38 口付け ー経緯ー 



 ざ、と梶火は、背中が寒気に撫で上げられた気がした。心臓が縮むように胸がぎりと締まる。それを見て取ったのかどうか、熊掌はうつむきながら溜息を零す。

「僕の道は長さがない」

「――は」

「二寸より先はなかったようだ。だから、大抵の男は収まらん。――だから、裂けた」

 思わず梶火は自身の口元を手で覆った。喉がぐぅっと鳴る。自分の顔が青褪めているのが分かる。

「大兄……そいつは、この事を月皇げっこうには」

「言わないだろうな。言ったら自分の好きに嬲れなくなる。――これから四方津よもつ芙人ふひとが僕の教育係になるのが決まった。半年ごとに奴の預かりで、邑長として如何にあるべきかをありがたくも教わるんだそうだ。父がとらえられて、僕はそれを知る機会をいっしたからな」

 熊掌の言葉の意味を理解し、梶火は熊掌の肩を思わず抱いた。これから熊掌がどんな環境にその身を置く事になるのか、何がその身の上に起こるのかを瞬時に悟り、頭の中が白くなった。しかし何も言葉に出来なかった。何もかもかなぐり捨てて逃げろとは言ってやれない。それだけの重責が熊掌の双肩にかかっている。この細い両肩に――梶火は身の内から震えた。

「梶火」

「――……。」

「なぁ、梶火」

「――なんだ」

「すまないが、本当にすまないんだが、頼みがある」

「なんだ」

 熊掌はそっと体を離すと、梶火の手を取り、そこに熊掌の手を合わせた。そうしてはじめて、これ程までに大きさが違う事を知る。こんなに小さな手だとは思っていなかった。いや、昔はこうじゃなかった。つまり、自分がそれだけ育ったという事だ。

 かくも、性差とは如実に表れるものかと愕然とする。

 熊掌は「うん」と小さく頷くと、梶火の眼を見た。

「どうしても無理にとは言わない。厭なら断ってくれていい」

「――あんたの頼みを俺が今更断ると思うんか? 玉すら切って片方は失って挙句あげく下の世話までされる生き恥さらしてんのに、まだのこのこ付いてくる大馬鹿野郎なんだぞ。言ってくれ」

 梶火の言葉に熊掌は笑った。ちらと傍らに視線を向ける。そこには絹地に金糸で刺繍が施された巾着が放り出されていた。その上には、木製と思しき棒のようなものと、陶製と思しき蓋付きの容器が転がされている。巾着もそうだが、容器もまた繊細な絵付けがほどこされた明らかな高級品だった。

「これは?」

「張形と軟膏だ」

「は」

 熊掌は静かに嗤う。もう嗤うしかないのだろう。

「深さも幅もない出来損ないの孔だ。無理矢理引き裂いて入れたところで傷が癒えればまた元に戻る。そうならないように、軟膏で傷を治しながら、張形を常時埋めて置いて穴が縮まらないように――」

「いい!」

 梶火は堪らず顔をそらし俯け、熊掌の口を自身の掌で塞いだ。

「もういい、分かった。それ以上言わなくていい!」

 梶火の体が震える。我知らずまなじりに涙が浮かんだ。堪え切れずに、ばたばたと滴が落ちる。梶火は、自身が知らない、知る事のなかった種類の暴力を、生まれて始めて目の当たりにして震えた。

 熊掌の力をもってすれば、勝てない相手では決してないはずだ。

 それでも従わざるを得ないのは、邑と、彼の父親の命が掛かっているからだ。

 本気で抗えば自力で回避できる災厄を、自身の意志で耐える事を強制されるという、自身の意志で決めた事だと突き付けられる――あまりに非道な暴力。それを、この敬愛すべき大兄がその一身に受けている。そしてこれからも受け続ける事になる。これ以上の最悪があるだろうか。

 熊掌がそっと梶火の掌をよける。

「梶火。ありがとう。泣いてくれて」

「大兄……」

「もう僕は、自分の為には泣けないからな」

 透き通るような眼差しに、梶火は言葉を失う。

「そこでだ、本当に申し訳ないんだが……」

「うん」

「――僕の指では、傷にまで届かないんだ」

「っ……」

「奥の割けた部分に、うまく薬が塗れない。張形を押し込んでいるから出血も中々収まらない。――あれは、そういうことだ」

 下帯にちらと視線を投げてから、熊掌は顔を俯けた。さら、と黒髪が横顔を隠す。小さな消え入りそうな声で「頼まれてくれるか」と呟いた。

 言葉が意味する事を理解して、梶火は息を呑んだ。あまりの事に決断ができず、返答できない。無言の時間が過ぎる。

 ふ、と熊掌が吐息を零した。

「すまない。無理を言った。邑に戻ったら南辰なんしんにたのむ」

「いや駄目だ!」

 考えるより先に叫んでいた。それはつまり、今しがた熊掌が自分に頼んだ事を南辰にやらせるという事だ。

 厭だった。

 反射で拒絶する程に厭だった。

 それが例え実の叔父であろうが、その目的が手当てや治療であろうが、これ以上その秘所に誰かが触れるという事に、耐え難い拒絶を覚えた。

 二人の間に、静かな無言が垂れ込める。

「梶火」

「少し待ってくれ」

 ぐっと眉間に皺を寄せてから、梶火は自身の指先を見た。大丈夫、爪は短いと瞬時に判断する。立ち上がると水辺に寄り、袖を捲り上げた。肘近くまで両腕をざばざばと洗うと、やや間をおいてから深く息を吸い込んで立ち上がった。鋭い眼差しで熊掌の傍らに戻る。熊掌の視線を感じたが、ついと視線を逸らした。

「――薬はこれか」

 陶器の器を指すと、熊掌はこくりと頷いた。


          *


「――ありがとう。こんな汚れ仕事を」

 居住まいを正しながら、ぽつり呟いた熊掌の言葉に梶火は目をむく。

「やめろ、そんな言い方するな。あんたが汚れてる訳ないだろうが!」

 思わず怒鳴りつけると、熊掌はふわりと笑った。そして――そっと手を伸ばすと、梶火の頬に触れた。さらさらと零れ落ちる涙に、ゆっくりと触れる。その時になって漸く、梶火は自分が泣いていた事に気付いた。

「嗤ってしまうだろう? ――このに及んで俺は、自分が暴力で支配される側に回るだなんて微塵も思っていなかったんだ」

「たい、けい……」

「よくわかった。――外から見た俺は、ただの薄汚れた雌狗なんだってな」

「やめろやめろ止めてくれ‼」

 辺りにこだまする程の絶叫が梶火の唇からほとばしった。

 我知らずに涙が零れ落ちる。それは、かつての自身が発した言葉の非道さに対する慙愧ざんきの念に由来した。

 己は、一体なんという言葉をこの目の前の人に対して発したのか。悔やんでも悔やみきれない。どうして、

 どうしてあんな事を言ってしまったのか。

 欠ける程に歯を噛み締めながら、梶火は熊掌の肩を掴んでじっとその目を見た。

 撤回などと虫のいい事は言わない。言えない。だから……。

「あんたが汚れてるってんなら、俺も一緒にその泥に落ちてやる。この世の底にだって付いて行く。何があってもだ。そんな事を世界が言うなら、俺が力尽くで捻じ伏せてやる。あんたが望むように動くし生きるよ。あんたが願う事ならなんだって叶えてやる。だから――」



「――だったら、殺すか抱くかしてくれよ」



「た」

 は、と息を吞む。生唾を飲み込む。

「だ、だめだ、こんな、出血するような傷があるのに……」

 熊掌の指先が梶火の涙を拭い、そっと梶火の中心に降りる。抗えずに固まったまま、梶火は唇を噛んだ。

 次の瞬間、それまで微笑んでいた熊掌の顔が、ゆっくりと歪んだ。

「頼む。あんな――あんな男にいいようにされたままの体で、邑にかえりたくない……っ」

 流せない涙の分、血を吐くような思いで吐き出された言葉を覆い隠すように、梶火は熊掌の唇を自分のそれで塞いだ。

 これ以上、何も言わせたくなかった。


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