45 騎久瑠 ー経緯ー



 何時の間にかそのまま寝入ってしまっていたらしい。つ、と前髪を指先が払う感触がして跳ね起きた。激しく脈動するのに合わせて冷や汗が額から落ちた。

「――すまん、起こしたか」

 そこにいたのは梶火だった。ほっと息を吐く。安堵していいのやら怒っていいのやら。逡巡した挙句――呆れる事にした。

「――あそこで別れは済ませたつもりだったが?」

「すまん」

 ふわりと悪戯気に、しかし嬉しそうに梶火が笑うので、熊掌も釣られて相好を崩してしまう。本当に敵わない。この少年には、どうしてもほだされてしまうのだ、昔から。

「最後に顔だけ見たかったんだ。見たら触れたくなった」

「いや。良いんだ。ここに入るのは誰にも見られていないな? 今ここで見つかったら僕はお前を物取りとして突き出さないといけなくなる」

「違いない」

「――行くんだな」

「ああ」

 視線だけが交わる。

 もう、覚悟を決める時はとうに過ぎた。進むだけだ。皆が歩んでいる中、自分が足取りを覚束なくさせる事で全体が瓦解する事もある。

「じゃあ……」

「あ、そうだ、青」

「なんだ」


八咫やあた食国おすくにの消息がつかめた」


 思いもしなかったその一言に、熊掌は思わずあんぐりと口を開けてしまった。

「――は?」

儀傅ぎふに聞いた。八咫は仙山せんざんにいたが臨赤りんしゃくに関わっていた。食国はやっぱり白浪はくろうにいた。今は二人ともどうか分からんが、一先ずそうだったって事だけ分かったから伝えておく」

「分かった。気を付けろよ」

「行って来る。――約束忘れんなよ」

「ああ」

 梶火はそのまま天幕を後にした。まるで一陣の風のような登場と退場に、熊掌は少しだけ笑ってから、そのまま顔をぐしゃぐしゃに歪めると体を丸めて頭を抱え込んだ。


          *


 熊掌ゆうひの天幕から抜け出た所でかじの頭に拳骨が落ちた。

 見上げれば儀傅ぎふである。首根っこをつかまれて木陰まで引きられた。

「おお。びっくりした」

「びっくりしたじゃないよお前は。見つかったらどうする気だ」

「すまん。少し話しておきたかったんだ」

「わざわざこんなところまできて夜這いもないだろう? 俺の命も掛かってるんだからな。もう少し考えて行動してくれ」

「分かってる。悪いって。夜這いは帰ってからって約束してるから」

「――冗談で言ったって分かってるよな?」

「ん? 冗談なのか?」

「いや待て冗談じゃないのか――ってまあいい。行くぞ」

「おう」

 儀傅の先導で小走りに進む。まだ宵の口だ。人の出はかなりあった。

 黄師が滞在する凸壁側と、郷の全体を囲う城牆じょうしょうは完全にへだたっている訳ではない。城牆じょうしょうの一分に大きく口を開けた孔があり、そこで両者間を出入り出来るようになっている。凸壁側に出店している店は、それらの事情から土地の利用料が安く設定されている。このため、売り物の値段そのものも安くされている事が多い。度胸のわっている者が安さに釣られて凸壁側に出入りする様がちらほらと散見された。

 流れる夕刻の店先を見ていたその時だった。


「三月後に」


 儀傅のささやくような声が聞こえたのと、自分の頸に薄緑色の肩掛けが巻きつけられたのが同時だった。それを巻きつけた腕は明らかに自分の背後からそれを行っていた。儀傅は真横にいる。つまりこれを掛けてきたのは儀傅ではない。

 びくりと振り返ると、華奢だが長身の男がそこにいた。その男も同じく薄緑色の肩掛けを巻いている。その男が梶火の腕を掴んだ。

「行くぞ」

「え」

「とにかく黙って付いてこい。大門が閉まるまでもう時間がない」

 男に引き摺られるように歩く。視線だけで儀傅を探したが、一瞬人込みの中にその背中が見えたような気がしただけで、確かにそれだと確証の持てる背中はもう見えなかった。

「これを」

 男が懐から取り出したものを梶火の胸に押し当てた。赤く細い襤褸布を編んで作った紐の先に、木の小さな板がぶら下がっている。

「これ」

「旅券だ。俺の弟という事にしてある。あとこれ」

 次いで差し出されたものは細長い棒だった。

「眼を見られて余計な詮索を受けるのは面倒だ。いらん種は極力排除したい。盲目をよそおえ。しゃべるな。後の事は俺がやる」

 大通りを小走りに進んでいたのが、そこからゆっくりとしたものになった。男は依然梶火の腕を掴んでいる。

「なあ、そろそろ腕放してくれていいぞ、逃げねぇから」

「馬鹿野郎。眼が見えん事にしろって言ったろ。ほらもう大門だ。郷の衛兵がいる。もう眼をつむって黙れ。いいと言うまで眼を開けるなよ」

 言われて慌てて眼を閉じる。と、風防を更に深く被せられた。完全に視界を閉ざした状態で歩くというのは初めてだ。足元の感触と男が引く腕に頼らざるを得ない。段差や小石を踏む事で体勢がぐらつく。途端に底知れぬ不安が出る。男が事前に歩調をゆるめてくれていたのがありがたかった。

 と、足元の感触が変わる。石畳だろうか、平衡で歩きやすく、足裏に石の継ぎ目を生々しく感じる。そして男が立ち止まった。

 男が衛士と思しき者と言葉を交わしている。ぐ、と引っ張られた。梶火の頚から下げた旅券を衛士に見せているらしい。弟で目と口が利かぬのだと男が告げると、衛士は「こんな時間から郷を出て大丈夫なのか」と問うた。

「へい。門外に馬車がありますので。そこで身内が待っております」

「納品の証書は」

「これに」

「税は」

「役所で納めてきました。納税証書はこちらに」

「――確かに。よし通れ」

「ありがとうございます」

 男が梶火の頭を掴んだ。深々と下げさせられる。そのまま歩き出した。闇の中を進んでいくと、ふいに足下の感触が変わった。土と砂利の感触だ。

「今大門を潜った。もうしばらくこのまま行く」

 耳元で囁いた言葉にこくりと頷く。一瞬振り返りたい衝動に駆られた。些末な不安と、熊掌ゆうひを思ったが、頭を一つ振るって先へと進んだ。

 凡そ直線と思われる状態をしばらく行くと、男が「よぉし、もういいぞ」と先程までとは違う柔らかい言い方で梶火の背中をぽんと叩いた。

 眼を開くと、梶火の目線近くに屈み込んだ男がいた。

 月人らしい白髪白眼。不精髭に覆われた顔からは四十越えかという心象を受ける。しかしこれは姮娥こうがの民だ。実際はそんなものではないのだろう。

 男はにっと笑うと、「後ろに乗ってくれ。後は気楽にしてくれて構わねぇからな」と梶火の後ろを指した。振り返れば荷馬車がある。見回せば郷の城牆じょうしょうからは既にかなり離れた場所にいた。小さな林の影に隠すようにしてこの馬車を置いていたようだ。大門が閉じるのが見えた。中から漏れ出ていた明かりが消える。

 男がふうと息を吐いた。

「これでもういいだろう。お疲れさん。いやしかし、外を知ろうと自分から出てくる五邑ごゆうってのも、なかなか出会いがたいもんだからなぁ。良い気骨きこつだ。梶火っつったか」

「それは通り名。いみなは紫炎だ。紫炎しえん。紫の炎と書く」

「諱の方でいいのか?」

「構わねぇ。別にお偉い血筋とかじゃねぇからよ。外ではこっちで通す。どうせむらじゃ俺の諱知ってる奴は一人しかいねぇから」

「親だけか」

「実親も育ての親も死んだ」

「じゃあ兄弟とかか」

 梶火はにっと笑うと、風防をぎ取った。

「命を預けた人間だ」

「ふん、まあいいか。とりあえず乗れ。話は道中でいいだろう」

「うん」

 後ろから荷馬車に乗り込む。ほろの裏にはおおいの布が掛けられていた。それをまくり上げ中にい上がろうとして梶火は動きを止めた。

 その中には、既に別の人間が一人いた。こちらは梶火よりやや年長かと思われる容貌をしていた。これも薄緑色の肩掛けを口元まで巻いている。それでも見て取れる痩せた体。長い手足。白い眼。結い上げた髪は――赤褐色をしていた。

「あんた……」

「まずは紹介状を」

 予想より高い声に一瞬面食らった。手を伸ばしている。意味を理解した梶火は、慌てて懐に腕を突っ込み、儀傅ぎふから預かった書簡を取り出した。赤褐色髪の主は意味ありげな視線で書簡を受け取ると、内容にざっと目を通した。再び、ちらと視線を寄越す。そして「道中の無事を祝おうか。梶火」と言うと、ふっと笑った。少しだけ皮肉気に。

「梶紫炎でいいってよ」

 横から梶火を連れてきた男が口を挟む。赤褐色の主は眼を少し丸くしてから、「そうか」とだけ呟いた。

「儀傅からの書簡でも聞いていたけど、八咫やあたの連れだそうだな」

「あんた」

騎久瑠きくるだ。薜茘多へいれいた食人精気じきにんしょうき

「ん?」

 聞き慣れぬ言葉の羅列られつとしか思えないそれに小首をかしげていると、御者台で体勢を整えていた不精髭が横から口を挟んだ。

薜茘多へいれいたは氏族名。大抵薜茘多へいれいたの民って言われる。食人精気じきにんしょうきは家門。名が騎久瑠」

 つまり、五邑の瀛洲の梶紫炎、というくくりと理解すればよいか。

「前から思ってたんだが、あんたらどうやって書簡のやり取りやってたんだ? 儀傅の話を聞いてる限り、相当頻繁ひんぱんにやり取りしてるだろ。そんなことして目立たないのか?」

 騎久瑠は膝を抱え直す。

「問題ないな。空間をひずませるから青星せいせいには見られん。そこを使役鬼しえききが飛ぶから、そいつに運ばせる」

「使役鬼?」

「魂魄のようなものだよ。空間を抜けて飛ぶし、そもそもこいつらは青星の目には見えない存在だ」

「さっきもなんか青星せいせいって言ってたな、なんだそれ」

「姮娥側からは大き星が見えるだろ? 妣國ははのくに側からは見えないんだよ。から姮娥に変わったと言われても中身の民が変わる訳でなし、白の民だの月の民だの改称されても今更しっくり来ないんだ。今じゃ五邑ごゆうもいるしな。だから、こちら側をまとめて表す時には青星と呼ぶ」

「騎久瑠ぅ、紫炎。そろそろ出すぞー?」

「わかった。出して」

 ぱちんとむちの音がする。がたん、と荷馬車が進みだした。

「おい紫炎、旅券は騎久瑠に渡しといてくれ。杖はその辺りに適当に。俺達は青星と妣國との混血なんだよ。紫炎は、俺達の事は知ってるか? 五邑はほとんど邑の外の事は知らんだろ」

 梶火はしばらく間を置いてから頷いた。

「多少の事情は儀傅ぎふと邑長から聞いてる。妣國とは昔、白の時代に戦争してたって。これが白皇側から吹っ掛けた戦争で、如艶が白皇を弑逆してこれを停戦させたって。その戦争の間に両国から抜け出た者達が交じり合って、国境あたりの不干渉地帯に増えて定住した。それをまつろわぬ民って言うんだって」

「まあおおむね正解だな。俺も騎久瑠と同じく薜茘多へいれいただ。見た目はほぼほぼ青星だがな。俺は薜茘多の熾燃しねん。名は紅炎こうえんだ。何の因果か、実際弟がいる。弟の名は青炎せいえんだ。俺達を足したらお前の色になるな。お前に使わせた旅券は弟のを借りてきたんだ。失くすとぶっ殺されるぞ。弟は気が荒いからな」

 梶火は、静かに首から旅券を外すと騎久瑠に手渡した。手渡しながら、やや上目遣いにその赤褐色の髪の主の目をじっと見る。

「ところで――ちょっと聞いていいか」

 問う梶火の目を騎久瑠も見返す。

「なんだ」

「騎久瑠。あんた女か?」

 騎久瑠は大きく表情を変える事もなく、口元を更に肩掛けで深く隠した。

「知る必要がないから見て分からないんだろう?」



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