穴が縮まらないように――」
「いい!」
梶火は堪らず顔をそらし俯け、熊掌の口を自身の掌で塞いだ。
「もういい、分かった。それ以上言わなくていい!」
梶火の体が震える。我知らず
熊掌の力をもってすれば、勝てない相手では決してないはずだ。
それでも従わざるを得ないのは、邑と、彼の父親の命が掛かっているからだ。
本気で抗えば自力で回避できる災厄を、自身の意志で耐える事を強制されるという、自身の意志で決めた事だと突き付けられる――あまりに非道な暴力。それを、この敬愛すべき大兄がその一身に受けている。そしてこれからも受け続ける事になる。これ以上の最悪があるだろうか。
熊掌がそっと梶火の掌をよける。
「梶火。ありがとう。泣いてくれて」
「大兄……」
「もう僕は、自分の為には泣けないからな」
透き通るような眼差しに、梶火は言葉を失う。
「そこでだ、本当に申し訳ないんだが……」
「うん」
「――僕の指では、傷にまで届かないんだ」
「っ……」
「奥の割けた部分に、うまく薬が塗れない。張形を押し込んでいるから出血も中々収まらない。――あれは、そういうことだ」
下帯にちらと視線を投げてから、熊掌は顔を俯けた。さら、と黒髪が横顔を隠す。小さな消え入りそうな声で「頼まれてくれるか」と呟いた。
言葉が意味する事を理解して、梶火は息を呑んだ。あまりの事に決断ができず、返答できない。無言の時間が過ぎる。
ふ、と熊掌が吐息を零した。
「すまない。無理を言った。邑に戻ったら
「いや駄目だ!」
考えるより先に叫んでいた。それはつまり、今しがた熊掌が自分に頼んだ事を南辰にやらせるという事だ。
厭だった。
反射で拒絶する程に厭だった。
それが例え実の叔父であろうが、その目的が手当てや治療であろうが、これ以上その秘所に誰かが触れるという事に、耐え難い拒絶を覚えた。
二人の間に、静かな無言が垂れ込める。
「梶火」
「少し待ってくれ」
ぐっと眉間に皺を寄せてから、梶火は自身の指先を見た。大丈夫、爪は短いと瞬時に判断する。立ち上がると水辺に寄り、袖を捲り上げた。肘近くまで両腕をざばざばと洗うと、やや間をおいてから深く息を吸い込んで立ち上がった。鋭い眼差しで熊掌の傍らに戻る。熊掌の視線を感じたが、ついと視線を逸らした。
「――薬はこれか」
陶器の器を指すと、熊掌はこくりと頷いた。
*
「――ありがとう。こんな汚れ仕事を」
居住まいを正しながら、ぽつり呟いた熊掌の言葉に梶火は目をむく。
「やめろ、そんな言い方するな。あんたが汚れてる訳ないだろうが!」
思わず怒鳴りつけると、熊掌はふわりと笑った。そして――そっと手を伸ばすと、梶火の頬に触れた。さらさらと零れ落ちる涙に、ゆっくりと触れる。その時になって漸く、梶火は自分が泣いていた事に気付いた。
「嗤ってしまうだろう? ――この
「たい、けい……」
「よくわかった。――外から見た俺は、ただの薄汚れた雌狗なんだってな」
「やめろやめろ止めてくれ‼」
辺りにこだまする程の絶叫が梶火の唇から
我知らずに涙が零れ落ちる。それは、かつての自身が発した言葉の非道さに対する
己は、一体なんという言葉をこの目の前の人に対して発したのか。悔やんでも悔やみきれない。どうして、
どうしてあんな事を言ってしまったのか。
欠ける程に歯を噛み締めながら、梶火は熊掌の肩を掴んでじっとその目を見た。
撤回などと虫のいい事は言わない。言えない。だから……。
「あんたが汚れてるってんなら、俺も一緒にその泥に落ちてやる。この世の底にだって付いて行く。何があってもだ。そんな事を世界が言うなら、俺が力尽くで捻じ伏せてやる。あんたが望むように動くし生きるよ。あんたが願う事ならなんだって叶えてやる。だから――」
「――だったら、殺すか抱くかしてくれよ」
「た」
は、と息を吞む。生唾を飲み込む。
「だ、だめだ、こんな、出血するような傷があるのに……」
熊掌の指先が梶火の涙を拭い、そっと梶火の中心に降りる。抗えずに固まったまま、梶火は唇を噛んだ。
次の瞬間、それまで微笑んでいた熊掌の顔が、ゆっくりと歪んだ。
「頼む。あんな――あんな男にいいようにされたままの体で、邑にかえりたくない……っ」
流せない涙の分、血を吐くような思いで吐き出された言葉を覆い隠すように、梶火は熊掌の唇を自分のそれで塞いだ。
これ以上、何も言わせたくなかった。
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